「聖女様の護衛が先だ」と婚約者が言うので、聖女様に直接伺いました。護衛の任は三か月前に解かれていたそうです
「すまない、リディア。聖女様の護衛が先だ」
時計塔の鐘が三つ鳴り終わる前に、ギルバート様はそう言った。
約束の時刻から、一時間が過ぎていた。
「今日も、ですか」
「仕方ないだろう。聖女様のご予定が急に変わったんだ。俺がいないと困るらしい」
「劇場の席は、どうしましょう。二枚、取ってあるのですけれど」
「君の侍女と行けばいい。じゃあな」
ギルバート様は、私の返事を待たずに背を向けた。
銀の肩章が、人混みの向こうへ遠ざかっていく。
私は手に持った焼き菓子の箱を、そっとベンチに置いた。
これで、四十七回目だ。
婚約して一年。数えようと思って数えたわけではない。
手帳の端に、小さな印をつける癖がついてしまっただけだ。
約束の日付の横に、黒い点がひとつ。それが四十七個、並んでいる。
私は、約束の十五分前に着く。
子どもの頃からの癖で、どうしても直らない。
だからこの一年、時計塔の下のこのベンチで、私は何度も十五分と、それから何時間かを過ごしてきた。
箱の蓋を開ける。
朝いちばんに並んで買った、木苺のタルト。
指で触れると、すっかり冷えていた。
ベンチの木目は、もう覚えてしまった。
右から三番目の板に、小さな節がある。待っている間、いつもそこを指でなぞっていた。
時計塔の長い針が、一周半するあいだ。
「……お嬢様、お屋敷へ戻られますか」
付き添いの侍女のマリーが、遠慮がちに声をかけてくる。
彼女はもう、ギルバート様の名前を口にしない。
「いいえ」
私はタルトの箱を閉じて、立ち上がった。
「大神殿へ寄っていくわ」
「大神殿、でございますか」
「ええ。聖女様に、差し入れを」
マリーは、私の手の中の箱をじっと見た。
「お嬢様、それは……ギルバート様にお渡しするはずのタルトでは」
「どうせ、もう冷えてしまったもの。聖女様なら、冷えていても召し上がってくださるかもしれないわ」
「ですが、聖女様にお会いするなんて、急にできるものでしょうか」
「門の前でお渡しするだけよ。お礼の手紙を添えて」
マリーが目を丸くする。
私は、自分でも少し可笑しくなって笑った。
だって、そうではないか。
ギルバート様が一年もかけてお守りしている方なのだ。
私の婚約者をこれほど必要としてくださる方に、一度くらいお礼を申し上げても、罰は当たらないはずだ。
それに、聖女様もきっとお疲れだろう。
甘いものが、お好きだといいのだけれど。
大神殿の門番は、私の差し出したタルトの箱と手紙を見て、少し考えてから奥へ取り次いでくれた。
戻ってきた門番は、なぜか苦笑いをしていた。
「聖女様が、直接お会いになるそうです。奥庭へどうぞ」
◇
大神殿の奥庭は、思っていたよりずっと静かだった。
白い石畳。小さな噴水。
その縁に腰かけて、一人の少女が足をぶらぶらさせていた。
淡い金の髪に、白い法衣。間違いない。聖女セラフィナ様だ。
「あら、お客様?」
聖女様は、私に気づくとぱっと立ち上がった。
想像していたより、ずっと気さくな声だった。
「突然お邪魔して申し訳ございません。アシュベリー伯爵家のリディアと申します」
「アシュベリー……ああ、伯爵家の。どうなさったの?」
「婚約者が、いつも聖女様の護衛でお世話になっております。そのお礼に、ささやかですが」
タルトの箱を差し出す。
聖女様は、受け取りかけた手を、途中で止めた。
「婚約者?」
「はい。王宮騎士のギルバート・クロウです」
聖女様が、首をかしげた。
それから、ひどく不思議そうな顔で言った。
「ギルバート卿? あの方なら、三か月前に護衛から外しましたけど」
噴水の水音が、急に大きく聞こえた。
「……外した、とおっしゃいましたか」
「ええ。ねえ、アルベルト。そうよね?」
聖女様が振り返る。
回廊の柱の陰に、背の高い騎士が立っていた。
黒い外套に、騎士団長の徽章。氷のように整った顔立ちの人だった。
アルベルト・ヴァレンシュタイン公爵閣下。
王国騎士団の団長で、社交界では「笑わない公爵」と呼ばれている方だ。
閣下は、表情ひとつ変えずに頷いた。
