囲碁セット【レイヤーケーキとラズベリーコーディアル】
「やってる?」
「……どこのサラリーマンだ」
おっさんが居酒屋の暖簾から首を出すような感じで、ドアの隙間から瑞穂がぬっと顔を出していた。
「客はいなくても一応やってるぞ」
「じゃあレイヤーケーキとラズベリーコーディアルね」
「あいよ」
シャレた注文だ。
おそらく誰かのマネだろう。
レイヤーケーキはジャムやゼリー、生クリームやフルーツなどを挟んで層にしたもの。
日本のショートケーキもレイヤーケーキの一種だ(国によってはショートケーキのことをレイヤーケーキと呼ぶ)。
ラズベリーコーディアルはラズベリーを濃縮した飲料だ。
「コーディアルをケーキにかけるのか?」
「違うわよ。炭酸で割って飲むの」
コーディアルがなにかはちゃんと理解しているらしい。
濃厚なのでシロップのようにすることも多いのだ。
「ケーキに挟むジャムは何にする?」
「ゼリーがいいんだけど」
「ゼリー?」
「それも赤いゼリーね」
ピンときた。
「『赤毛のアン』だな」
「そうそう」
「ネタがわかれば話は早い。コーディアルは初めてダイアナをお茶会に誘った時に出そうとしたジュースだよな?」
「? それ以外になにがあるの?」
「いや、俺が夏休みの読書感想文で読んだバージョンだと、ラズベリーコーディアルなんてシャレた名前じゃなくて『いちご水』だったからな」
「ラズベリーだから木いちごなのよね。私もよくわからなかったから調べたんだけど」
翻訳された年代や、翻訳者によってこういう食べ物の描写は大きく変わってしまう。
翻訳小説が嫌われるのはこういう所だろう。
レイヤーケーキは牧師夫妻にアンが出したスイーツだ。
瑞穂が『赤いゼリー』と具体的な名前を出さなかったのは、原作でも赤いゼリーとだけ記されていてなんのゼリーを使ったのかわからないからだろう。
コーディアルと合わせてゼリーはラズベリーにしたほうがいいのかもしれない。
これも赤いから文句はないはずだ。
室温で戻したバターに砂糖、牛乳にヴァニラ、そして薄力粉とベーキングパウダーを混ぜてスポンジ生地を成形し、オーブンへぶちこむ。
焼くのは慣れているのだが、焼き加減が気になってどうしても小まめに中をのぞいてしまう。
アンはレイヤーケーキを上手く作れるか不安になるあまり、レイヤーケーキの顔をした鬼に追いかけ回される夢をみたらしい。
それと似たような心理だろう。
「もう少し時間かかるぞ」
「対局してればあっという間でしょ」
「それもそうだな」
適当なところでエプロンを脱ぎ、盤に駒を並べようとすると、
パチン
「……なにしてる?」
「囲碁だけど?」
いつの間に取り出したのか。
碁笥から碁石をつまみ、将棋盤に打ちつけていた。
「囲碁なんか打てんぞ」
「打てないから囲碁なんでしょ」
「は?」
「あんたはこっちね」
強引に碁笥を渡される。
付きあわざるを得ないようだ。
「……念のために言っておくが。これで勝ってもタダにはしないからな?」
「えー」
こいつ、やっぱりそのつもりだったのか。
たぶん俺に勝つためだけに囲碁を勉強したのだろう。
なんでこういうことには努力を惜しまないのか。
「なら石取りゲームね。相手よりも先に既定の数の石を取ったほうの勝ち。今回は3個ね」
「おう」
細かいルールは知らなくても、相手の石を囲めばその石を取れることぐらいは知っている。
●
●○● 前後左右を囲めば取れる 斜めはいらない
●
石取りゲームというからには、囲碁の細かいルールは省いて石を取ることだけに集中するゲームだろう。
「囲碁は19×19の19路盤、ようするに縦横に19本の線があるのを使うのが本式なんだけど……。これは9×9『マス』の将棋盤だから、囲碁に換算すると10路盤ね」
「本式よりも線が少ない分だけ初級者向けだな」
「そうね」
碁石を将棋盤に打って対局開始。
序盤から小細工なしに囲いにいくとノータイムで応じられた。
素人相手なら考えるまでもないということか。
舐められてなるものかと手を進めるものの、
「端のほうに打ちすぎ」
「囲碁って初手は四隅に打ってるイメージなんだが、駄目なのか?」
「駄目よ。相手の石を取るには四方を囲まないといけないわけだけど……。盤の隅なら二子で済むし、辺なら三子で囲えるでしょ」
端端端 端端端
端○● ●○●
端● ●
