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「聖女様の護衛が先だ」と婚約者が言うので、聖女様に直接伺いました。護衛の任は三か月前に解かれていたそうです

掲載日:2026/10/26

「すまない、リディア。聖女様の護衛が先だ」


時計塔の鐘が三つ鳴り終わる前に、ギルバート様はそう言った。

約束の時刻から、一時間が過ぎていた。


「今日も、ですか」

「仕方ないだろう。聖女様のご予定が急に変わったんだ。俺がいないと困るらしい」

「劇場の席は、どうしましょう。二枚、取ってあるのですけれど」

「君の侍女と行けばいい。じゃあな」


ギルバート様は、私の返事を待たずに背を向けた。

銀の肩章が、人混みの向こうへ遠ざかっていく。

私は手に持った焼き菓子の箱を、そっとベンチに置いた。


これで、四十七回目だ。


婚約して一年。数えようと思って数えたわけではない。

手帳の端に、小さな印をつける癖がついてしまっただけだ。

約束の日付の横に、黒い点がひとつ。それが四十七個、並んでいる。


私は、約束の十五分前に着く。

子どもの頃からの癖で、どうしても直らない。

だからこの一年、時計塔の下のこのベンチで、私は何度も十五分と、それから何時間かを過ごしてきた。


箱の蓋を開ける。

朝いちばんに並んで買った、木苺のタルト。

指で触れると、すっかり冷えていた。


ベンチの木目は、もう覚えてしまった。

右から三番目の板に、小さな節がある。待っている間、いつもそこを指でなぞっていた。

時計塔の長い針が、一周半するあいだ。


「……お嬢様、お屋敷へ戻られますか」


付き添いの侍女のマリーが、遠慮がちに声をかけてくる。

彼女はもう、ギルバート様の名前を口にしない。


「いいえ」


私はタルトの箱を閉じて、立ち上がった。


「大神殿へ寄っていくわ」

「大神殿、でございますか」

「ええ。聖女様に、差し入れを」


マリーは、私の手の中の箱をじっと見た。


「お嬢様、それは……ギルバート様にお渡しするはずのタルトでは」

「どうせ、もう冷えてしまったもの。聖女様なら、冷えていても召し上がってくださるかもしれないわ」

「ですが、聖女様にお会いするなんて、急にできるものでしょうか」

「門の前でお渡しするだけよ。お礼の手紙を添えて」


マリーが目を丸くする。

私は、自分でも少し可笑しくなって笑った。


だって、そうではないか。

ギルバート様が一年もかけてお守りしている方なのだ。

私の婚約者をこれほど必要としてくださる方に、一度くらいお礼を申し上げても、罰は当たらないはずだ。


それに、聖女様もきっとお疲れだろう。

甘いものが、お好きだといいのだけれど。


大神殿の門番は、私の差し出したタルトの箱と手紙を見て、少し考えてから奥へ取り次いでくれた。

戻ってきた門番は、なぜか苦笑いをしていた。


「聖女様が、直接お会いになるそうです。奥庭へどうぞ」


◇


大神殿の奥庭は、思っていたよりずっと静かだった。


白い石畳。小さな噴水。

その縁に腰かけて、一人の少女が足をぶらぶらさせていた。

淡い金の髪に、白い法衣。間違いない。聖女セラフィナ様だ。


「あら、お客様?」


聖女様は、私に気づくとぱっと立ち上がった。

想像していたより、ずっと気さくな声だった。


「突然お邪魔して申し訳ございません。アシュベリー伯爵家のリディアと申します」

「アシュベリー……ああ、伯爵家の。どうなさったの?」

「婚約者が、いつも聖女様の護衛でお世話になっております。そのお礼に、ささやかですが」


タルトの箱を差し出す。

聖女様は、受け取りかけた手を、途中で止めた。


「婚約者?」

「はい。王宮騎士のギルバート・クロウです」


聖女様が、首をかしげた。

それから、ひどく不思議そうな顔で言った。


「ギルバート卿? あの方なら、三か月前に護衛から外しましたけど」


噴水の水音が、急に大きく聞こえた。


「……外した、とおっしゃいましたか」

「ええ。ねえ、アルベルト。そうよね?」


聖女様が振り返る。

回廊の柱の陰に、背の高い騎士が立っていた。

黒い外套に、騎士団長の徽章。氷のように整った顔立ちの人だった。


アルベルト・ヴァレンシュタイン公爵閣下。

王国騎士団の団長で、社交界では「笑わない公爵」と呼ばれている方だ。


