表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

Stand by

作者: Romi
掲載日:2026/04/01

第1章 春風



春の朝は、どこか現実感が薄い。


冬の冷たさをわずかに残した空気が、肌に触れるたびにくすぐったくて、目の前の景色が少しだけ柔らかく見える。


新しい制服。まだ糊の匂いが残るシャツ。

袖を通すたびに、生地が自分のものじゃないみたいで落ち着かない。


まだ硬い革靴は、歩くたびにぎこちなく音を立てる。

コツ、コツ、と響くその音が、やけに現実を突きつけてくる。


慣れないネクタイ。


何度も結び直したせいで少し歪んでいるそれを、透は鏡の前で整える。

けれど視線は、ネクタイよりも自分の顔に向いていた。


(……子供っぽいな)


そんなことを思ってしまうのは、きっと――


 


春乃に会うからだ。


 


(変に思われたらどうするんだよ)


小さくため息を吐く。


今までだって何度も会ってきたはずなのに、今日は妙に意識してしまう。


 


(なんでだよ……)


理由なんて、考えなくても分かっているのに。


 


 


けれど、一つだけ

はっきりしていることがあった。


 


春乃に会える。


 


その事実だけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。


同時に、ほんの少しだけ騒がしくなる。


 


家を出ると、春の光がまっすぐに降りてきた。


桜はまだ満開じゃない。

けれど、その未完成な景色が、今日という日に似合っている気がした。


 


気づけば、透の歩く速度はいつもより少し速くなっていた。


 


校門の前は人で溢れていた。


新しい制服を着た生徒たち。

笑っている者、不安そうな者、誰かを探している者。


そのどれもが、自分と同じ“始まり”の中にいる。


 


知らない顔ばかりの中で、

透は迷わなかった。


 


視線を一度だけ巡らせる。


 


――すぐに、見つけた。


 


人混みの少し外側。

少しだけ不安そうに、でも真っ直ぐ立っているその姿。


 


胸が、ドクンと鳴る。


 


「春乃!」


 


名前を呼ぶ。


 


振り返る。


 


その瞬間、周囲の音が少しだけ遠くなる。


ざわめきも、足音も、全部がぼやけて――

ただ、春乃の姿だけがはっきりと浮かび上がる。


 


「透……よかった」


 


安心したように笑う春乃。


その表情を見た瞬間、透の中にあった緊張が、すっとほどけていく。


 


――同時に、少しだけ胸が苦しくなる。


 


(こんな顔、前からしてたか……?)


 


昔から見てきたはずの笑顔なのに、今日は違って見えた。


 


少しだけ、大人びて見える。

少しだけ、遠く感じる。


 


でも、その距離を埋めるように、自然と足が動いた。


 


「同じクラスだな」


 


「うん……ちょっと緊張してた」


 


春乃はそう言って、指先で制服の袖を軽くつまむ。

その仕草が妙に可愛く見えて、透は一瞬言葉に詰まった。


 


(やばいな……)


 


変に意識してるのが、自分でも分かる。


 


「俺がいるだろ」


 


それでも、なんとか言葉を絞り出す。


 


一瞬、春乃がこちらを見る。


少しだけ驚いたような目。


 


それから――


 


「そうだね」


 


ふわっと、柔らかく笑った。


 


その笑顔が近すぎて、透は思わず視線を逸らす。


 


(近いって……)


 


今まで何度も隣にいたはずなのに、

今日は距離の感覚が少しおかしい。


 


肩が触れそうで、触れない。


そのわずかな距離が、やけに意識される。


 


沈黙が落ちる。


けれど、気まずさはなかった。


 


むしろ――


 


言葉にしなくてもいい時間が、そこにあった。


 


「……行くか」


 


透がそう言うと、春乃は小さく頷く。


 


二人並んで、校門をくぐる。


 


ほんの少しだけ、歩幅を合わせながら。


 


その瞬間、透は気づいてしまう。


 


この春は、きっと今までと同じじゃない。


 


幼なじみだった距離が、

少しずつ変わっていく。


 


その始まりが、今ここにあることを。


 


そして――


 


隣にいる春乃の存在が、

思っている以上に、自分の中で大きくなっていることを。


 


