メール将棋セット【フロマージュ・ブランとフルーツジュース】
「お前いつも先手側で棋譜並べてるな」
「う……」
「苦手だからって楽するな」
「はーい」
瑞穂が将棋盤をひっくり返し、先手と後手を逆にする。
先手と後手では戦い方も座る位置も違うのだから、いつも先手視点では感覚が身に付かない。
後手の感覚を養うなら、棋譜並べの段階から後手の視点に慣れておくべきだ。
「俺も棋譜並べるか……」
いくつか棋譜をダウンロードして、木の盤に並べる。
「これ、プロの棋譜じゃないでしょ」
「最新戦法に関してはアマの方が冒険的な指し方してるからな。まあ、この戦法が定着する保証はないから棋譜並べはしないが……。チェックしておいて損はない」
「へー。誰でもこういう棋譜を手に入れられるのが現代のいいところね」
「そうだな」
一応パソコンが一般家庭に普及する前から写真はあったし、コピー機やファックスもあったので棋譜を入手しようと思えば誰でもできた。
……手間と金を惜しまなければの話だが。
パソコンもネットもない状態で棋譜探しなんて、考えるだけで気が遠くなる。
プロもアマも棋譜の入手は義務だといっていい。
データがなければ研究などできない。
入手難度という点でプロとアマには情報格差があり、その分だけ実力差があった。
アマチュアが一番プロに勝つのが難しい競技が将棋や囲碁だといわれていたのもうなずける。
今ではプロもアマも得られる情報量は同じ。
情報量が同じなら、後はそれをどう処理するか。
計算能力と情報処理能力。
データが溢れている現代。
この2つは将棋を極める上で必須の能力だ。
「しかし普通に棋譜を並べるのも飽きるな。たまには趣向を変えるか」
「棋譜で何を変えるのよ?」
「たとえば『いろは譜』」
「え、なにこれ」
「将棋好きの将軍・家治が使ってた棋譜だ」
試しに書いてみる。
春歩
「……なるほど、わからん」
「いろは譜を参照しながらじゃないと、なに指してるのかわからないわね」
ちなみに7六歩である。
「手書きの棋譜も味があるぞ。素早く記録できるように略号があるしな」
略号一覧 右側は成り駒
歩=フ・と
香=禾・ナ禾
桂=土・ナ土
銀=ヨ・ナヨ
金=∧
角=ク・マ
飛=ヒ・立
玉=○
「いろは譜と組み合わせたら暗号に使えそうね」
「使う機会はまずないだろうがな。それとチェスは将棋と数え方が違う。将棋は右上から、チェスは左下から。それも数字とアルファベットだ」
「……将棋とチェスの棋譜並べは同時期にできないわね」
「だな」
慣れていないと頭の中がごちゃごちゃになってしまうだろう。
「ん、もうすぐ日が暮れるな」
「棋譜並べだけで一局も指せなかったじゃない!」
「なら後でネットで指すか?」
「メール将棋やりたい!」
「ネット将棋の方が良くないか?」
「メールがいいの」
謎のこだわり。
理由はすぐにわかった。
『春フ』
それが帰宅した瑞穂から送られてきたメールである。
「……これがやりたかったのか」
苦笑いしながら、メールの通りに盤駒を動かす。
ネット将棋でパソコン上の駒を動かすより、メールしながらでも本物の駒を動かす方が具合はいい。
『三○』
いろは譜を参照し、本来なら手書きで使う略号を駆使してメールを返す。
瑞穂の早指しが災いして、メール将棋は一晩中続いた。
本文に指し手だけを書くのはさすがに味気ないので、
『めヨ ?!』
とチェスの棋譜のように、瑞穂の一手を評価する。
チェスのスコア記号
± 白(先手)が有利
±を逆さまにした記号 黒(後手)有利
= 形勢互角
∞ カオス(ごちゃごちゃでわけがわからない)
