将棋セット【梅干しと番茶ドリンク】
「サイドチェンジ!」
アリスが飛車をすべらせ、豪快に横へ振った。
「振り飛車か」
一般的に飛車を初期配置で使うことを『居飛車』、飛車を逆サイドに移動させて使うことを『振り飛車』と呼ぶ。
歩歩歩歩歩歩歩歩歩
角 飛
香桂銀金玉金銀桂香
※二段目には飛車と角しかないので、飛車が自由に移動できる
厳密にいうなら1筋から4筋までが居飛車なのだが……。
初級者が無闇に飛車を動かすと困るので、うちでは初期位置で使えと教えている。
初期配置で使うと教えておけば無駄に飛車を振らなくなるからだ。
それだけ初級者は飛車を振りたがる生き物なのである。
「さて、どこまで指せるか見せてもらおうか」
「いきマス!」
アリスは自分から積極的に仕掛けてきた。
三分後。
「これで詰みだな」
「のー!?」
「自業自得だ。なんで飛車振った?」
「デキゴコロで」
「……変な言葉覚えんな」
「うー」
「振り飛車の基本は敵の飛車がいる筋へ振ること、あるいは攻撃された場所、これから攻撃されそうな場所に振ることだ。つまりカウンター戦法なんだよ。どんな相手でも飛車を振って待っていればいい」
「その待ちが初級者には難しいわけですね」
「変な手を指して自分から陣形を乱して負ける。よくあるパターンね」
「しかも受け将棋だから相手が格上なら何もできずに終わる。だから最初は居飛車を教えるようにしてるんだ。居飛車はとにかく攻めればいいからわかりやすいし、全力で攻めた上で負けたのならストレスもたまりにくい」
「でも居飛車って振り飛車に比べて覚えること多くない? 相手の出方で矢倉・相掛かり・角換わり・横歩取りを使い分けなきゃいけないし」
「たしかに振り飛車は簡単だ」
攻め将棋で単純だが覚えることの多い居飛車と、初級者には難しい受け将棋だが覚えることの少ない振り飛車。
初級者にはどちらを教えるべきか現代でも議論が絶えない。
俺は居飛車派だ。
「まあ、さすがに居飛車ばかりじゃ飽きるから今日は原始中飛車をやろう。これは振り飛車でも珍しい攻撃重視の戦法でな」
初手でいきなり真ん中に飛車を振り、素早く玉を右に移動させて銀を一つ上げる。
「これで片美濃囲いの完成だ」
「はやっ!?」
「べりーいーじー」
歩歩歩歩歩歩
飛 銀玉
金 金 桂香
片美濃囲い
※5八に飛車がいるので5八金型の本美濃囲いには組めない
矢倉に比べて格段に速くてわかりやすい。
初級者に教えたくなる気持ちがよくわかる。
「振り飛車だと7七角で飛車先の歩交換を許さないもんだが……。あえて角を上げない。7七に桂馬を跳ねさせるためだ。角の横を金で守り、5九に飛車を下げる」
「どうして下げるんですか?」
「角を金で守ってるから飛車が5八だと銀や角を打たれて両取りになります」
「へー」
「5筋の歩を突いてから、角道を開ける。相手から角を交換してくれればベストだが、今回はこっちから角を交換しよう。そして左銀を6六に上げる」
ここから桂馬を跳ね、角を打って5筋に戦力を集中
「まあ、普通はこんなに都合よく組ませてくれないけどな。ここから5筋の歩と6六銀、飛車、そして左の桂馬を6五に跳ねて5三をにらみ、さらに角を打って戦力を集中させる」
「とにかく中央に戦力を集中させればいいのね」
「ああ」
まさに原始的な中飛車だ。
中央突破は男のロマン。
成功した時、これほど楽しい戦法はないだろう。
「じゃあ対局の前におやつとしよう。今日は梅干しだ」
「え、梅干し?」
「梅干しの風味が強烈なだけに、阿波番茶や茎ほうじ茶、釜炒り茶みたいな珍しいお茶を楽しめるぞ。梅干しと番茶のドリンクもオススメだ」
「4人いますし、どうせなら全部楽しみたいですね」
「あいよ」
瑞穂に手伝わせてお茶を淹れていく。
番茶ドリンクは梅干しの種を取って青ジソと一緒にみじん切りにし、番茶をそそいでしょうが汁で味を調えれば完成だ。
「梅干しはそのままつまんでもよし、食いにくいならおにぎりにしたり、お茶漬けにしてもいい。個人的なオススメはタケノコの皮だ」
「梅たけのこ! 懐かしいおやつですね。……実は正式な名前を知らないんですけど」
「いや、これは江戸時代からあるおやつですけど……。不思議と決まった名前がないんです」
「あ、そうなんですか」
種を抜いた梅干しをタケノコの皮で三角に包んだおやつなのだが、地域的な名前はあっても全国的に統一された名称がないのだ。
「梅干しじゃなくて味噌でやることもあるそうですし」
「それは初耳ですね」
「これ、どうやって食べるの?」
「吸うんだよ」
「吸うってどこから?」
「どこからでも吸えるぞ」
「ちゅーちゅー!」
アリスが皮の上から梅肉を揉み、楽しそうに吸う。
「……んー、なにも味しないわよ」
「もっと吸え」
「そのうち皮が赤く染まってくるんですよ? 吸い続けていると梅肉が口の中に入ってきますけど、どちらかというと梅干しそのものよりエキスとタケノコの香りを楽しむのがメインですね」
「へー」
梅のエキスが染み出してくるまでかなり難儀するが、タケノコを赤く染めるのが楽しく、苦労して梅のエキスを舌で感じた時の感動は格別だ。
昔は庶民的なおやつだったらしいが、現代的な感覚からするとかなり珍しく、それだけに風流な感じがする。
「さて、梅干しの酸味でさっぱりしたところで振り飛車に戻るか」
「はーい」
瑞穂がシャッと豪快に飛車を真ん中へ振ると、先生もスッと中飛車で構えた。
「……これ攻めにくくない?」
「攻めにくいなら飛車を振れ。中飛車だからってずっと5筋にいるわけじゃないぞ。あくまで定位置だ」
「飛車を振った位置に戦力を集中させろってことね」
瑞穂が飛車を横に滑らせると、また同じ筋に先生も振った。
「む」
再び瑞穂が振る、先生が追う。
振る、追う、振る、追う、振る、追う。
気付けばお互いに5筋へ戻っていた。
「なんなのよ、もう!」
瑞穂が焦れて、自分から仕掛けた。
「うう……」
結果はいうまでもない。
『飛車を振っても振られるな』
飛車を振っているつもりが、飛車に振り回されている典型的な負けパターンである。