閣下は、表情ひとつ変えずに頷いた。


「外したのは私だ。遅刻が多すぎた」

「遅刻……」

「三か月で十一回。聖女の護衛には置けない」


閣下の声は低く、淡々としていた。

私は、手帳の黒い点を思い出していた。

この三か月で、私の手帳についた点は――十四個。


では、その十四回。

あの人は、どこにいたのだろう。


「ちょっと待って」


聖女様の声が、さっきより一段低くなった。


「あなた、その人に今日も『聖女様の護衛が先だ』って言われたの?」

「……はい。つい先ほど」

「今日も? 今日って、私、朝からずっとここで日向ぼっこしてたんだけど!」


聖女様は、私の手から箱をひったくるように受け取った。

それから、なぜか私の手を両手でぎゅっと握った。


「ねえ、それ何回目?」

「四十七回目、です」

「よんじゅうなな!」


聖女様の悲鳴に、噴水の小鳥が一斉に飛び立った。


「信じられない。私の名前を、言い訳に使ってたのね。四十七回も。あなたを待たせるために」

「聖女様、あの、私は別に」

「別にじゃないわ。私が怒ってるの」


聖女様は、本当に怒っていた。

初対面の私のために。


握られた手が、温かかった。

誰かがこんなふうに、私の代わりに怒ってくれたのは、いつ以来だろう。


「セラフィナ」


閣下が、静かに口を開いた。


「虚偽の任務報告は、軍規違反だ。騎士団で調べる」

「当然よ。徹底的にね」

「リディア嬢」


名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

閣下は、まっすぐに私を見ていた。


「これは騎士団の問題だ。あなたが何かをする必要はない」


突き放すような言い方なのに、不思議と冷たくは聞こえなかった。


◇


聖女様とタルトを分け合っているうちに、すっかり日が傾いてしまった。


「送っていく」


閣下はそれだけ言うと、馬車の扉を開けた。

断る隙は、まったくなかった。


馬車の中は静かだった。

閣下は窓の外を見たまま、ほとんど何も話さない。

沈黙に耐えかねて、私のほうから口を開いた。


「今日は、ご迷惑をおかけしました」

「迷惑ではない」

「聖女様にも、たくさん怒っていただいて。……あんなに怒ってくださるとは思いませんでした」

「あれは、昔からああだ」


閣下の口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。


「昔から、ですか」

「あれが七つで神殿に来たときから、護衛をしている。気に入らない相手には、大司教にでも噛みつく」

「まあ」

「気に入った相手には、もっとうるさい」


それは褒め言葉なのだろうか。

閣下の表情からは、よく分からなかった。


「あなたは、怒らないのか」

「私ですか?」


少し考えてみた。

怒る、というのは、期待している人がすることなのかもしれない。


「待つのは、慣れていますから」


閣下が、窓から私へ視線を移した。


「私、約束の十五分前に着いてしまうんです。子どもの頃からの癖で。どうせ待つなら、最初から少し長く待っても同じでしょう?」


冗談のつもりで笑ってみせた。

閣下は、笑わなかった。


ただ、黙って私を見ていた。


「……十五分前に着いて、何時間待った」

「え?」

「今日だ」


閣下の目は、真剣だった。

私は、指を折って数えた。


「ええと。約束は二時でしたから、一時四十五分に着いて……三時過ぎまで、です」

「一時間と十五分以上か」


閣下は、それきり口を閉ざした。

膝の上で、大きな手が一度だけ握りしめられたのが見えた。

馬車が屋敷に着くまで、閣下はもう一言も話さなかった。


◇


それからの半月は、目まぐるしかった。


騎士団の調べで、ギルバート様の三か月が明らかになった。

聖女様の護衛と言って抜け出した日、彼は王都の劇場と、裏通りの賭場にいた。

いつも同じ男爵令嬢と一緒だったそうだ。


報告書を届けに来たのは、閣下ご本人だった。

騎士団長が一介の伯爵家に足を運ぶなど、前代未聞のことだ。

応接間で、父はすっかり恐縮していた。


「団長閣下御自らお越しいただくとは。部下の方に持たせてくださればよろしかったものを」

「部下の不始末だ。私が来るのが筋だ」


閣下は、父に向かって深く頭を下げた。