まだ言葉にはできないまま、

その想いだけが、静かに胸の奥に残っていた。





第2章 守る理由


最初の一ヶ月は、驚くほど平穏だった。


まるで何も起きないことが、当たり前みたいに。


昼休み。


教室のざわめきはいつも通りで、笑い声や机を引く音が入り混じる中、その一角だけは少し空気が違っていた。


「今日、弁当?」


透が机に肘をつきながら、何気なく聞く。


「うん。ちょっと交換する?」


春乃はそう言って、ふたを開けた弁当を少しだけ差し出す。


「それ毎回言ってない?」


「気のせい」


「いや絶対言ってるだろ」


「でも透、結局毎回交換するじゃん」


「……まあな」


少しだけ呆れたように言いながら、箸を伸ばす。


春乃の弁当は、どこか優しい味がした。

家庭的で、少しだけ甘くて、安心する味。


「今日も美味い」


「ほんと?よかった」


その笑顔を見て、透はなぜか少しだけ安心する。


周りの喧騒の中で、その時間だけがやけに穏やかだった。


時間がゆっくり流れているような、そんな錯覚。


放課後。


チャイムが鳴り、教室が一気にざわつく。


部活に向かう者、友達と話しながら帰る者、その中で透はいつものように春乃の方を見る。


「寄り道する?」


「コンビニくらいなら」


少しだけ考えてから返ってくる、その答えもいつも通り。


帰り道のコンビニ。


自動ドアが開く音、冷房のひんやりした空気。


アイスコーナーの前で、春乃は必ず少し迷う。


真剣な顔で、棚を見つめる。


「また悩んでる」


「だって新しいの気になるし」


「どうせ同じの買うんだろ」


「……そうだけど」


少しだけ拗ねたように言って、結局手に取るのはいつも同じアイス。


「またそれ?」


「好きなんだもん」


レジに並びながら、そんなやり取りを繰り返す。


外に出て、歩きながら食べる。


夕方の風が少しだけ涼しくて、空がオレンジに染まり始める時間。


「今日、授業眠くなかった?」


「なった。数学で一瞬意識飛んだ」


「先生に当てられなくてよかったね」


「ほんとそれ」


他愛もない会話。


何気ない時間。


それがずっと続くと思っていた。


疑う理由なんて、どこにもなかった。


変化は、静かに訪れた。


ある日の朝。


春乃が席に着くと、慌てて何かを隠そうとしてるのが見えた。


春乃の様子が気になり、近くまで行く。


机の中に、くしゃくしゃに丸められた紙くずが入っていた。


最初は、ただのゴミかと思った。


でも開いてみると、そこには意味のない悪口が書かれていた。


雑な字で、投げるように書かれた言葉。


透はそれを無言で握りつぶした。


昼には、教科書が一冊なくなっていた。


周りを見ても、誰も何も言わない。


ひそひそとした声だけが、やけに耳につく。


「……大丈夫?」


放課後、誰もいなくなりかけた教室で、透は聞いた。


窓から差し込む夕日が、春乃の横顔を照らしている。


「平気だよ」


春乃は、いつも通り笑った。


その笑顔は、少しだけ無理をしているようにも見えた。


「平気じゃないだろ」


「……透がいるし」


その言葉に、何も言えなくなる。


軽い調子で言ったはずなのに、妙に重く胸に残る。


(守らなきゃ)


その感情は、自然だった。


考えるより先に、そう思っていた。


それからは、ずっと一緒にいた。


朝、教室に入るとすぐに声をかける。


「おはよう」


「おはよ」


そのやり取りがあるだけで、少しだけ空気が和らぐ気がした。


昼休みは必ず隣で食べる。


他の席に行こうとする春乃を、さりげなく引き止めることもあった。


帰り道は並んで歩く。


コンビニにも、必ず一緒に寄る。


「今日も一緒に帰ろう」


「うん」


最初は少し遠慮がちなその“うん”が、少しずつ変わっていく。


柔らかくなっていく。


安心したような、頼るような響きに。


距離は確実に近づいていた。


時間が経つにつれて、いじめは少しずつ形を失っていった。


机の中の紙は入らなくなり、


物がなくなることも減り、


ひそひそ声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。


透がそばにいること。


それだけで、抑止力になっていたのかもしれない。


ある日の帰り道。


いつものコンビニの前で、春乃がふっと息をついた。


「最近、何もなくなったね」


「ああ」


短く答える。


でもその声には、少しだけ力が抜けていた。


「よかったな」


その言葉に、少し間があってから——


「……うん」


春乃は、安心したように笑った。


その笑顔は、最初に見たものよりもずっと自然で、柔らかかった。


作られたものじゃない、本当の笑顔。


それを見た瞬間、透の胸の奥が静かにほどける。


(間に合った)