「外したのは私だ。遅刻が多すぎた」
「遅刻……」
「三か月で十一回。聖女の護衛には置けない」
閣下の声は低く、淡々としていた。
私は、手帳の黒い点を思い出していた。
この三か月で、私の手帳についた点は――十四個。
では、その十四回。
あの人は、どこにいたのだろう。
「ちょっと待って」
聖女様の声が、さっきより一段低くなった。
「あなた、その人に今日も『聖女様の護衛が先だ』って言われたの?」
「……はい。つい先ほど」
「今日も? 今日って、私、朝からずっとここで日向ぼっこしてたんだけど!」
聖女様は、私の手から箱をひったくるように受け取った。
それから、なぜか私の手を両手でぎゅっと握った。
「ねえ、それ何回目?」
「四十七回目、です」
「よんじゅうなな!」
聖女様の悲鳴に、噴水の小鳥が一斉に飛び立った。
「信じられない。私の名前を、言い訳に使ってたのね。四十七回も。あなたを待たせるために」
「聖女様、あの、私は別に」
「別にじゃないわ。私が怒ってるの」
聖女様は、本当に怒っていた。
初対面の私のために。
握られた手が、温かかった。
誰かがこんなふうに、私の代わりに怒ってくれたのは、いつ以来だろう。
「セラフィナ」
閣下が、静かに口を開いた。
「虚偽の任務報告は、軍規違反だ。騎士団で調べる」
「当然よ。徹底的にね」
「リディア嬢」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
閣下は、まっすぐに私を見ていた。
「これは騎士団の問題だ。あなたが何かをする必要はない」
突き放すような言い方なのに、不思議と冷たくは聞こえなかった。
◇
聖女様とタルトを分け合っているうちに、すっかり日が傾いてしまった。
「送っていく」
閣下はそれだけ言うと、馬車の扉を開けた。
断る隙は、まったくなかった。
馬車の中は静かだった。
閣下は窓の外を見たまま、ほとんど何も話さない。
沈黙に耐えかねて、私のほうから口を開いた。
「今日は、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない」
「聖女様にも、たくさん怒っていただいて。……あんなに怒ってくださるとは思いませんでした」
「あれは、昔からああだ」
閣下の口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
「昔から、ですか」
「あれが七つで神殿に来たときから、護衛をしている。気に入らない相手には、大司教にでも噛みつく」
「まあ」
「気に入った相手には、もっとうるさい」
それは褒め言葉なのだろうか。
閣下の表情からは、よく分からなかった。
「あなたは、怒らないのか」
「私ですか?」
少し考えてみた。
怒る、というのは、期待している人がすることなのかもしれない。
「待つのは、慣れていますから」
閣下が、窓から私へ視線を移した。
「私、約束の十五分前に着いてしまうんです。子どもの頃からの癖で。どうせ待つなら、最初から少し長く待っても同じでしょう?」
冗談のつもりで笑ってみせた。
閣下は、笑わなかった。
ただ、黙って私を見ていた。
「……十五分前に着いて、何時間待った」
「え?」
「今日だ」
閣下の目は、真剣だった。
私は、指を折って数えた。
「ええと。約束は二時でしたから、一時四十五分に着いて……三時過ぎまで、です」
「一時間と十五分以上か」
閣下は、それきり口を閉ざした。
膝の上で、大きな手が一度だけ握りしめられたのが見えた。
馬車が屋敷に着くまで、閣下はもう一言も話さなかった。
◇
それからの半月は、目まぐるしかった。
騎士団の調べで、ギルバート様の三か月が明らかになった。
聖女様の護衛と言って抜け出した日、彼は王都の劇場と、裏通りの賭場にいた。
いつも同じ男爵令嬢と一緒だったそうだ。
報告書を届けに来たのは、閣下ご本人だった。
騎士団長が一介の伯爵家に足を運ぶなど、前代未聞のことだ。
応接間で、父はすっかり恐縮していた。
「団長閣下御自らお越しいただくとは。部下の方に持たせてくださればよろしかったものを」
