夫に虐げられていた私に、手を差し伸べた人。
屋敷の一室に、陶器の割れる音が響いた。
床に広がるティーカップの破片を、ナタリアはぼんやりと見下ろした。白い磁器に描かれた薔薇の模様が、いくつかに割れて散らばっている。
「話しかけるな! 僕のティータイムを邪魔するなといつも言っているだろう!」
ナタリアの夫ヒュードは、革張りの椅子に深く座ったまま、彼女を見もしなかった。
窓から差し込む午後の光が、彼の金色の髪を柔らかく照らしている。絵になる光景だった。
腹立たしくなるくらい美しい容貌。
「も、申し訳ございません……」
「失せろっ! そもそも、僕の妻としてお前は相応しくない!! いますぐ消えろ!!」
ナタリアは深く頭を下げて、部屋を出た。
扉を閉めた瞬間、背中でまた何かが床に落ちる音がした。
廊下に出ると、急に膝の力が抜けそうになった。壁に手をついて、息を整える。
夫——ヒュード・フスキー男爵。
この国で、その名を知らぬ者はいない。
彼の書く小説は発売のたびにベストセラーになり、本屋には朝から長い行列ができる。
繊細な心理描写と、息をのむほど美しい情景描写。
読む者の心を鷲掴みにする、まるで魔法のような文章。
王侯貴族から平民まで、様々な人たちが彼の作品を愛読している。
ナタリアもそのうちの一人だ。
政略結婚が決まった時、正直、少し心が踊った。
あの素晴らしい作品を書く人がどんな人なのか。
きっと物静かで、深い思慮を持った人なのだろうと思っていた。
実態は、これだ。しかもヒュードは複数の令嬢と関係を持ち、夜な夜な屋敷に連れ込んだりもしている。ナタリアの居場所はどこにもない。
「どうして……毎日、毎日っ……」
廊下の窓の外に、手入れされた庭が見えた。
白い花が風に揺れている。穏やかな景色だった。
自分の今いる場所とは、まるで別の世界のように。
拭っても拭っても、涙があふれてくる。
悲しいというより、悔しかった。自分でも気づかないうちに声が漏れた。情けない、と思った。思ったのに、止まらない。
そんな時、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
ナタリアは慌てて顔を袖で拭い、俯いた。誰かに見られたくなかったからだ。
足音が、止まる。
恐る恐る顔を上げると——栗色の髪の男と目が合った。年齢はナタリアと同じくらいだろうが、可愛らしい顔をしていて、幼さを感じさせる。
何と言うか、言葉ではうまくできない独特の雰囲気を纏っていた。
「ナタリア様、大丈夫ですか」
「えっ……?」
柔らかい、穏やかな声だった。
「とても……辛そうです。僕でよければ、お話を聞かせていただけませんか。僕は、カフカといいます」
「カフカさん……」
その名前を繰り返しながら、ナタリアは思った。
なぜこの人は、今、自分に優しくしているのだろう。なぜここにいるのだろう。
なぜ——自分の名前を知っているのだろう。
疑問はいくつもあった。でも涙が滲んだままの目で、ただ『はい』と頷いていた。
* * *
すぐ近くの応接室に入り、二人は向かい合った。
最初は話すつもりがなかった。こんなことを話しても何も変わらないと、ナタリア自身が一番よく分かっていた。
でも気づけば、言葉がするすると出てきた。
日常的な罵倒のこと。暴力を振るわれることもあること。ヒュードが何人もの令嬢と不倫をしていること。実家には帰れないこと。誰にも言えないまま、ずっと一人で抱えてきたこと。
話し終えた時、胸の奥にあった重いものが少し軽くなった気がした。
それと同時に、ようやく正気に返った。
(私は何をしているんだろう。こんな見知らぬ男の人に……)
「ナタリア様のお話、確かに聞き届けました」
カフカが静かに言った。
「あとは、僕に任せて下さい」
「……どういうこと?」
ナタリアは聞いた。でもカフカは答えなかった。ただ、穏やかに微笑んでいた。
「あなたは……何者なの? そもそも、なぜこの屋敷に?」
立ち上がり、部屋を出ようとするカフカに、ナタリアは問いかけた。
カフカは振り返って、少し考えるような間を置いてから言った。
「さあ…………後で、分かりますよ」
それだけ言って、廊下に消えた。
ナタリアは慌てて追いかけたが、もうどこにも彼女の姿はない。