透は、そう思った。


守れた。


ちゃんと、そばにいられた。


それだけでいいと思った。






第3章 近づく距離


夏。


じりじりと焼けつくような日差しが、アスファルトを白く揺らしていた。

遠くで蝉の鳴き声が途切れることなく続き、空気そのものが熱を帯びているみたいだった。


放課後の帰り道。


制服のシャツは背中に張りつき、少し動くだけで汗がにじむ。

けれど、不思議と嫌じゃなかった。


隣を歩く春乃の存在が、全部をやわらかくしていたからだ。


いつものように、駅前のコンビニに立ち寄る。

自動ドアが開いた瞬間、冷たい空気が流れ出てきて、思わず二人で同時に「涼し…」と呟いた。


顔を見合わせて、また笑う。


冷凍ケースの前で、春乃が少しだけ迷う仕草をする。

本当は決まっているくせに、こういう時間を楽しんでいるのを透は知っていた。


「今日もそれ?」

「うん。だって美味しいし」


少しだけ視線が合う。

ほんの一瞬なのに、なぜか逸らすのが遅れて、先に春乃のほうが目をそらした。


それだけで、胸の奥が少しざわつく。


結局、いつものアイスを一本だけ買う。

最初から“半分こ”する前提の、当たり前みたいな選択。


外に出ると、また一気に熱気が押し寄せる。

さっきまでの涼しさが嘘みたいだった。


日陰を選びながら、ゆっくりと歩き出す。


袋からアイスを取り出し、包装を破る。

少しだけ溶け始めていて、表面がやわらかくなっていた。


「それ溶けてるぞ」


透が呆れたように言う。


「急げば間に合う」


春乃は真剣な顔で答える。


「無理だろ」


「無理じゃない」


即答だった。


そのやり取りが、もう何度目かわからないくらい繰り返されているのに、毎回ちゃんと面白い。


結局、春乃が一口かじって、少し溶けた部分を気にしながら透に差し出す。


「ほら、早く」


少しだけ距離が近い。

指先が触れそうで、触れない。


「……近いって」


思わずそう言うと、


「じゃあ自分で取れば?」


意地悪そうに笑う。


仕方なく手を伸ばした瞬間、ほんの一瞬だけ指が触れた。


その温度が、妙に残る。


「はいはい」


何事もなかったように受け取って口に運ぶと、冷たさが一気に広がる。

甘さと同時に、どこか落ち着かない感覚が胸に残った。


二人で一本のアイスを分け合う距離。

手が触れそうで触れない、その微妙な間。


それが、前より少しだけ意識されている気がした。


笑い合う。


その横顔を見ながら、透は思う。


(ずっと、このままでいい)