「部下の不始末だ。私が来るのが筋だ」
閣下は、父に向かって深く頭を下げた。
「騎士団の監督不行き届きで、ご令嬢に一年もの間、不誠実を働いた。団長として詫びる」
「お、おやめください閣下!」
父が慌てて立ち上がる。
私も、思わず腰を浮かせていた。
「閣下。閣下が謝ることでは」
「三か月前に外したとき、理由をきちんと確かめるべきだった。そうしていれば、君が待つ回数は十四回少なかった」
十四回。
騎士団の記録で、彼が任務と偽って抜け出した日の数だという。
私の手帳の、この三か月の黒い点と、ぴたりと同じ数だった。
父は報告書を読み終えると、黙って婚約解消の書類に署名した。
クロウ子爵家からは、謝罪の手紙が三通届いた。
ギルバート様本人からは、一通も届かなかった。
彼は騎士団を除隊になった。
軍規違反に加えて、賭場での借金が見つかったのだという。
男爵令嬢は、彼の財布が空になったと分かった翌週に、別の若様と婚約したらしい。
私は、何もしなかった。
する必要がなかった。
閣下の言った通り、それは騎士団の問題で、私の問題ではなかったのだ。
手帳の黒い点は、四十七個で止まった。
◇
聖女様から手紙が届いたのは、その頃だった。
『リディアへ。明日の午後二時、大神殿の奥庭でお茶をしましょう。アルベルトも来ます。というか、アルベルトが来たがっています。本人は認めませんけど。 セラフィナ』
最後の一文を、三回読み返した。
翌日。
私は、いつもの癖で一時四十五分に奥庭に着いた。
噴水の横に、白いテーブルが用意されていた。
その椅子に、閣下が座っていた。
もう、いる。
「……閣下?」
「来たか」
閣下は立ち上がって、私のために椅子を引いた。
テーブルの上のお茶は、すっかり湯気が消えていた。
「あの、いつからいらしたんですか」
「一時間前から」
「一時間!」
「君は早く来ると聞いた」
閣下は、少しだけ視線を逸らした。
「君を、待たせたくなかった」
私は、何と答えていいか分からなかった。
椅子に座ると、閣下が冷めたお茶を下げさせて、新しいポットを持ってこさせた。
回廊の柱の陰から、くすくすと笑い声が聞こえた。
「聖女様、見ていらっしゃいますよね」
「見てないわ!」
聖女様は、柱の陰から顔だけ出して叫んだ。
「ちなみにアルベルト、十二時半からそこに座ってたわよ」
「セラフィナ」
「本当は一時間半前よ、リディア」
「セラフィナ」
閣下の耳が、うっすらと赤くなっていた。
笑わない公爵様の耳が赤くなるところを、私は初めて見た。
新しいお茶が注がれると、閣下は咳払いをひとつして、私に向き直った。
「あの日の菓子は、どこの店のものだ」
「木苺のタルトですか? 王都の東通りの、青い屋根のお店です。朝いちばんに並ばないと買えなくて」
「朝いちばんに並んで、十五分前に着いて、一時間以上待ったのか」
閣下は、眉間にしわを寄せた。
まるで、戦場の地図でも検分しているような顔だった。
「……閣下、そればかり気にしていらっしゃいますね」
「気になる」
閣下は、真面目な顔で言った。
「なぜ、それほど待てる」
少し考えて、正直に答えた。
「待つのをやめたら、本当に何も残らない気がしたんです。約束があるうちは、私はあの人の婚約者でいられましたから」
閣下は、何も言わなかった。
ただ、私のカップが空になるたびに、黙ってお茶を注いでくれた。
その日、私は四杯もお茶を飲んだ。
◇
それから、閣下とは何度も会うようになった。
お茶会。図書館。王都の植物園。
そして、どの約束でも、閣下は必ず先に来ていた。
一度、試してみたことがある。
わざと、約束の時刻ちょうどに着いてみたのだ。
閣下は、植物園の入り口の前に立っていた。
「お待たせしましたか」
「いや」
「いつから?」
「……少し前から」
付き添いの護衛騎士が、後ろで小さく咳払いをした。
「団長は二時間前からです」
「余計なことを言うな」
「入り口の花壇の花の名前を、全部覚えてしまわれました」
「黙れ」
閣下は護衛騎士をにらんだが、耳はやっぱり赤かった。
私は笑いをこらえながら、花壇を指さした。
「では、あの青い花は何という名前ですか」
