第二十五回:JY32
所謂3代目レパードである。先代F31が2ドアクーペだったのに対し一転して4ドアセダンに戻り、次代のY33への襷を繋いだモデルである。
と、記述すると何とも聞こえが良いが、筆者的には日産を暗黒時代へ葬った引き金を引いた張本人という疑念もあり、3ナンバーサイズのフルサイズセダンにも関わらず、全く好きになれない車でもある。
しかしながら、何度も指摘する通り、この車のデザインの特徴が90年代バブル崩壊以後から00年代のカルロス・ゴーン就任の復活期までの日産の多くのセダンに共通して見られる事から現代のセダンとその歴史を語る上で避けて通れない。よって、この場で軽く触れておいた方が良いと考える所存である。
さて、32型レパードの一番の特徴、それは極端に傾斜が付いた後ろのトランクリッド、及びそれを違和感なく見せる為か滅茶苦茶狭い後部座席の足回りであろう。この、古き良き70年代位アメ車の2ドアクーペを丸っこくして無理やり後部ドアを取り付けた造形は、日本では不評だったがアメリカでは酷く人気だったそうである。
お陰で、サニーやブルーバードのような大衆車を除いた3ナンバーへの大型化によって従来の5ナンバー車ユーザーがないがしろにされ、下手に北米でヒットを飛ばした事で向こうの市場に重きを置いた車造りしか行われなくなるという、日産車史において最悪の事態を招く結果になってしまった。
ただ、無闇矢鱈と類似車を下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる以前の戦法で乱発したからこそ問題なのであって、そうでなかったとしたらこの変わっているとしか言いようがない前衛的なデザインは、決して悪いなどと断言出来るような物ではない、と筆者は思うのである。実際、あのデザインだからこそ良いと評価している人も多く居るのだ。
そうでなくても、さっきから繰り返し記述している通り、JY32は良くも悪くも90年半ばから後半にかけて生産された日産車のセダンのデザインに多大な影響を与えた。
特に、熟れきった女性のだらしなく垂れ下がった尻のように妙に艶かしいリア周りは、殆どそのままU13ブルーバード・セダン、R33スカイライン、C34ローレルに受け継がれている。
また、今様な言葉ならゆるキャラとでも言おうか、微妙な垂れ目具合が却って愛嬌がある締りのない顔つきは、B14サニーもそうであった。
もっと細かな点、例えばリアコンビランプ周りのデザインの傾向等、に言及すればその影響の波及は枚挙に暇もなくなる。が、兎にも角にも功罪引っ括めて、日産が日本国内から本格的に北米市場へ販売だけでなく開発も一極偏重になる切っ掛けを与えたという点で、Jフェリーは自動車史にその名を遺すべき自動車だ、と筆者は考えている。
しかし弁明しておくが、あくまで当時の日産を取り巻く世相が結果的に偶然にしてこのような状況を創り出したのであって、必ずしもJY32が歴史に刻まれるべき名車だから、という訳ではない。寧ろ純粋に1台の車として、これ程デザインにカタルシスな破綻をきたしている上に、後席のユースフリティを真っ向から軽視しているというセダンを造る上で絶対にやってはいけない禁忌を平然と犯している点で最早駄作以前の酷い車も早々ないと思う。特に後席に座る乗員の快適性が伴わない居住空間のあの狭さは、本来後席乗員の安全性と利便性、そして快適性を最優先とするセダンの思想に真っ向から対立するものである。ああいうのは後席が無くても当たり前だったりするスポーツカー等運転者の満足感の方に重点する遊戯性、またはトラックのように業務利用を前提として製造された車だからこそ許されるものなのだ。
そうは云っても、だ。もし万に一つでも北米以上に日本でこの車が馬鹿売れして市場を席巻したとしたら。果たして現在、日産はどうなっていたのだろうか?今と同じようにルノーやダイムラー組へ提携と云う名の舎弟に収まり、ゴーンを迎えた上でヨーロッパ市場に目を向きつつ事実上北米偏向の状況にやはり落ち着くのか。それとも国内市場に軸足を置いた独自の経営戦略を練っていたのか、筆者としては気になる所である。
ただ、1つ確かに言えそうな事は、恐らくレパードの売上がどうなろうと悲しい哉、あの頃の日産に神ともいえるような自動車を作れる力は無かっただろう、という事だけである。