窓の外で、白い花が揺れていた。
* * *
一ヶ月後。男爵邸の執務室。
「では、こちらが今回の作品でございます。タイトルは——『告白』」
「ああ。いつものようによろしく」
「内容はご確認されなくて大丈夫でございますか」
「かまわん。どうせ今回も傑作だろうからな」
机に置かれた本に全く目を向けず、ヒュードは溜まっている政務に勤しんでいた。
その本の表紙に記された著者名は——ヒュード・フスキー。
ソファに腰掛けながら、『告白』の真の著者であるカフカは嗤った。
——代筆者は、もう終わりだ、と。
* * *
翌週。発売された『告白』に、国中が震撼した。
その内容は、ヒュード・フスキーという名の貴族の、数年にわたる妻への酷い仕打ち、そして五人の貴族令嬢との不倫の記録だった。見事な筆致と豊かな感情表現、誰もが舌を巻く繊細な情景描写。最高傑作だった。
そして『告白』の最後に書かれていたのは——ヒュード・フスキー男爵はこれまでの全ての作品を、代筆者であるF・カフカに書かせ、それを己の作品だと偽り続けた、ということだった。
王都は大騒ぎになり、熱狂的なファンは発狂した。
ヒュードの作品は王侯貴族の間でも長年愛読されていた。それが代筆者の手によるものだったと知り、皆が怒り狂ったのだ。
ヒュードは屋敷の外に出られなくなった。
どこへ行っても『大嘘つき』と指を刺される。
使用人は次々と辞めていった。令嬢たちは誰も寄りつかなくなった。
社交界での居場所も、名声も、全て消えた。
ヒュードが築いてきたものは、全て崩れ落ちたのだ。
その頃、ナタリアは実家の屋敷にいた。
悪行が明るみに出たことで社会的な交渉力を完全に失ったヒュードは、離婚の申し出をあっさりと受け入れた。
ナタリアの両親がすぐに動いてくれた。長い廊下で一人泣いていた日々が、まるで嘘のようだった。
「ありがとう。本当に……救われたわ」
ナタリアはティーカップを持ちながら、目の前でケーキを頬張るカフカに微笑みかけた。
柔らかな陽光が窓から差し込んで、テーブルの上の白い花を照らしている。
あの屋敷の廊下から見ていたのと同じ、穏やかな景色だった。今は、その景色の中に自分がいる。
「お役に立てたなら良かったです。前から、代筆者なんて辞めたいと思っていましたし。報酬もケチられて微々たるものだったんですよ」
「えぇ! そうなの……?」
「本当にあの男、許せない。元々、ナタリア様の様子がおかしいとは思っていました。実際にお話を聞いて、事実確認ができたので、全部書いて世に出してやったんです! あー! せいせいした!!」
口元にホイップクリームを付けたまま、カフカは満足げにそう言った。
ナタリアは思わず声を出して笑った。こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
「ふふふ……カフカさん。いや、カフカ。あなたって本当に面白い人ね」
「ええっ、今の会話に面白い要素ないですよ〜!」
カフカが不満げに頬を膨らませる。その仕草がまたおかしくて、ナタリアはしばらく笑い続けた。
ひとしきり笑ってから、ナタリアはカフカを見つめた。
あの日、廊下で途方に暮れていた自分に、最初に声をかけてくれた人。何も言わずに全てを聞いてくれた人。そして——自分が形にできなかった怒りを、言葉にして、この世界に届けてくれた人。
「でもね」
ナタリアは言った。
「私、あの男の小説が大好きだったの。ずっと。だから、最低な人間なのにこんなに美しい文章が書けてしまうんだ、って——読むたびに、悔しかった」
窓から風が吹いて、花が揺れた。
「だから、カフカ。あなたが——」
——作者で、良かった。
カフカはその言葉を聞いて、少し目を細めた。
照れているのか、嬉しいのか、その表情はうまく読めない。
だが、ホイップクリームのついた口元が、ゆっくりと綻んだ。
これはかつてヒュード・フスキーの代筆者として名を馳せ、後に文豪と呼ばれた——F・カフカの人生の、ほんとうに小さな一幕の話である。
ゴーストライターってカッコイイなあと思いながら書きました。
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