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夫に虐げられていた私に、手を差し伸べた人。

作者: 明太子うどん
掲載日:2026/04/22


 屋敷の一室に、陶器の割れる音が響いた。

 

 床に広がるティーカップの破片を、ナタリアはぼんやりと見下ろした。白い磁器に描かれた薔薇の模様が、いくつかに割れて散らばっている。

 

「話しかけるな! 僕のティータイムを邪魔するなといつも言っているだろう!」

 

 ナタリアの夫ヒュードは、革張りの椅子に深く座ったまま、彼女を見もしなかった。


 窓から差し込む午後の光が、彼の金色の髪を柔らかく照らしている。絵になる光景だった。

 腹立たしくなるくらい美しい容貌。

 

「も、申し訳ございません……」

「失せろっ! そもそも、僕の妻としてお前は相応しくない!! いますぐ消えろ!!」

 

 ナタリアは深く頭を下げて、部屋を出た。

 扉を閉めた瞬間、背中でまた何かが床に落ちる音がした。

 

 廊下に出ると、急に膝の力が抜けそうになった。壁に手をついて、息を整える。

 

 夫——ヒュード・フスキー男爵。

 この国で、その名を知らぬ者はいない。


 彼の書く小説は発売のたびにベストセラーになり、本屋には朝から長い行列ができる。

 繊細な心理描写と、息をのむほど美しい情景描写。

 読む者の心を鷲掴みにする、まるで魔法のような文章。


 王侯貴族から平民まで、様々な人たちが彼の作品を愛読している。

 

 ナタリアもそのうちの一人だ。

 

 政略結婚が決まった時、正直、少し心が踊った。

 あの素晴らしい作品を書く人がどんな人なのか。

 きっと物静かで、深い思慮を持った人なのだろうと思っていた。

 

 実態は、これだ。しかもヒュードは複数の令嬢と関係を持ち、夜な夜な屋敷に連れ込んだりもしている。ナタリアの居場所はどこにもない。

 

「どうして……毎日、毎日っ……」

 

 廊下の窓の外に、手入れされた庭が見えた。

 白い花が風に揺れている。穏やかな景色だった。

 自分の今いる場所とは、まるで別の世界のように。

 

 拭っても拭っても、涙があふれてくる。

 

 悲しいというより、悔しかった。自分でも気づかないうちに声が漏れた。情けない、と思った。思ったのに、止まらない。

 

 そんな時、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

 ナタリアは慌てて顔を袖で拭い、俯いた。誰かに見られたくなかったからだ。


 足音が、止まる。

 

 恐る恐る顔を上げると——栗色の髪の男と目が合った。年齢はナタリアと同じくらいだろうが、可愛らしい顔をしていて、幼さを感じさせる。

 何と言うか、言葉ではうまくできない独特の雰囲気を纏っていた。

 

「ナタリア様、大丈夫ですか」

「えっ……?」

 

 柔らかい、穏やかな声だった。

 

「とても……辛そうです。僕でよければ、お話を聞かせていただけませんか。僕は、カフカといいます」

「カフカさん……」

 

 その名前を繰り返しながら、ナタリアは思った。

 なぜこの人は、今、自分に優しくしているのだろう。なぜここにいるのだろう。

 なぜ——自分の名前を知っているのだろう。

 

 疑問はいくつもあった。でも涙が滲んだままの目で、ただ『はい』と頷いていた。

 

* * *

 

 すぐ近くの応接室に入り、二人は向かい合った。

 

 最初は話すつもりがなかった。こんなことを話しても何も変わらないと、ナタリア自身が一番よく分かっていた。

 

 でも気づけば、言葉がするすると出てきた。

 

 日常的な罵倒のこと。暴力を振るわれることもあること。ヒュードが何人もの令嬢と不倫をしていること。実家には帰れないこと。誰にも言えないまま、ずっと一人で抱えてきたこと。

 

 話し終えた時、胸の奥にあった重いものが少し軽くなった気がした。


 それと同時に、ようやく正気に返った。

 

(私は何をしているんだろう。こんな見知らぬ男の人に……)

 

「ナタリア様のお話、確かに聞き届けました」

 

 カフカが静かに言った。

 

「あとは、僕に任せて下さい」

「……どういうこと?」

 

 ナタリアは聞いた。でもカフカは答えなかった。ただ、穏やかに微笑んでいた。

 

「あなたは……何者なの? そもそも、なぜこの屋敷に?」

 

 立ち上がり、部屋を出ようとするカフカに、ナタリアは問いかけた。


 カフカは振り返って、少し考えるような間を置いてから言った。

 

「さあ…………後で、分かりますよ」

 