……いや、本当は少しだけ違う。


この距離が、あと少しだけ縮まればいいと、

そんなことを思っている自分に気づいて、苦笑する。


「ねえ……透」


ふいに、春乃が呼ぶ。


「ん?」


視線を向けると、春乃は前を向いたまま、少しだけ声のトーンを落としていた。


「今、幸せ?」


突然の質問。


一瞬、意味を考える。


「なんだよ急に」


「いいから」


軽い調子じゃない。

冗談でも、いつものノリでもない声だった。


透は少しだけ考えてから、答える。


「……まあ、幸せだな」


少しだけ言葉を選んだ。

隣にいる“誰か”を意識してしまったから。


その答えを聞いた春乃は、ほんの少しだけ息を吐いて――


安心したように、笑った。


「よかった」


そのあと、小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの声で


「……私も」


と、続けた気がした。


「ん?今なんか言った?」


「言ってない」


すぐにそっぽを向く。

でも、その耳がほんのり赤いのを透は見逃さなかった。


そのことを指摘する勇気は、まだなかったけれど。


「溶ける前に食べきれたな」


「だから言ったでしょ、無理じゃないって」


得意げに笑う。


けれどその笑顔は、どこか少しだけ照れているようにも見えた。


夕焼けが、少しずつ街をオレンジ色に染めていく。

影が長く伸びて、二人の距離をゆっくりと繋いでいた。


並んで歩くその距離は、変わっていないはずなのに。


さっきより、ほんの少しだけ近く感じた。


その言葉の意味を、深く考えなかった。


――けれど、考えなくてもわかってしまうくらいには、

二人の距離は、もう変わり始めていた。





第4章 あの日


文化祭の準備が始まる。


教室の中は、いつもより少し騒がしかった。

机が端に寄せられ、段ボールや色紙、ペンキの匂いが混ざり合う。


誰かが笑い、誰かが指示を出し、誰かがサボろうとして怒られる。

そんな、どこにでもあるような光景。


けれど透にとっては、どこか特別に感じられていた。


理由は、すぐ隣にいる春乃だった。


「買い出し、誰か行ける?」


クラス委員の声が響く。


一瞬だけ、空気が止まる。

誰もが「できれば行きたくない」と思っている、あの微妙な沈黙。


その中で、透は自然に手を挙げていた。


「俺行く」


自分でも驚くくらい、迷いはなかった。


少しでも教室の外に出て、春乃と二人きりになれるかもしれない――

そんな期待が、どこかにあったのかもしれない。


「……私も」


少し遅れて、春乃が言う。


その声を聞いた瞬間、胸の奥が軽く跳ねた。


「じゃあ二人でお願いねー」


軽く決まる。


それが、妙に嬉しかった。


特別な理由なんてないはずなのに。

ただ“二人で行く”という事実だけで、十分だった。


放課後。


必要なものを書いたメモを手に、二人で学校を出る。


夕焼けの街。


空はゆっくりと色を変えて、オレンジから赤へと滲んでいく。

長く伸びた影が、並んで歩く二人の足元を繋いでいた。


「結構多いな」


透はメモを見ながら苦笑する。


「重そうなら持つよ?」


「いや、大丈夫」


そう言いながらも、少し見栄を張っている自分に気づく。


「じゃあ半分持つ」


有無を言わせない調子で、春乃が袋を一つ持っていく。


「……ありがと」


「どういたしまして」


少しだけ視線が合う。


その何気ないやり取りが、やけに嬉しかった。


スーパーで買い出しを済ませ、袋を両手にぶら下げて歩く帰り道。


さっきよりも人通りは少なく、街は静けさを帯び始めていた。


「こういうの、いいよな」


透がぽつりと呟く。


「うん」


春乃も、同じ温度で返す。


「なんかさ……普通だけどさ」


言葉を探す。


うまく説明できないけれど、この時間が特別に感じる理由を伝えたくて。


「……楽しい」


結局、ありきたりな言葉しか出てこなかった。


「ふふ、なにそれ」


春乃が小さく笑う。


でも、その笑い方はどこか優しかった。


「でも、わかるよ」


その一言で、全部が報われた気がした。


袋を持って歩く、その距離が心地いい。


触れそうで触れない距離。

けれど、離れすぎることもない距離。


その曖昧さが、今はちょうどよかった。


「春乃……」


透が名前を呼ぶ。


「なに?」


すぐに返ってくる声。


少しだけ心臓がうるさくなる。


今なら、言える気がした。


この空気、この距離、このタイミングなら。


「俺さ――」


言いかけた、その瞬間。


クラクションが鳴り響いた。


反射的に顔を上げる。


迫る車。


思考より先に体が動いていた。


「危ない!!」


腕を引く。


強く。


迷いなく。


そのまま、春乃の体を引き寄せる。


抱き寄せる形になって、二人の距離が一気にゼロになる。


直後、風を切るように車がすぐ横を通り過ぎた。


一瞬遅れていたら――


そんな考えが頭をよぎる。


「……っ」


鼓動がうるさい。