「騎士団の監督不行き届きで、ご令嬢に一年もの間、不誠実を働いた。団長として詫びる」

「お、おやめください閣下!」


父が慌てて立ち上がる。

私も、思わず腰を浮かせていた。


「閣下。閣下が謝ることでは」

「三か月前に外したとき、理由をきちんと確かめるべきだった。そうしていれば、君が待つ回数は十四回少なかった」


十四回。

騎士団の記録で、彼が任務と偽って抜け出した日の数だという。

私の手帳の、この三か月の黒い点と、ぴたりと同じ数だった。


父は報告書を読み終えると、黙って婚約解消の書類に署名した。

クロウ子爵家からは、謝罪の手紙が三通届いた。

ギルバート様本人からは、一通も届かなかった。


彼は騎士団を除隊になった。

軍規違反に加えて、賭場での借金が見つかったのだという。

男爵令嬢は、彼の財布が空になったと分かった翌週に、別の若様と婚約したらしい。


私は、何もしなかった。

する必要がなかった。

閣下の言った通り、それは騎士団の問題で、私の問題ではなかったのだ。


手帳の黒い点は、四十七個で止まった。


◇


聖女様から手紙が届いたのは、その頃だった。


『リディアへ。明日の午後二時、大神殿の奥庭でお茶をしましょう。アルベルトも来ます。というか、アルベルトが来たがっています。本人は認めませんけど。 セラフィナ』


最後の一文を、三回読み返した。


翌日。

私は、いつもの癖で一時四十五分に奥庭に着いた。


噴水の横に、白いテーブルが用意されていた。

その椅子に、閣下が座っていた。


もう、いる。


「……閣下?」

「来たか」


閣下は立ち上がって、私のために椅子を引いた。

テーブルの上のお茶は、すっかり湯気が消えていた。


「あの、いつからいらしたんですか」

「一時間前から」

「一時間!」

「君は早く来ると聞いた」


閣下は、少しだけ視線を逸らした。


「君を、待たせたくなかった」


私は、何と答えていいか分からなかった。

椅子に座ると、閣下が冷めたお茶を下げさせて、新しいポットを持ってこさせた。


回廊の柱の陰から、くすくすと笑い声が聞こえた。


「聖女様、見ていらっしゃいますよね」

「見てないわ!」


聖女様は、柱の陰から顔だけ出して叫んだ。


「ちなみにアルベルト、十二時半からそこに座ってたわよ」

「セラフィナ」

「本当は一時間半前よ、リディア」

「セラフィナ」


閣下の耳が、うっすらと赤くなっていた。

笑わない公爵様の耳が赤くなるところを、私は初めて見た。


新しいお茶が注がれると、閣下は咳払いをひとつして、私に向き直った。


「あの日の菓子は、どこの店のものだ」

「木苺のタルトですか? 王都の東通りの、青い屋根のお店です。朝いちばんに並ばないと買えなくて」

「朝いちばんに並んで、十五分前に着いて、一時間以上待ったのか」


閣下は、眉間にしわを寄せた。

まるで、戦場の地図でも検分しているような顔だった。


「……閣下、そればかり気にしていらっしゃいますね」

「気になる」


閣下は、真面目な顔で言った。


「なぜ、それほど待てる」


少し考えて、正直に答えた。


「待つのをやめたら、本当に何も残らない気がしたんです。約束があるうちは、私はあの人の婚約者でいられましたから」


閣下は、何も言わなかった。

ただ、私のカップが空になるたびに、黙ってお茶を注いでくれた。

その日、私は四杯もお茶を飲んだ。


◇


それから、閣下とは何度も会うようになった。


お茶会。図書館。王都の植物園。

そして、どの約束でも、閣下は必ず先に来ていた。


一度、試してみたことがある。

わざと、約束の時刻ちょうどに着いてみたのだ。

閣下は、植物園の入り口の前に立っていた。


「お待たせしましたか」

「いや」

「いつから?」

「……少し前から」


付き添いの護衛騎士が、後ろで小さく咳払いをした。


「団長は二時間前からです」

「余計なことを言うな」

「入り口の花壇の花の名前を、全部覚えてしまわれました」

「黙れ」


閣下は護衛騎士をにらんだが、耳はやっぱり赤かった。

私は笑いをこらえながら、花壇を指さした。


「では、あの青い花は何という名前ですか」

「……冬勿忘草だ。寒い時期にだけ咲く」

「本当に覚えていらっしゃるんですね」

「二時間あったからな」


次は、わざと五分遅れてみた。

