将棋セット【利休饅頭と濃茶】
「名人戦したい」
「名人戦?」
「持ち時間9時間」
「……正気か? 日をまたぐことになるぞ」
1人の持ち時間が9時間なので、対局時間は18時間以上になる。
1日では終わらないから、どうしても2日制になる。
「一度やってみたかったのよね、封じ手」
「なるほど、それでか」
日をまたいで将棋を指す場合、手番の棋士は1日目終了時から2日目開始時までじっくりと考えて指せることになるので有利だ。
その不公平さをなくすために1日目終了時に次の一手を決めて紙に書き、翌日まで封印しておく。
それが封じ手だ。
「封じ手って、何を指したか知ってる手番のほうが有利じゃない?」
「悪手を封じてしまったんじゃないかって眠れないこともありえるだろ」
「あー、そっか」
逆にあらゆる選択肢を虱潰しにできる方が有利とも考えられるし、選択肢がありすぎると考えることも多すぎて眠れないこともありえる。
一長一短だ。
「『走れメロス』の創作秘話を思い出すな」
「なにそれ」
「旅館で無一文になった太宰治は、走れメロスみたいに友人を人質にして金を借りに行くんだよ。でもいつまで経っても帰ってこないから、友人が探しに行くと先輩の家で太宰が将棋指してたんだ」
「は? なにやってんの」
「とうぜん友人はメロスのごとく激怒した。だが怒る友人をしり目に太宰はこう訊ねたらしい。『待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね』」
「自分は待たせておいて将棋指してるじゃない!」
「人間失格は伊達じゃないぞ」
ともかく『待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか』の太宰なりの結論が走れメロスというわけだ。
一応、先輩に借金の話を切り出しかねてやむなく将棋を指していたとはいわれている。
どっちにしろクズだが。
「じゃあ今日は6時に封じ手な」
「OK」
6時にタイマーをセットし、
『始め!』
萌えチェスクロックの野太い声で対局開始。
持ち時間が多いと時間の駆け引きはしにくくなるものの、しにくいだけで駆け引きができないわけではない。
すっ
「え?」
駒落ち将棋の定跡通りにゆっくり展開していたのを急に外す。
あまり好ましい展開ではないが、ここでは効果的だ。
考える時間は多いに越したことはない。
だが考えるという行為は非常にスタミナを消耗する。
「うう……」
特に狙いを外されると今まで考えていたことが無駄になり、1から考えなけばいけないので体力がごっそり削られる。
定跡や筋を外された場合は特に疲れる。
そもそも持ち時間が多いと長考しがちだが、長く考える義務はない。
むしろ考えすぎるのは逆効果だ。
持ち時間が多いと無駄に深読みしてしまう。
裏のない手に裏を感じてしまう。
誰がいったか『長考はミスの兆候』。
『時間を使って考えた手を指したくなる』のが人間心理。
考えたということは有力な手であり、最後までは読み切れないものの『いけそうな気がする』手である。
将棋では『一番最初に思い浮かんだ手が正しい』ことが多い。
ただし確率が比較的高いだけで正しい保証はなく、最初に思い浮かぶだけに比較的単純な手だ。
単純な手は指しにくい。
なので持ち時間が多いと他の手を考えてしまい、考えてしまったがゆえについその手を指してしまう。
持ち時間が多いからといって指し方を変えてはいけない。
あえて第一感を指す。
膨大な持ち時間を使いながら平凡な手を『指せる』。
それは簡単なようでいて、実はかなり勇気のいることだ。
これができないと難しい手ばかり指すことになり、破綻する確率が極めて高い。
「これでどう!?」
瑞穂が長考して自慢の一手を指してきた。
悪くない手だ。
俺たちのレベルでは正解といってもいい。
真綿で首を絞めるように、じっくりと確実に俺の玉を殺す一手。
しかしこの攻め方はきつい。
瑞穂の一手は確実性を重視するあまり、詰ますまでかなりの時間がかかってしまう。
この長丁場で集中力を維持するのは至難の業だ。
手数が多くなるだけ考える機会も多くなり、ミスする可能性も増える。
リスクが高くても最短手数で詰ませるように攻めるべきだった。
「一旦休憩しよう」
パチンと自分の手を指したところで休憩を切り出した。
「そういえば休憩では封じ手しないのね」
「手間かかるからな」
封じ手は昼食や夕食の休憩時には行わない。
プロの対局は持ち時間が多いのでどうしても休憩回数も多くなる。
封じ手は盤面図の記入や、ちゃんと記入されているかどうかの確認、開封作業などで無駄な手間がかかってしまう。
対局者も何を封じるか、相手が何を封じたかと余計な神経を使わねばならないため、タイトル戦以外で封じ手をすることはまずない。
「今日のおやつなに?」
「利休饅頭と濃茶だ」
眠気にはお茶に限る。
それもカフェインの多い抹茶がいい。
薄茶は茶杓で一杓半(2グラム)、濃茶は三杓。
薄茶と濃茶の名前のとおり、濃茶は濃厚でカフェインも多い。
おまけに濃茶は1つの茶碗で回し飲みするので今回は六杓だ。
それを少なめの水で練る。
濃茶を練る、薄茶を点てる、あるいはコーヒーの豆を挽くという単純作業は頭を空っぽにするのに最適だ。
利休饅頭は皮に黒砂糖を使った蒸し饅頭。
眠気も吹き飛び、糖分で脳が生き返って気分も爽快だ。
「うーん……」
一方の瑞穂は休憩中もずっと迷っていた。
俺の策がジリジリと効いているようだ。
『休憩時間は持ち時間に含まれない』ので手番の棋士は時間的に得をするものの、将棋盤から目を離して食事や休憩をすると集中力が途切れがちだ。
プロ棋士でもよっぽど特殊な状況でない限り、休憩時間のすべてを持ち時間につぎ込むことはないという。
こういう時に考えた手はどうしても甘くなるからだ。
素直に脳と体を休めた方がいい。
飛車・角の二枚落ちなので形勢こそ俺に不利なものの、精神的・肉体的にはこちらが圧倒的に有利。
さらにこっちには切り札が2つある。
最初の1つがこれだ。
「うーん……」
長考。
といっても考えるフリだ。
実は何を指すか、いつ指すかは既に決めている。
今はもう何も考えてない。
しかし対局相手はそう考えない。
俺が考えれば考えるほど瑞穂も考える。
俺が指すと決めた30分後まで永遠に考え続けるだろう。
これでだいぶ精神力とスタミナを削れる。
そして30分後。
パチン
「は?」
俺の平凡な手に意表を突かれ、瑞穂が長考する。
長考すると平凡な手を指しにくいように、長考されると平凡な手は来ないと思い込んでしまうのだ。
「うう……」
だいぶ辛そうだ。
だが手は緩めない。
それからさらに30分後。
タイムリミットも間近に迫り、満を持して最後の切り札を出す。
パチン
ジリリリリリ
「あ!?」
俺が指した瞬間にタイマーが鳴った。
驚く瑞穂を尻目に、笑いながら時計のボタンを押す。
「お前の番だぞ」
「ず、ずるい!」
「封じ手したかったんだろ?」
「ぐぬぬ!」
瑞穂はてっきり俺が封じ手をすると思ったのだろう。
既にタイムリミットは過ぎているが、持ち時間を使えば規定時間の後でも考えることはできる。
つまりタイムリミットぎりぎりのタイミングで指せば、相手に封じ手を強要し、持ち時間を削ることもできるのだ。
これが封じ手の駆け引きである。
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」
「うっさい!」
瑞穂は激怒した。