 それだけ言って、廊下に消えた。

 ナタリアは慌てて追いかけたが、もうどこにも彼女の姿はない。

 

 窓の外で、白い花が揺れていた。

 

* * *

 

 一ヶ月後。男爵邸の執務室。

 

「では、こちらが今回の作品でございます。タイトルは——『告白(Confession)』」

 

「ああ。いつものようによろしく」

 

「内容はご確認されなくて大丈夫でございますか」

 

「かまわん。どうせ今回も傑作だろうからな」

 

 机に置かれた本に全く目を向けず、ヒュードは溜まっている政務に勤しんでいた。


 その本の表紙に記された著者名は——ヒュード・フスキー。


 ソファに腰掛けながら、『告白』の真の著者であるカフカは嗤った。


 ——代筆者(ゴーストライター)は、もう終わりだ、と。

 

* * *

 

 翌週。発売された『告白』に、国中が震撼した。

 

 その内容は、ヒュード・フスキーという名の貴族の、数年にわたる妻への酷い仕打ち、そして五人の貴族令嬢との不倫の記録だった。見事な筆致と豊かな感情表現、誰もが舌を巻く繊細な情景描写。最高傑作だった。

 

 そして『告白』の最後に書かれていたのは——ヒュード・フスキー男爵はこれまでの全ての作品を、代筆者であるF・カフカに書かせ、それを己の作品だと偽り続けた、ということだった。

 

 王都は大騒ぎになり、熱狂的なファンは発狂した。

 ヒュードの作品は王侯貴族の間でも長年愛読されていた。それが代筆者の手によるものだったと知り、皆が怒り狂ったのだ。


 ヒュードは屋敷の外に出られなくなった。

 

 どこへ行っても『大嘘つき』と指を刺される。

 使用人は次々と辞めていった。令嬢たちは誰も寄りつかなくなった。

 社交界での居場所も、名声も、全て消えた。

 

 ヒュードが築いてきたものは、全て崩れ落ちたのだ。


 

 その頃、ナタリアは実家の屋敷にいた。

 

 悪行が明るみに出たことで社会的な交渉力を完全に失ったヒュードは、離婚の申し出をあっさりと受け入れた。

 ナタリアの両親がすぐに動いてくれた。長い廊下で一人泣いていた日々が、まるで嘘のようだった。

 

「ありがとう。本当に……救われたわ」

 

 ナタリアはティーカップを持ちながら、目の前でケーキを頬張るカフカに微笑みかけた。

 柔らかな陽光が窓から差し込んで、テーブルの上の白い花を照らしている。

 あの屋敷の廊下から見ていたのと同じ、穏やかな景色だった。今は、その景色の中に自分がいる。

 

「お役に立てたなら良かったです。前から、代筆者なんて辞めたいと思っていましたし。報酬もケチられて微々たるものだったんですよ」

 

「えぇ! そうなの……?」

 

「本当にあの男、許せない。元々、ナタリア様の様子がおかしいとは思っていました。実際にお話を聞いて、事実確認ができたので、全部書いて世に出してやったんです! あー! せいせいした!!」

 

 口元にホイップクリームを付けたまま、カフカは満足げにそう言った。

 ナタリアは思わず声を出して笑った。こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。

 

「ふふふ……カフカさん。いや、カフカ。あなたって本当に面白い人ね」

「ええっ、今の会話に面白い要素ないですよ〜!」

 

 カフカが不満げに頬を膨らませる。その仕草がまたおかしくて、ナタリアはしばらく笑い続けた。

 

 ひとしきり笑ってから、ナタリアはカフカを見つめた。

 

 あの日、廊下で途方に暮れていた自分に、最初に声をかけてくれた人。何も言わずに全てを聞いてくれた人。そして——自分が形にできなかった怒りを、言葉にして、この世界に届けてくれた人。

 

「でもね」

 

 ナタリアは言った。

 

「私、あの男の小説が大好きだったの。ずっと。だから、最低な人間なのにこんなに美しい文章が書けてしまうんだ、って——読むたびに、悔しかった」

 

 窓から風が吹いて、花が揺れた。

 

「だから、カフカ。あなたが——」

 

 ——作者で、良かった。

 

 カフカはその言葉を聞いて、少し目を細めた。

 照れているのか、嬉しいのか、その表情はうまく読めない。

 だが、ホイップクリームのついた口元が、ゆっくりと綻んだ。

 

 これはかつてヒュード・フスキーの代筆者として名を馳せ、後に文豪と呼ばれた——F・カフカの人生の、ほんとうに小さな一幕の話である。


ゴーストライターってカッコイイなあと思いながら書きました。

もし少しでも良かった!と思っていただけましたら、ぜひ評価やブックマークなどして下さると、大変励みになります!!

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