第十二章 昔日との別離(3)
「もうひとつの仕事の方なら心配はいらないよ。もうやってないから」
「どこまで本当かしらね」
「本当だよっ!! だって約束してもらったもんっ!! 二度としないってっ!!」
「まあその証拠に最近は噂も聞かなくはなったけど」
「信じてよ、マリンお姉ちゃん。もうお姉ちゃんたちが歪み合うのは見たくない」
皮肉な口調を崩さないマリンに、フィーリアが泣き出しそうな眼で訴える。
マリンは苦い気分で顔を背けた。
本当はマリンだって昔みたいにエルと接したい。
できなくなったのはアベルが昏睡状態に陥っていたことが原因だ。
あのとき、マリンはエルを責めた。
傍に付き添うことすらしないエルを。
もうアベルを許してもいいんじゃないかと。
だが、エルは最後まで突っぱねた。
それから現在までアベルが長期間寝込むことになっている現実を思えば、マリンは無条件にエルを許す気にはなれなかった。
「フィーリアは……幸せね」
「マリンお姉ちゃん?」
「だれからも大事にされて汚い現実も見ないで済むんだもの」
「わたしがなにも知らないって言うの?」
「そうね。知っていたらエル姉を許せるわけないもの」
「だったら隠さないで教えてっ!! 間に立ってるわたしだって辛いんだからっ!!」
「じゃあアベルが意識不明の重体だったとき」
「お兄ちゃん?」
「エル姉が付き添わなかったこと、フィーリアは疑問に思わなかった?」
「えっとそれは……」
今になれば疑問に思うが、当時のフィーリアにはどうでもいいことだった。
エルが付き添おうと付き添うまいと、フィーリアが付き添っていたいから、アベルが心配だから付き添った。
それだけでいいと思っていたから。
でも、そうだ。
確かにあの場面でエルが付き添わないのは変だ。
「わたし、エル姉にぶつかったのよ? もうアベルを許してもいいんじゃないって」
「許す? どういうこと? お兄ちゃんがお姉ちゃんになにをしたっていうの?」
「なにもしてないわ」
「マリンお姉ちゃん?」
「ただエル姉が恨んでいる立場にアベルが産まれただけ。それだけよ」
さすがに言葉が出なかった。
確かにエルは貴族がキライだ。
ケルトが王だとわかったときの態度からもわかるように、宰相とか国王とか王女とか、そういう頂点にいるべき者はもっとキライだ。
アベルは次期国王という立場にいる。
エルが1番キライな立場に産まれたのだ。
だから、エルはアベルが許せなかった?
彼の生命が危ないときですら?
「そんな立場に戻る気もなかった彼が、戻らなければならなくなったのはだれのため? だれのためにアベルは死にかけたの? だれのために重責を背負う覚悟をしたの?」
「嘘」
それが事実なら確かに事情を知っていれば、エルを許せるわけがない。
身勝手なのはエルの方だから。
「それでもエル姉は最後まで突っぱねたわ。もうアベルを許して付き添ってあげてほしいって、何度わたしが頼んでもダメだった」
「マリンお姉ちゃん」
「ねえ、フィーリア。あなたはこれでもエル姉を許せるの? 悪いのはアベルだって思うの? あなたも?」
同意も反論もできなかった。
アベルが悪いとは思っていない。
悪いのはエルだと思っている。
でも、正面からそう言えない。
それが妹分というフィーリアの立場だった。
「事情を知っても、きっとあなたの態度は変わらない。変われない。だから、教えなかったのよ。それにあなたとエル姉が仲違いすることは、たぶんアベルは望まないから」
「そうだね。お兄ちゃんはそういう人だよ」
「アベルね。つい最近まで寝込んでたの」
「あれからずっと?」
コクンと頷かれ胸が痛くなった。
「今は全快してるはずだけど、あれからずっと寝込んでたのよ。半年よ? 半年も寝込むほどアベルは無理をして危険な橋を渡ってた。エル姉のためにね。それを思うとわたしはエル姉を無条件に許せなかった。それだけよ、フィーリア。ごめんなさいね?」
仲違いすることでフィーリアに負担をかけることを謝られたが、フィーリアにはもう責める言葉は言えなかった。
聞いたことがすべて事実なら、辛かったのはマリンも同じだろうから。
マリンはふたりの幼なじみだった。
マリンにとってもエルは姉代わりだったのだ。
なのにそんな姿を見せ付けられて辛くないわけがない。
フィーリアは幸せね……そう言われた言葉が今頃、胸を刺す。
自分がどれほど真実を知らずに、偽りの毎日の中で平穏に浸っていたか自覚して。
教会を振り向いた。
そこにいるエル姉を思い出して。
マリンの眼も教会に向いている。
ふたりとも言葉を発しなかった。
ふたりが口を噤んでどれくらい経っただろう?