「……冬勿忘草だ。寒い時期にだけ咲く」
「本当に覚えていらっしゃるんですね」
「二時間あったからな」
次は、わざと五分遅れてみた。
閣下は、同じ場所に同じ姿勢で立っていた。
遅れた私を見ても、少しも責める顔をしなかった。
「すみません、遅れてしまって」
「遅れていない。私が早く来ただけだ」
その言葉を聞いて、胸の奥がきゅっと縮んだ。
遅れていない。私が早く来ただけだ。
この一年、私は何度もその言葉を、自分自身に言い聞かせてきた。
四十七回。冷えたタルトの箱を膝に乗せて。
でも、言う側にいてくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。
◇
「ねえリディア、気づいてる?」
ある午後、奥庭で二人きりになったとき、聖女様が言った。
閣下は、神殿長に呼ばれて席を外していた。
「何にでしょう」
「アルベルトよ。あの人、誰かを待ったことなんて一度もないの。いつも待たせる側。王様だって待たせるのよ」
「閣下が?」
「そうよ。遅刻はしないけど、きっかり時間通りにしか来ないの。一分でも早く来るなんて、時間の無駄だって言ってたわ」
聖女様は、焼き菓子をつまみながら笑った。
「それが今じゃ、二時間前よ。騎士団の副官が泣いてたわ。団長の予定が組めないって」
「……私のせいで、ご迷惑を」
「違う違う。喜んでるのよ、みんな」
聖女様は、私の顔をのぞき込んだ。
「ねえ。前に言ってた四十七回って、どこで待ってたの?」
「時計塔の下の、ベンチです。広場の東側の」
「ふうん。時計塔の下、ね」
聖女様は、なぜか満足そうに頷いた。
そのときの私は、その意味に少しも気づいていなかった。
◇
ギルバート様が屋敷の前に現れたのは、冬の初めのことだった。
ちょうど、閣下に送っていただいて、馬車を降りたところだった。
門の前に、見覚えのある背中があった。
銀の肩章は、もうついていなかった。
「リディア!」
ギルバート様は、私を見るなり駆け寄ってきた。
頬がこけて、外套の裾がほつれている。
「話を聞いてくれ。誤解なんだ。あの頃は本当に、任務が立て込んでいて」
「劇場と、賭場の任務ですか」
ギルバート様の顔が、一瞬だけ引きつった。
「あれは……付き合いだ。騎士には色々あるんだよ。君には分からないだろうけど」
「そうかもしれません。では、任務とは何だったのですか」
「そうだ。聖女様の護衛が――」
言いかけて、ギルバート様は口をつぐんだ。
私の後ろに、閣下が立っていたからだ。
「……団長」
「もう、君の団長ではない」
閣下の声は、あの日の奥庭と同じく、淡々としていた。
ギルバート様は、すがるような目で私を見た。
「リディア。君は、待っていてくれるだろう? いつもそうだったじゃないか」
いつもそうだった。
その通りだ。私はいつも、待っていた。
でも。
「ギルバート様」
私は、自分でも驚くほど静かな声で言った。
「私はもう、待ちません」
ギルバート様の顔から、表情が抜け落ちた。
彼は何か言おうとして、閣下と私を交互に見て、それから何も言わずに背を向けた。
ほつれた外套の裾が、冬の風に揺れていた。
遠ざかっていく背中を、私はもう目で追わなかった。
「……大丈夫か」
閣下が、低い声で訊いた。
「はい」
本当に、大丈夫だった。
隣に立っている人がいる。それだけで、こんなにも足が震えないものなのだと、初めて知った。
「閣下は、どうしてここに残ってくださったんですか」
「君が門を入るまで見届けるのが、送るということだ」
「いつも、そうしてくださっていたんですか」
「いつもだ」
知らなかった。
馬車を降りて屋敷の扉が閉まるまで、毎回この人は、門の外に立っていたのだ。
◇
年の瀬が近づいた、ある日のことだ。
閣下から短い手紙が届いた。
『明日の午後三時、時計塔の下で』
それだけだった。
私は、その一行をしばらく見つめていた。
時計塔の下。
四十七回、私が待ちぼうけを食った場所。
行きたくない、と思わなかったと言えば嘘になる。
けれど、手紙の差出人の名前を見ているうちに、不思議と足が向くような気がした。
翌日。