! 好手
!! 鬼手
? 悪手
?? 大悪手
!? 注目の一手
?! 奇手
たまに俺の手を瑞穂が評価してきたが、
『を∧ (∵)』
……妙な顔文字で意味はわからなかった。
「ユゴーの気分だな」
『レ・ミゼラブル』を執筆したヴィクトル・ユゴーは本が売れているか心配になり、出版社に『?』の手紙を送ると『!』と返ってきたという。
『世界一短い手紙』として有名なエピソードだ。
夜が明けても、授業中でもメールの着信は止まらない。
これがメール将棋のいい所だろう。
携帯さえあればいつでもどこでも指せて、時間制限がない。
……さすがに昨日からぶっとおしで指し続けるのは疲れるが。
たまには将棋漬けの一日もいいだろう。
そして放課後。
「メール将棋の続きでスイーツ賭けない?」
「いい度胸だ。でも作るの面倒だから手間のかからないのにしろよ」
「はーい。じゃあフルーツヨーグルトとか?」
「それだと芸がなさすぎるな。フロマージュ・ブランにしよう」
「なにそれ」
「ヨーグルトみたいになめらかなチーズだ」
「へー。じゃあそれ」
「あいよ」
最初はプレーンヨーグルトのようにそのまま食べ、フロマージュ・ブラン本来の味を楽しむ。
「あ、ほんとにヨーグルトみたいな食感。でもちょっと淡泊かも」
「乳脂肪分0だからな。コクが欲しいのなら40%のもあるぞ」
「あ、これ好き」
「ジュースもあるぞ」
みかんやパイナップルなどでフルーツジュースを作り、残りをフロマージュ・ブランに混ぜる。
ヨーグルトっぽいだけに酸味のある果物がよく馴染む。
ジャムやはちみつを加えても美味い。
「さて……」
おやつを食べつつ、左手でメールを打ちながら布製の将棋盤を広げて盤面を整理する。
瑞穂は折り畳み式のマグネット将棋盤だ。
そばにいるのに顔を合わせず、同じ盤も使わずに対局するというひねくれた状況。
とりあえずいつものように棒銀で銀交換し、状況は最終盤。
「うー……」
手加減して守りの駒を剥がさせてやったのだが、瑞穂は裸の王様をなかなか詰められない。
俺はスイーツの余韻を楽しみながら、うーうーうなって悩む瑞穂を高みの見物。
熟考すること5分。
「これでどう!?」
無言でメールを返す。
『??(大悪手)』
「え」
「まあ、初級者ならこんなもんだろう。毎日詰将棋でも解いてれば終盤は嫌でも強くなる。……というわけで逆王手だ」
ターンとメールを送る。
「ぎゃー!?」
三手詰みの頓死。
初級者にもそれがわかったらしい。
玉を追いすぎて自陣が見えていなかったのだ。
それからしばらくして、
『ゆー・がっと・めーる』
「……またか」
メール将棋が終わってからも、雑談メールはひっきりなしに届いた。
俺がメールも電話もあまりしない反動だろう。
どうやらこうやってコミュニケーションを取りたかったらしい。
『きのうなに食べた?』
……しかしこの女子特有の中身のない雑談はどうにかならないものか。
やはり主導権を握られているのが問題だ。
こちらから話を振って誘導し、終わらせるしかない。
ただ肝心の本文が思い浮かばない。
瑞穂が喜びそうな内容といえばこれぐらいか。
『6二金』
瑞穂からは『?』と返ってきた。
もう一度メールを送る。
『6一木』
これで6と一が日付、木が曜日を表していることに気づくだろう。
『?!(奇手)』
『5三一桃生り』
見事な一手だ。
成りではなく生りになっている。
5月31日は瑞穂の誕生日なのだ。
『10零天童駅前 +(王手)』
10時に天童駅前と返す。
これでようやく眠れそうだ。
『!!(鬼手) ♯(チェックメイト) 0-1(黒の勝利)』




