【11】
週末、休日の図書館では、時間をもて余したインテリたちがぽつぽつと自分の時間を満喫していた。壁際の机や辺りに設置された丸テーブルに付いて、分厚い本を開いている。誰も彼もが静かに本の世界に浸っていて、身じろぎもせずに開いたページと向かい合っている。
皆、空想の世界に浸っているのだろう。それを邪魔する音も、存在も、この空間にはない。静寂は彼らを現実の世界から隔離する。目前の本にかじりつく人々は、まさに本の虫と呼ぶに相応しい有り様だったし、この場所はそんな彼らのための場所である。
活発盛りなフィオンは、自分はこの場に酷く場違いだと感じていた。空間になじめず、妙な疎外感を感じながら、手にしていた分厚い本を不意に閉じて大きなあくびを掻いた。
図書館の分厚い本には、学校の教科書に書かれたそれよりもずっと細かい文字がずらりと並んでいる。彼が手にしていたのは児童向けのファンタジー小説だったが、それでも彼には難しい内容だったようだ。別に読めないことは無い。ただ、普段見かけないむつかしい言葉づかいや表現は、彼の頭を疲れさせた。
眉間がぴくぴくしているのを感じて、フィオンは額を擦った。目が疲れている。こんなに文字と向き合ったのはいつ以来だろうか。時計に目をやると、ここを訪れてからまだ一刻ほども経ってはいない。だというのに肩は凝り、目が乾く。自分にインテリの真似事は無理そうだ。そう思っていると、ふと父の顔を思い出した。一日の大半を細かな文字と向き合って過ごしていることを思うと、大層不憫に感じた。
「どうか、されましたか……?」
向かい側に座る少女が首をかしげた。二つに束ねられた長い小麦色の髪が、動作にあわせてふりふりと動く。フィオンは髪の毛の先に目を奪われつつ、二ふりの髪の動きに釣られるように首を振り、答えた。
「いいや、別に?」
そっけなく言うと、フィオンは慌てて妹から視線をそらした。疲れた目で瞬きを繰り返す様を、真正面から見られたくはなかったのである。
フィオンが本を読んでいた理由は、無論この少女にある。今日は遂に迎えた彼女の誕生日。本人は何も知らず、なに食わぬ顔をしているが、フィオン達は家族揃い踏みでこの日を祝おうと決めたのだ。そのためにもフィオンは、課せられた役割通りに彼女を誘ってここへと来た。彼女に声を掛けて外出することは、アリッサを説得することとはまた別の難しさがあった。シンディに手伝ってもらわなかったら達成できなかったかもしれない。
アイリュスを図書館へ案内したため、その延長で、フィオンは必然的に図書館で時間を過ごすことになった。
アイリュスは上機嫌である。前回来ることが出来なかった図書館に来て、しかも本を読み放題なのだ。彼女が読む本は、フィオンでは内容の把握さえ出来ないほど難しいものだったが、そんな本に延々と向かっていられる時間に強い喜びを感じているようだ。フィオンには計り知れない喜びである。
二人きりで過ごすということで、フィオンは変に意識してしまって、なんだか落ち着かなくてそわそわしていた。足をぶらぶら揺らして見たり、周囲をきょろきょろ見回してみたり、意味もなく体をゆすってみたり。
あまりに落ち着きがないものだから、付近の椅子に腰かけた老婆が、巣穴を荒されたクマのような鋭い睨みを聞かせて脅してきた。ただ、フィオンはそれどころではなかったので、視線に気が付くことすらなかった。
だが、ものの数分でフィオンのそわそわは収まることになる。この静かな空間で、身じろぎもせず過ごさなければならないことに気がついたのは、彼女が本を開いて、辺りにいる頭の良さそうな連中と同じ雰囲気を醸し出した頃だった。
暇をもて余したフィオンだったが、今まで見せたこともない真剣な表情で本に没頭する妹を見て、なるべく静かにすごそうと心に誓った。今話しかけたり、冗談をしたりするのは邪魔になるのだと悟ったのだった。落ち着きの無い仕草を取るのも賢明では無いと知り、取り立ててすることのないフィオンは、椅子に深く腰掛けてぼうっと時間の流れるに任せるのだった。
何もせずに考える時間は、彼に色々な思考をさせた。その最中でフィオンは、何もせず彼女を眺めていたのでは兄としてどうなのだろうと自問するに至った。しばらく何をしようと考えを巡らせた結果、彼はアイリュスの真似をして少し賢そうなことをしてみようと思い至り、手近にあった分厚い小説を手に取ったのだった。