私は、いつもより少し遅れて屋敷を出た。
わざとではない。支度に手間取ったのだ。何を着ていくかで、一時間も迷ってしまった。
時計塔の広場に着いたのは、三時ちょうどだった。
鐘が、鳴り始める。
一つ。
広場の向こうに、あのベンチが見えた。
二つ。
ベンチに、誰かが座っていた。
黒い外套。まっすぐな背中。膝の上に、小さな箱。
三つ。
閣下が、立ち上がった。
鐘の余韻が、冬の空に溶けていく。
私は、広場の入り口で動けなくなっていた。
閣下はベンチの前に立ったまま、私を見ていた。
膝に乗せていた箱を、そっとベンチに置いた。
見覚えのある箱だった。王都の、あの店の。木苺のタルトの。
「……どうして」
声が掠れた。
「どうして、その箱を」
「セラフィナに聞いた。君がいつも、ここで何を持って待っていたか」
閣下は、ベンチの背もたれに手を置いた。
古い木の、ところどころ塗装の剥げたベンチ。
私が四十七回、座ったベンチ。
「四十七回」
閣下が言った。
「君は、ここで待った」
広場を行き交う人の声が、遠くなった。
「冷えた菓子を膝に乗せて。来ない男を。十五分前から、何時間も」
閣下は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
一歩。
二歩。
私の前で立ち止まり、片膝をついた。
石畳に、黒い外套の裾が広がった。
「今日からは、私が待つ番だ」
閣下は、私を見上げた。
笑わない公爵様の顔が、少しだけ、不器用に笑っていた。
「何回でも待つ。何時間でも。君が来るまで、ここを動かない。だから」
小さな箱の蓋が開いた。
タルトの箱ではない。もっと小さな、ビロードの箱。
「リディア・アシュベリー。私と、結婚してほしい」
指輪が、冬の陽を受けて光った。
私は、自分の手が震えているのに気づいた。
四十七個の黒い点が、頭の中でひとつずつ消えていく気がした。
ずっと、待つ側だった。
待って、待って、来ないと分かっていても、十五分前に着いてしまう人生だった。
その私を、待っていてくれた人がいる。
冷えたお茶の前で。植物園の入り口で。このベンチで。
私は、閣下の前に立った。
それから、生まれて初めての言葉を口にした。
「――お待たせしました」
閣下の目が、わずかに見開かれた。
「待っていない」
「嘘です。いつからいらしたんですか」
「……正午から」
「三時間も!」
「待っていない」
閣下は真顔で言い張った。
私は笑ってしまって、笑いながら、涙がこぼれた。
「はい。お受けします」
閣下が立ち上がって、私の左手の薬指に指輪をはめた。
大きな手が、少しだけ震えていた。
ベンチの上で、タルトの箱がこちらを向いていた。
蓋を開けると、木苺が冬の光にきらきら光っていた。
「冷えていますね」
「三時間、待ったからな」
「さっき、待っていないって」
「……言っていない」
広場の向こうで、時計塔の鐘が四時を告げた。
私たちはベンチに並んで座って、冷えたタルトを半分ずつ食べた。
冷えていても、こんなにおいしいものだったのかと、私は初めて知った。
「アルベルト様」
初めて、名前でお呼びした。
閣下――アルベルト様が、フォークを止めた。
「次の約束は、いつにしましょう」
「明日だ」
「明日?」
「明後日も。その次も。……毎日、ここで待っていてもいいか」
私は、思わずアルベルト様の顔を見た。
冗談を言う人ではない。本気で、毎日ここに座るつもりなのだ。
「毎日三時間はいけません。騎士団の副官様が泣いてしまいます」
「では、二時間にする」
「一時間です」
「……一時間半」
真剣に交渉してくる人がおかしくて、私はまた笑った。
時計塔の針が、少しずつ夕暮れへ進んでいく。
もう、時計を見上げて数える必要はなかった。
◇
後日、聖女様から手紙が届いた。
『おめでとう! 結婚式の日取りが決まったら教えてね。ちなみに当日、アルベルトは何時間前に教会に来ると思う? 私は前日の夜からだと思う。賭けましょう。 セラフィナ』
私は、手帳を開いた。
四十七個の黒い点のあとに、新しい印をひとつつける。
小さな、赤い丸。
初めて、私が待たせた日の印だ。
(了)