不意にマリンがハッとしたように息を呑んだ。
「マリンお姉ちゃん?」
「あれは王家所有の馬車?」
突然の言葉にフィーリアも視線を向ける。
優雅に駆けてくる白馬に引かれた馬車。
フィーリアが初めて目にする豪華絢爛な馬車だ。
その様子に近隣の人々も何事かと集まってきている。
「ねえ、あれってよく王様が視察のときに乗ってる馬車なんじゃ?」
「えっ?」
「じゃあ王様っ!?」
「でも、まさかこんな下町に」
人々が噂している中、マリンとフィーリアは顔を見合わせた。
心当たりはひとりしかいない。
そう。
アベルしか。
レイティアたちだと思うには必然性に欠けている。
アベルがくるならわかるが、少しの間孤児院に居候していただけの彼女たちが、アベルもいないのに勝手にくるというのはすこし解せない。
ふたりが固まっていると教会からシドニー神父とシスター・エルが出てきた。
「何事かな?」
「神父様っ!!」
「王様の馬車がこっちにくるよっ!!」
近所の主婦たちの声にシドニーが怪訝そうに視線を向ける。
エルは強張ったまま声を発しなかった。
やがて人々が見守る中で馬車は孤児院の前で止まった。
子供たちが興奮したようにシドニーやエルにまとわりついている。
やがて姿を現したのは予想に反してレティシアだった。
どちらがどちらなのかの区別は、だれにもできないのだがアベルではないことは確か。
フィーリアはキョトンとし、エルはホッと安堵した。
ただマリンは慌てたように執務に復帰し、馬車に駆け寄ってシドニーは眉をしかめた。
「お嬢さんは確か……レティさん?」
「お久し振りですね、シドニー神父様。あの節はなんのご挨拶もせずに辞して申し訳ございませんでした」
お辞儀してからマリンを振り返る。
「すぐに姉様も参られるわ。マリン。出迎えてあげて頂戴」
「畏まりました」
馬車から白い手が出たところで、マリンは言われた通り恭しくその手を取った。
優雅にレイティアが姿を現す。
その時点でシドニーはようやくふたりの正体に合点がいった。
「まさかレイティア王女様とレティシア王女様?」
「嘘をついていてごめんなさい。社会勉強のためのお忍びの滞在だったの」
そう言って微笑むレイティアにシドニーは青ざめる。
「ではお父上だと名乗っていたあの方は……」
「はい。父です。父からもお世話になったお礼をするように申し遣っております」
レティシアが無邪気に肯定する。
呆気なく国王だと認められ、シドニーはどこで倒れようかと、密かに悩んだ。
「ふたりとも無邪気な顔してえげつないというか」
「従兄さま」
「ひどいです」
ふたりに文句を言われながら、ゆっくり最後に姿をみせたのは、やはりアベルだった。
シドニーの眼が見開かれる。
よく似た別人かと思うほど雰囲気が変わっている。
いや。
戻っているのだ。
孤児院にきたばかりの頃の「アルベルト」だった頃に。
「シドニー様」
「アベル……かい? だが、しかしその姿は……」
「俺は確かにアベルですよ。ただもうあの頃の吟遊詩人のアベルじゃありませんけど」
「なにがどうなって」
混乱しているシドニーの肩にアベルが両手を置いた。
「挨拶が遅れてごめん」
「アベル」
「勝手に居なくなってごめんなさい、シドニー様」
そう言ってアベルはシドニーに抱きついた。
これが最後だと思うから。
