スリッパ卓球セット【風呂上がりのコーヒー牛乳】
「あー、もうビショビショ!」
「ぐっしょりデス」
ゲリラ豪雨にやられたのか、二人ともひどいありさまだった。
「風呂入ってこい」
「はーい」
二人が風呂に入っている間に服を洗い、代わりのものを用意する。
「オー、ユカタ!」
「夏だしな」
「なにこの柄? なんで九段なの?」
「段位じゃないぞ。『九段坂』みたいに、地名の九段だ」
坂口安吾の著作『九段』、若き日の大山名人が九段になった時のエピソードいわく……
「ウチにちょうどよいユカタがあるよ」
と云って、婆さんが持ってきたのは、九段の祭礼用のお揃いのユカタであった。ちょうど九段の祭礼の前夜か前々夜に当っていたらしく、花柳街はシメをはりチョウチンをぶらさげていたのである。
(中略)
その女中が大山のユカタをとりだすために押入をあけたら、センタクしたばかりのユカタが一枚たたんで置いてある。私がまちがえて九段からきてきた祭礼のユカタだとは彼女は知らないから、大山のところへ持参した。
彼はことごとく驚いた。名人位にくらべれば九段などはさしたるものではないようだが、さて九段になれば、九段は九段、人々は祝福し、彼はそれに満足であった。しかしこんな細いところにマゴコロをこめて、九段昇段を祝ってくれる旅館があろうなどと想像していなかった。
「これ、いただいて帰っていいでしょうか。記念に持って帰りたいのですけど」
「ええ、どうぞ」
「光栄ですねえ」
大山君。怒りたもうな。誰のイタズラでもなかったのだ。人間のはかり知るべからざる天の意志が君の九段を祝福していたのさ。
様々な偶然が重なって生まれたエピソードである。
だからうちの浴衣は九段柄なのだ。
「それよりほら、湯上りよ湯上り。色っぽいでしょ?」
「そのアピールが色っぽくない」
「……あんたに聞いた私が馬鹿だったわ」
誰に聞いても結果は同じだと思うが。
「カフェラテを賭けまショー」
「たしかに風呂上がりにコーヒー牛乳は欠かせんな」
俺はまだ風呂に入ってないが。
「で、なんのゲームで勝負するの?」
「ユカタといえば卓球デス!」
「……私に勝ち目ないじゃない」
「じゃあ俺とアリスがやるから、負けた方は瑞穂の分も奢ることにしよう」
「OK」
「やった!」
ボロボロの卓球台を引っ張り出し、ラケットを手に取る。
「……なんデスか、そのラケットは?」
「スリッパだが?」
「これがジャパニーズスタイルよ」
「あんびりーばぼー」
アリスがカルチャーギャップに驚きながらも、嬉しそうにスリッパで素振りする。
「『バックハンド』には向きまセンね」
「そうだな」
スリッパにはつま先から足の甲を入れる部分、いわゆる『ハネ』があるので、ラケットの裏側で打つバックハンドには向かない。
打てないことはないだろうが、普通のラケットと同じ感覚でバックハンドを打つとあらぬ方向へ飛んでいってしまうだろう。
全てのボールをラケットの表側『フォアハンド』でさばかなければならないのだ。
ただ俺はバックハンドが苦手で、アリスもバックハンドが封じられる。
ある意味ラケットよりもスリッパの方が戦いやすいだろう。
俺が有利になるように、スリッパは入念にチェックしておいた。
卓球のラケットにはラバーが貼り付けられている。
貼るラバーの種類によって回転のかかり方や弾み方が違う。
もちろん俺のスリッパは一級品だ。
プレイする場所も重要になる。
さりげなく奥に陣取った。
「なんセットマッチにする?」
「1セット11ポイントで、3セットマッチにしまショー」
「OK」
好都合だ。
この卓球台はかなり年季が入っており、表面が凸凹している。
特にアリスのコートは酷かった。
起伏のある場所にボールが当たれば、どこにボールが跳ねるかわからない。
つまりイレギュラーバウンドによって俺の得点可能性が高くなる。
1セットごとにコートチェンジが行われるものの、1セットと3セットは俺が有利。
「サーブは俺からでいいか?」
「どーぞ」
さて、一番の問題はここからだ。
バックハンドを封じているとはいえ、フォアハンドの打ち合いで勝てるとも思えない。
ラリーが長くなるほどアリスの運動能力に競り負けるだろう。
そこでサーブだ。
いかにサーブで崩すか、サービスエースをものにするか。
それが重要だ。
ボールをのせた掌を完全には開かず、体をゆらゆらと揺らす。
そして手を台の上に移動させ、ボールを斜めにトスした瞬間にスリッパで叩く。
「っ!?」
アリスは対応できなかった。
「まずは1ポイント」
「うえいと」
「なんだ?」
「……反則しマシたね?」
「具体的に言われんとわからん」
「ほわい?」
「俺のプレイのどこがファウルなんだ? 詳しいルールを説明してもらおうか」
「うー!」
アリスが地団太を踏んだ。
なにがファウルかわからないのである。