閣下は、同じ場所に同じ姿勢で立っていた。

遅れた私を見ても、少しも責める顔をしなかった。


「すみません、遅れてしまって」

「遅れていない。私が早く来ただけだ」


その言葉を聞いて、胸の奥がきゅっと縮んだ。


遅れていない。私が早く来ただけだ。

この一年、私は何度もその言葉を、自分自身に言い聞かせてきた。

四十七回。冷えたタルトの箱を膝に乗せて。


でも、言う側にいてくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。


◇


「ねえリディア、気づいてる?」


ある午後、奥庭で二人きりになったとき、聖女様が言った。

閣下は、神殿長に呼ばれて席を外していた。


「何にでしょう」

「アルベルトよ。あの人、誰かを待ったことなんて一度もないの。いつも待たせる側。王様だって待たせるのよ」

「閣下が?」

「そうよ。遅刻はしないけど、きっかり時間通りにしか来ないの。一分でも早く来るなんて、時間の無駄だって言ってたわ」


聖女様は、焼き菓子をつまみながら笑った。


「それが今じゃ、二時間前よ。騎士団の副官が泣いてたわ。団長の予定が組めないって」

「……私のせいで、ご迷惑を」

「違う違う。喜んでるのよ、みんな」


聖女様は、私の顔をのぞき込んだ。


「ねえ。前に言ってた四十七回って、どこで待ってたの?」

「時計塔の下の、ベンチです。広場の東側の」

「ふうん。時計塔の下、ね」


聖女様は、なぜか満足そうに頷いた。

そのときの私は、その意味に少しも気づいていなかった。


◇


ギルバート様が屋敷の前に現れたのは、冬の初めのことだった。


ちょうど、閣下に送っていただいて、馬車を降りたところだった。

門の前に、見覚えのある背中があった。

銀の肩章は、もうついていなかった。


「リディア!」


ギルバート様は、私を見るなり駆け寄ってきた。

頬がこけて、外套の裾がほつれている。


「話を聞いてくれ。誤解なんだ。あの頃は本当に、任務が立て込んでいて」

「劇場と、賭場の任務ですか」


ギルバート様の顔が、一瞬だけ引きつった。


「あれは……付き合いだ。騎士には色々あるんだよ。君には分からないだろうけど」

「そうかもしれません。では、任務とは何だったのですか」

「そうだ。聖女様の護衛が――」


言いかけて、ギルバート様は口をつぐんだ。

私の後ろに、閣下が立っていたからだ。


「……団長」

「もう、君の団長ではない」


閣下の声は、あの日の奥庭と同じく、淡々としていた。


ギルバート様は、すがるような目で私を見た。


「リディア。君は、待っていてくれるだろう? いつもそうだったじゃないか」


いつもそうだった。

その通りだ。私はいつも、待っていた。


でも。


「ギルバート様」


私は、自分でも驚くほど静かな声で言った。


「私はもう、待ちません」


ギルバート様の顔から、表情が抜け落ちた。

彼は何か言おうとして、閣下と私を交互に見て、それから何も言わずに背を向けた。


ほつれた外套の裾が、冬の風に揺れていた。

遠ざかっていく背中を、私はもう目で追わなかった。


「……大丈夫か」


閣下が、低い声で訊いた。


「はい」


本当に、大丈夫だった。

隣に立っている人がいる。それだけで、こんなにも足が震えないものなのだと、初めて知った。


「閣下は、どうしてここに残ってくださったんですか」

「君が門を入るまで見届けるのが、送るということだ」

「いつも、そうしてくださっていたんですか」

「いつもだ」


知らなかった。

馬車を降りて屋敷の扉が閉まるまで、毎回この人は、門の外に立っていたのだ。


◇


年の瀬が近づいた、ある日のことだ。


閣下から短い手紙が届いた。


『明日の午後三時、時計塔の下で』


それだけだった。

私は、その一行をしばらく見つめていた。


時計塔の下。

四十七回、私が待ちぼうけを食った場所。


行きたくない、と思わなかったと言えば嘘になる。

けれど、手紙の差出人の名前を見ているうちに、不思議と足が向くような気がした。


翌日。

私は、いつもより少し遅れて屋敷を出た。

わざとではない。支度に手間取ったのだ。何を着ていくかで、一時間も迷ってしまった。


時計塔の広場に着いたのは、三時ちょうどだった。


鐘が、鳴り始める。


一つ。