シドニーは戸惑ったようだが、しっかり抱き止めてくれた。
「俺の本当の名前、シドニー神父だけは知ってますよね」
「ああ。アルベルト、だろう?」
「はい。俺の正式名はアルベルト・オリオン・サークル・ディアンと言います。俺は前王の子です」
「……前王様の子供?」
「だれにも知られていない、知られてはいけない存在でした。だから、身分を変え名を変えて暮らしていました。あなたの元で暮らし教えられたことすべて、これからの生活で活かしていくつもりです」
「まさか王になるのかい?」
「はい。いつになるのかわからなくても俺は王になります。この継承権を腕輪が示す通りに」
シースルーになった左腕に覗いている腕輪を示すアベルに、シドニーは深々と長い息を吐いた。
「やはり名のある家の子息だったか」
「シドニー神父?」
「薄々そんな気はしていた。孤児院にきた当初も、とてもこんなところにくるような子供には見えなかったし、なによりもその腕輪が証明するように、普通の生まれのようには見えなかったから」
何れ離れていくだろうと覚悟をしていたと言われて、アベルは震える唇を噛む。
「俺はここで育ったことを誇りに思っています」
「囚われてはいけないよ、アベル」
「シドニー神父」
「確かにここで育ったことは王として生きていくために、きみにとってとても大事なことだろう。けれど、それにのみ囚われてはいけない」
「はい。価値観はひとつではない。そういうことですね?」
「そうだ」とシドニーは頷いた。
「百の眼をもつなら千の耳を持ちなさい。流されずどっしりと構えていられる大樹になりなさい。たったひとつの価値観に縛られることは愚かなこと。価値観なんて人様々。決してそれを押し付けてはいけない。わかったね?」
「最後の教えですね。肝に銘じます」
アベルとシドニーのやり取りを、エルは苦い気分で聞いていた。
価値観はひとつではない。
自分の価値観を人に押し付けてはいけない。
なんだか自分に言われた気がしてエルは顔を背ける。
「アベルお兄ちゃん」
「王子様?」
孤児院の子供たちがきょとんとアベルを見上げている。
アベルは屈み込むとひとりひとりの髪を撫でてやった。
「頑張って大きくなれよ。俺はもう傍でみることはできないけど、いつもみんなが幸せに暮らせるように努力するから」
「あのアベル坊が王子様、ねえ」
「でも、ちょっと。アベルって19じゃなかった?」
「えっ!?」
「来年結婚っ!? ロイヤルウェディングっ!?」
人々が仰天している。
世継ぎは20歳に結婚すること。
それはある程度の年齢の者にはよく知られた掟だったので。
指摘されたアベルは困惑顔だ。
フィーリアは泣き出しそうにアベルを見ていて、エルはどこか悲しそうな目を向けている。
だが、言葉が交わされることはなかった。
アベルは声を掛けたかったのだが、野次馬が多すぎてそんな暇が作れなかったのだ。
野次馬の数が多すぎて、これ以上は危険だと判断したマリンを始めとする護衛たちに、アベルたち3人は強引に馬車へと連行された。
馬車からアベルはじっとフィーリアやエルに視線を向けていたが、結局言葉を交わすことはできなかった。
出発のときですらふたりから笑顔は見られず、アベルはなにも言えずにそんなふたりを見ていることしかできなかったのである。