「あー、端に打つと少ない手数で石を取られるのか」
「そういうこと。考え方を変えれば、相手を端へ追いつめればいいわけ」
「ぐ!?」
端へ追い込まれる。
例1 端の方から攻めた場合
端端 端端 端端端
● ●
○● → ○● → ○○●
● ● ●
※端から攻めると横に逃げられる
例2 端へ向かうように誘導した場合
端端 端端端 端端端 端端端
○ ●○
○● → ●○● → ●○● → ●○●
● ● ● ●
端端端 端端端端
●○○ ● ●
→ ●○● → ● ●
● ●
あえなく端で殺され惨敗を喫する。
「くそ、もう一局だ!」
「何度やっても同じよ」
今度は端に気を付けて石を打つものの、
「それはシチョウね」
「死兆星?」
「説明するの面倒くさいから体で味わいなさい」
猛然と囲いに来た。
囲われまいと石を繋ぐ。
逃がすまいと阻まれる。
繋ぐ。阻む。繋ぐ。阻む。繋ぐ。阻む。
「……待った」
「待ったなし」
いずれ端に追いつめられて俺の石は死ぬ。
繋げば繋ぐほど多くの石を取られるわけだ。
※シチョウの例 逃げるほど石を取られる
●
● ● ○● ○●
○○● → ●○○● → ●○○● → ●○○●
●● ●● ●● ●●
● ●
○○● ●○○●
→ ●○○● → ●○○●
●● ●●
「もう一局!」
チン
「後でね」
「ぐ……」
絶妙なタイミングでスポンジが焼き上がった。
仕方ないのでオーブンを開け、ホカホカのスポンジを幾重にもスライス。
サッと間にゼリーを挟み、砂糖がけして切り分けた。
皿は茶色い陶器。
アンは薔薇の文様が入った磁器を提案したものの、養母マリラの許可が下りず、やむなく陶器にしたのである。
「お待ち」
満を持して出来立てのレイヤーケーキと、炭酸水で割ったラズベリージュースをテーブルに並べた。
すると何を血迷ったのか、
「くんくん」
匂いを嗅ぎだした。
「……アンみたいにジュースと葡萄酒を間違えたり、ヴァニラと痛み止めの薬を間違えたりしてないから安心しろ」
「気が利かないわね」
なんという理不尽。
シチュエーションまで再現してほしかったらしい。
「……未成年に酒出すわけないだろ。そもそも客に薬なんて盛ったら裁判ものだろうが」
「それもそうね」
ちなみにヴァニラエッセンスと痛み止めの薬を間違えるエピソードは、原作者モンゴメリの実体験である。
「いただきまーす」
豪快にフォークをぶっ刺し、大口開けてケーキをむさぼる。
「……思ってたのと違う。あ、いや、美味しいのよ?」
「フォローはいらん。思い出は美化されるもんだ」
子供の頃に憧れた食べ物を実際に食べてみると、期待よりもあれでがっかりする大人は少なくない。
期待値が高すぎるが故の悲劇だ。
仕事柄、再現レシピを作ることが多いからより一層それを強く感じる。
「よし、もう一勝負だ」
「はいはい」
ある程度のパターンは学習できたので、そう簡単には石を取られなくなった。
なんとか一矢報いようとするものの、
●○
● ●○
●○
「げ、同型反復!?」
白が黒を取り、黒が白を取り返し、白が黒を取り返し……と同じ形を反復することになる。
「将棋でいう千日手だな。囲碁のルールだとこの場合どうなるんだ?」
「囲碁では無限反復のことを劫って呼んでるんだけど……。囲碁界では最初から打ち直すのが嫌みたいで、劫になったら別の場所に一手打たないといけないの」
「その一手で隙間を潰されるってことか」
●○
● ●○
●○
●○
●○ ○
●○
●○
●○ ○ ●
●○
※劫で石を取られても取り返してはいけない
別の場所に打たないと反則
●○
●○○○ ●
●○
※別の場所へ打っている間に隙間を埋められてしまう
「じゃあ俺は別の場所に打たないといけないんだな」
「別に反復してもいいのよ?」
「は?」
「だってこれ囲碁じゃなくて石取りゲームだもの」
「あ、勝利条件が違うから無限反復にならないのか!」
「そういうこと」
先に石を3個取ったほうの勝ちなので無限反復にはならない。
つまり千日手が成立しないのだ。
これで瑞穂の石を取り返すことができる。
「……って、反復したら先に俺が石を三個取られて負けるだろうが!」
「ちっ、気づいてしまったわね」
「当たり前だ」
危うく反復して二個目の石を取られるところだった。
……まあ、反復を回避したところで先に石を3個取ることはできなかったのだが。