腕の中にある温もりが、やけにリアルで。


「大丈夫か!?」


思わず声を荒げる。


春乃は、しばらく何も言わなかった。


透の制服を、ぎゅっと掴んだまま。


震えているのが、わかる。


「……春乃?」


そっと顔を覗き込む。


少し遅れて、春乃が顔を上げる。


目には涙が浮かんでいた。


けれど――


「……ありがとう」


そう言って、笑った。


その笑顔は、どこか弱くて、でも確かに強くて。


透の胸を、強く締めつけた。


その瞬間。


「好き」


春乃が言った。


一瞬、時間が止まる。


「私、ずっと好きだった」


迷いのない声だった。


揺れも、ためらいもない。


ただまっすぐに、透だけを見ていた。


さっきまで震えていたはずなのに、

その瞳は不思議なくらい強かった。


透の中で、何かがほどける。


さっき言えなかった言葉が、自然と溢れ出る。


「俺もだよ」


考えるまでもなかった。


ずっと前から、答えは決まっていたのかもしれない。


言葉にした瞬間、世界が少しだけ変わった気がした。


抱き寄せたままの距離。


今度は、離す理由が見つからなかった。


夕焼けは、いつの間にか夜に変わりかけていた。


街灯が一つ、また一つと灯り始める。


その中で、二人はしばらく動けなかった。


離れたくないと思ったのは、きっと同じだった。


それが、始まりだった。


何気ない日常の延長線にあった、

たった一つの出来事。


けれど――


二人の関係を、確かに変えた「あの日」。





第5章 続く未来


付き合い始めてからの毎日は、

驚くほど穏やかだった。


特別なことなんて、何もない。

けれど、その「何もない」が、こんなにも満たされるものだと初めて知った。


放課後、教室のざわめきが少しずつ静かになっていく中で、

自然と目が合う。


「帰ろ」


それだけで通じる。


一緒に帰る帰り道。

並んで歩くだけなのに、不思議と安心する距離。


コンビニに寄って、同じものを買って、

どっちが先に食べ終わるかなんて、どうでもいいことで笑う。


信号待ちの時間さえ、嫌じゃなかった。


休日には、少しだけ遠くへ行った。


電車に揺られて、知らない街へ。

特別な目的なんてなくて、ただ「一緒にいる時間」を増やしたかっただけ。


「どこ行く?」


「適当でいいよ」


そんな曖昧な会話すら、楽しかった。


小さなカフェに入って、

甘いものを分け合って、

どうでもいい話を延々と続ける。


学校のこと、将来のこと、くだらない噂話。

全部が同じ重さで、同じくらい大切だった。


何でもない話で笑う。


それが、何より幸せだった。


ある日の帰り道。

夕焼けがやけに綺麗で、空が赤く染まっていた。


ふと、彼女が言った。


「卒業したらさ」


「うん」


「一緒に住めたらいいね」


少し照れくさそうに笑うその顔を見て、

胸の奥がじんわりと熱くなる。


「いいな、それ」


口にした瞬間、

その未来が本当に来る気がした。


小さな部屋でいい。

朝起きて、隣にいるのが当たり前で、

夜も同じ場所に帰ってくる。


そんな、ありふれた未来。


でも、それが何より欲しかった。


未来の話をする。


どこに住むか、

どんな仕事をするか、

休日は何をするか。


具体的じゃなくてもよかった。

ただ「一緒にいる未来」を想像するだけで、十分だった。


それが、当たり前だった。


季節は巡り、冬が来る。


吐く息が白くなって、

街の空気が少しだけ静かになる。


雪が降る帰り道。


音が吸い込まれるような、

しん、とした空気の中で、二人並んで歩く。


足元で雪がきしむ音だけが、やけに響いた。


「寒いね」


彼女が肩をすくめる。


マフラーに顔を埋めて、少しだけ震えている。


「手、つなぐか」


そう言うと、

彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「うん」


差し出した手を、ゆっくりと取る。


その仕草が、妙に愛おしかった。


その手は、冷たかった。


指先まで、凍るみたいに。


けれど、しばらくすると、少しずつ温もりが戻ってくる気がした。

重なった手から、じんわりと伝わる体温。


「冷たいな」


「だって寒いし」


「そりゃそうか」


そんなやり取りすら、どこか心地よくて。


強く握りすぎないように、でも離さないように。

その微妙な力加減が、妙にリアルで。


彼女の手は、相変わらず少し冷たかったけど、

それでも、その冷たささえ愛おしく思えた。


雪は静かに降り続けていた。


街灯に照らされて、

ゆっくりと舞い落ちる白い粒。


時間が止まったみたいな、そんな感覚。


「このままさ」


「うん?」


「ずっとこうしてられたらいいのにな」


思わずこぼれた言葉。


彼女は少しだけ黙ってから、

小さく頷いた。


「うん」


その返事が、やけに優しくて。


何も疑わなかった。

この時間が、この関係が、ずっと続くものだと。


続くはずだと、信じていた。