卓球のサーブは決まりごとが多い。
ルールが多いということは、それだけ点を取れる反則が多いということだ。
アリスがどれだけ卓球のルールを把握しているかで勝負が決まると言っていい。
ちなみに掌を開かないのも、体を静止させないのも、卓球台の上でサーブを打つのも反則だ。
トスを垂直ではなく斜めや横に上げれば対応しにくくなるし、トスしたボールを落下中ではなく上昇中に打たれるとタイミングが掴めないからこれも反則である。
一つ一つは些細な反則でも、これだけまとめたら対応するのは難しいはずだ。
遊びでプレイしている程度では、これらのルールを全部把握していることはまずないのでその点でも安心。
「次はちゃんと指摘しろよ、なにが反則なのか」
まあ、素直にさっきと同じサーブをするわけがないんだが。
手を卓球台の下に移動させる。
そして手がアリスの視界から消えた瞬間にトスし、サーブを打ち込む。
「しっと!」
再び対応しきれずにサービスエース。
さすがに台の下からトスするのは反則だと気付いたが、それ以外の反則を指摘するのは難しかった。
指摘できたとしても、その間に俺が得点を重ねた。
「よっしゃ、1セットゲット」
「ぐぬぬ」
だが反則勝ちも長くは続かない。
アリスが俺の真似をしてファウルサーブを打ってくると、こちらも対応できないからだ。
得点を防ぐためにファウルを指摘せざるを得ず、ゲームが進むほど俺の反則サーブは封じられていった。
そうなると卓球の実力が物を言う。
「リバース!」
「なに!?」
いきなりバックハンドを打ちこまれた。
これは予想できない。
卓球には俗に『異質攻撃型』と呼ばれるタイプがいる。
表と裏に性質の異なるラバーを張り、フォアとバックで全く違う攻撃をして相手を翻弄、状況に応じてラケットを手の中で反転させて幻惑する戦い方だが……。
アリスはバックハンドを打つためだけにクルッとスリッパを反転させ、打ちこんできた。
戦い方の幅が広がり、徐々に押し込まれていく。
反転させる暇を与えなければバックハンドを封じることはできるが、バックハンドを封じるためだけにスピードを上げるのは自殺行為。
「サー!」
「ちっ」
凸凹の卓球台にも嫌われ、ボールがイレギュラーバウンドし、2セット目を落としてしまう。
ここまでは一応想定の範囲内だ。
コートチェンジで再びアリスが凸凹のコートに移動する。
それに手持ちの反則はまだあった。
体でボールやラケットの動きを隠しながら打つ『ボディハイドサービス』。
指でトスにスピンをかけて不規則な変化を起こす『フィンガースピンサービス』。
多種多様な反則サーブを駆使してなんとかリードを保つ。
しかし11点にはまだ遠い。
「上回転!」「下回転!」「横回転!」
「ぐ」
ボールに回転をかけられるのも厄介だ。
初級者にはさばくのが難しい。
特に横回転。
回転のかけ方によってフォームを変えるのが唯一の救いか。
あらゆるボールを同じフォームで打たれていたらお手上げだっただろう。
難しい球は打たずに返す。
無理に打ち返すとミスをする可能性が高い。
打ち返すのではなく、スリッパに当てて返すだけ。
課題は攻撃だろう。
いくらこちらが強く打ちこんでも、左右に振っても、アリスは的確に拾ってしまう。
卓球の基本は『三歩動』だと聞いたことがあるが、アリスは一歩で飛ぶように球に食らいついた。
俺とではフットワークの質が違いすぎる。
アリスの横を抜くのは容易じゃない。
極めつけは『ライジング』。
凸凹によって俺の打球は右に左に、斜めに、上にとランダムで跳ねるわけだが、アリスはボールがバウンドした瞬間にスリッパを合わせた。
ボールがバウンドして上昇している最中に叩くことをライジングと呼ぶ。
不規則に跳ねるボールも、バウンドした瞬間に叩けば影響は最小限に食い止められる。
野球と同じだ。
目の前で100キロを超える打球が予測不能な方向に跳ねてしまうとプロでも反応できない。
だがボールがバウンドした瞬間に合わせてグラブを出せば、球が見えなくても勝手にグラブに入るのだ。
しかもライジングの厄介なところは、バウンドした瞬間に叩くことで相手の力を利用したカウンターショットになること。
ライジングを打ち返しても、ライジングによってボールは加速しており、ラリーが速くなってしまう。
そうなったらもうダメだ。
「ゆー、るーず!」
「くそ、打ち負けた!」
速いラリーに対応できず僅差で競り負ける。
やむなくアリスと瑞穂にコーヒー牛乳を奢り、三人そろって腰に手を当てながらぐいっと一気飲み。
コーヒーやミルクの甘味ではなく、砂糖の甘味なのが気になるものの、この俗っぽさがいい。
ただこれを三人分も買わされたと思うと色んな意味で痛い。
「ふふん、正義は勝つのデス」
「お前もファウルしてただろうが」