広場の向こうに、あのベンチが見えた。


二つ。


ベンチに、誰かが座っていた。

黒い外套。まっすぐな背中。膝の上に、小さな箱。


三つ。


閣下が、立ち上がった。


鐘の余韻が、冬の空に溶けていく。

私は、広場の入り口で動けなくなっていた。


閣下はベンチの前に立ったまま、私を見ていた。

膝に乗せていた箱を、そっとベンチに置いた。

見覚えのある箱だった。王都の、あの店の。木苺のタルトの。


「……どうして」


声が掠れた。


「どうして、その箱を」

「セラフィナに聞いた。君がいつも、ここで何を持って待っていたか」


閣下は、ベンチの背もたれに手を置いた。

古い木の、ところどころ塗装の剥げたベンチ。

私が四十七回、座ったベンチ。


「四十七回」


閣下が言った。


「君は、ここで待った」


広場を行き交う人の声が、遠くなった。


「冷えた菓子を膝に乗せて。来ない男を。十五分前から、何時間も」


閣下は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

一歩。

二歩。

私の前で立ち止まり、片膝をついた。


石畳に、黒い外套の裾が広がった。


「今日からは、私が待つ番だ」


閣下は、私を見上げた。

笑わない公爵様の顔が、少しだけ、不器用に笑っていた。


「何回でも待つ。何時間でも。君が来るまで、ここを動かない。だから」


小さな箱の蓋が開いた。

タルトの箱ではない。もっと小さな、ビロードの箱。


「リディア・アシュベリー。私と、結婚してほしい」


指輪が、冬の陽を受けて光った。


私は、自分の手が震えているのに気づいた。

四十七個の黒い点が、頭の中でひとつずつ消えていく気がした。


ずっと、待つ側だった。

待って、待って、来ないと分かっていても、十五分前に着いてしまう人生だった。


その私を、待っていてくれた人がいる。

冷えたお茶の前で。植物園の入り口で。このベンチで。


私は、閣下の前に立った。

それから、生まれて初めての言葉を口にした。


「――お待たせしました」


閣下の目が、わずかに見開かれた。


「待っていない」

「嘘です。いつからいらしたんですか」


「……正午から」

「三時間も!」

「待っていない」


閣下は真顔で言い張った。

私は笑ってしまって、笑いながら、涙がこぼれた。


「はい。お受けします」


閣下が立ち上がって、私の左手の薬指に指輪をはめた。

大きな手が、少しだけ震えていた。


ベンチの上で、タルトの箱がこちらを向いていた。

蓋を開けると、木苺が冬の光にきらきら光っていた。


「冷えていますね」

「三時間、待ったからな」

「さっき、待っていないって」

「……言っていない」


広場の向こうで、時計塔の鐘が四時を告げた。

私たちはベンチに並んで座って、冷えたタルトを半分ずつ食べた。


冷えていても、こんなにおいしいものだったのかと、私は初めて知った。


「アルベルト様」


初めて、名前でお呼びした。

閣下――アルベルト様が、フォークを止めた。


「次の約束は、いつにしましょう」

「明日だ」

「明日?」

「明後日も。その次も。……毎日、ここで待っていてもいいか」


私は、思わずアルベルト様の顔を見た。

冗談を言う人ではない。本気で、毎日ここに座るつもりなのだ。


「毎日三時間はいけません。騎士団の副官様が泣いてしまいます」

「では、二時間にする」

「一時間です」

「……一時間半」


真剣に交渉してくる人がおかしくて、私はまた笑った。

時計塔の針が、少しずつ夕暮れへ進んでいく。

もう、時計を見上げて数える必要はなかった。


◇


後日、聖女様から手紙が届いた。


『おめでとう! 結婚式の日取りが決まったら教えてね。ちなみに当日、アルベルトは何時間前に教会に来ると思う? 私は前日の夜からだと思う。賭けましょう。 セラフィナ』


私は、手帳を開いた。

四十七個の黒い点のあとに、新しい印をひとつつける。


小さな、赤い丸。

初めて、私が待たせた日の印だ。


(了)


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セラフィナカワイイ!!
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