本に対してのフィオンの関心は、正直なところ薄い。ちょっとずつ興味を持てればいいな、と思っていると言う程度のものでしかない。しかし、彼女と流暢に会話するには、本は良いツールとなるだろうと感じていた。また、目の前に好ましい外見の少女(残念ながら妹であるが)を迎え、その隣で本を開く。そんな自分の状況に、多少愉悦を感じていた。
フィオンは再び本を開いて、無数に待ち受ける文字の海へ飛び込んだ。これを苦とならないようになれなければならないと、フィオンは心で小さな決意をしていた。
しんと静まった空間は嫌に広く感じられる。普段のフィオンなら、こんな雰囲気の空間には小一時間も留まってはいられなかっただろう。活発で遊び盛りな子供には、こうした静かな空間は少々退屈なものだ。
周囲に居る人々を見ると、眼鏡をかけた中年の紳士や、もっと高等な学校に通う年上の学生たちといった本と接する機会の多そうな人間ばかりである。そんな中に自分が紛れ込んでいることに、フィオンは少しばかり不思議な思いをしていた。
フィオンはふと、再び本から目を外すと壁にかけられた時計を見やった。先ほどから十分ほどしか時間はたっていない。手元にある小説は、確かに内容は面白いのだが、没頭して読むという行動は、外を全力で駆けまわることよりも疲れるし、なにより眠気を誘う。
額を手で覆って、フィオンは思いを巡らせた。今ごろ煩いシンディや優しいコーネリア、それから優雅な老人バトラーは、アイリュスを祝う準備を進めている。自分はこうして、アイリュスを外へ連れ出すことでそれに貢献はしている。だが、やっていることは、こうして座っているということだけだ。直接的になにかしてやっているような、そういう気は全くしない。
何か他に、彼女のためにしてやれることはないだろうか。フィオンは手のひらで目を覆って、ぼうっと考えた。
「フィオンお兄様?」
不意にかけられた声に驚いて、フィオンは椅子から跳ね起きた。
「ど、どうかした?」
「いえ……、閉館時間に近いので伝えようと思って……。」
フィオンが時計を見やると、時計は午後4時半を示している。週末の閉館時間は午後五時だが、回りを見渡してみると、だいぶ人影は減ってきているようだった。件の老婆も、既に帰った後だった。
「……寝ちゃってたのか、おれ。」
フィオンは腕を組んで唸った。多少本を読んだ程度で眠ってしまうなんて、どうしたことだろう。日頃の勉強嫌いが過ぎただろうか。
フィオンは少しばかり危機感を覚えた。あの忌々しいアリッサは、本を読むことはとても好んでいた。手に取ったこの本よりも、ずっとずっと難しい本を読み漁っていた。その点に関しては、彼女を見習うべきかもしれない。あの嫌味で意味の難しい、人を馬鹿にするために使われる煩わしい言葉は、そういった難しい本から吸収したものなのだから。
「あの、驚かせてしまいましたか……? お休みを邪魔してしまいましたでしょうか……。」
アイリュスはしゅんとして言った。それに対して、フィオンは微笑を浮かべてみせた。
「いや、そんなことはないよ。ありがとう。むしろごめん、寝ちゃってさ。」
フィオンは目伏せがちになっているアイリュスをまじまじと見つめた。この少女は人をよく気遣う子だが、少々後ろ向きになりがちなところがある。だから、そんな時は笑って見せて、安心させてやると良いのだ。……と、母コーネリアは言っていた。
フィオンの言葉をどう受け取ったか、アイリュスは眉をひそめて控えめにお辞儀した。その律儀なしぐさに、フィオンは首を傾げた。この丁寧な動作は、単に彼女の性格だろうか。それとも、自分に気を使っていることの表れだろうか。まだ、自分は信用はされていないのだろうか。
母に言われて思ったが、フィオン自身も怒られたり、嫌なことがあったとき、母が笑って相手をしてくれたことで救われたことが何度もあった。自分も、そういう存在になれているだろうか。なってやりたい。
アイリュスに見せた笑顔を見せる裏で、フィオンは微かな不安を感じていた。不器用な自分のことだから、きっと母ほどうまくやれているわけはないのだ。自分は家族として、もっと何か出来るはずだ。具体的に何とは浮かばないが、きっと。
自分の不器用さがこれほど恨めしく感じられたことはなかった。
「行こうか、アイリュス。」
フィオンは手に持った本の栞を取り払うと、椅子から立ち上がった。シンディに言われた約束の時間には、まだ少し早い。
本を棚に戻しながら、アイリュスを見やる。自分の肩ほどまでの身長の、小さな少女にしてやれることはなんだろうか。試行錯誤をしていると、視界に窓の外の景色が映った。窓越しに彼女の頬を赤く染める、山に身を半分埋めた大きな夕日を見て、フィオンはあることを思いついた。