その手の冷たさも、

少しだけ違和感のあった沈黙も、

全部、ただの冬のせいだと思っていた。


だから、気にしなかった。




第6章 崩壊


高校三年の冬。


窓の外では、粉雪が静かに降っていた。

グラウンドは白く霞み、いつも聞こえるはずの部活の声も、今日はやけに遠い。


教室の空気は乾いていて、ストーブの熱だけがやけに現実感を持っていた。


そのとき。


「透くん」


担任の声が、やけに鮮明に耳に刺さった。


クラスのざわめきが一瞬止まる。

何人かの視線がこちらに向くのを感じる。


「ちょっと、いいか」


促されるまま、立ち上がる。

椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。


廊下は冷えていた。

教室の熱が嘘みたいに、現実が冷たい。


職員室の隅。

担任は、少し言いにくそうに視線を逸らしながら、机の上の封筒を指で押し出した。


「これを……預かっていてな」


差し出される封筒。


白く、少し黄ばんでいる。

角が、ほんの少しだけ折れている。


名前。


震える視界の中でも、それだけははっきり読めた。


――春乃。


指先が、動かない。

触れた瞬間、紙の冷たさが、やけに生々しい。


ゆっくりと、封を切る。


中から出てきたのは、一枚の便箋。


見覚えのある字。

何度も見た、丸くて少し不器用な文字。


『透へ』


その一行だけで、呼吸が止まる。


続きを、読む。


『ごめんね』


『もう、疲れちゃった』


『助けてほしかったけど、言えなかった』


『本当は、ずっと好きだった』


喉の奥が詰まる。


『でも、これ以上迷惑かけたくない』


『さようなら』


視界が滲む。


便箋の下。


小さく書かれた日付。


――入学して、すぐ。


その瞬間。


世界が、歪んだ。


「春乃は」


担任の声が、遠くから聞こえる。


「二年前に亡くなっている」


耳鳴りがする。


キーン、という高い音だけが、頭の中を埋め尽くす。


思い出す。


――春乃の部屋。


カーテンは閉まっていて、昼なのに暗かった。

机の上には開いたままのノート。

途中で止まった文字。


床に、横たわる体。


春乃。


動かない。


呼びかけても、返事はなくて。


肩を揺すっても、冷たくて。


「……ああ」


膝から力が抜ける。


全部、思い出した。


忘れていたんじゃない。


――忘れようとして、壊したんだ。


自分で。


記憶を。


現実を。


でも。


「違う」


口から零れる。


自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


「違う」


もう一度、言う。


「いるだろ」


否定する。


必死に。


縋るように。


隣を見る。


そこに――


春乃がいる。


あの日と同じ、少しだけ長い髪。

柔らかく笑う、あの顔。


「透くん」


いつも通りの声。


「どうしたの?」


首を傾げる仕草まで、完璧に同じだ。


「……ほら」


透は、震える手で便箋を握りしめる。


「こんなの……おかしいだろ」


春乃は、困ったように笑う。


「もう、またそうやって……」


その声は、優しくて。


温かくて。


確かに、そこに“いる”。


「大丈夫だよ」


春乃が、一歩近づく。


「私はここにいるでしょ?」


その言葉に、心がほどけていく。


現実が、崩れていく。


「……ああ」


透は、小さく笑う。


涙を流しながら。


「そうだよな」


手紙を、ぐしゃりと握り潰す。


こんなもの、嘘だ。


現実なわけがない。


だって――


春乃は、今、ここにいる。


「帰ろ?」


春乃が手を差し出す。


透は、その手を取る。


温かい。


ちゃんと、温かい。


「……ああ」


二人で歩き出す。


廊下を。


誰もいない、静かな校舎を。


すれ違う教師も、生徒も、誰も透を見ない。


いや――


透しか、いない。


それでもいい。


それでも。


隣に春乃がいるなら。


その笑顔が消えないなら。


現実なんて、いらない。


透は、もう振り返らなかった。


崩れた世界の中で。


ただ一つの“幻”だけを、真実にして。







最終章 楽園


「なあ、春乃」


夕焼けに染まる帰り道。

いつもと同じはずの通学路。

なのに、どこか世界が静かすぎる。


風の音も、人の気配も、まるで遠くに押しやられているみたいだった。


「なに?」


隣を歩く春乃は、いつも通り微笑む。

柔らかい声。変わらない距離。変わらない温もり。


「ずっと一緒だよな」


言葉にした瞬間、胸の奥がざわついた。

なぜそんなことを確認したのか、自分でも分からない。


ただ――失いたくないと、強く思った。


「うん」


即答だった。

迷いも、間もなく。


その笑顔に、透は安心する。


……はずだった。


その時だった。


「透くん」


背後から、声。


低くも高くもない、けれど確かに聞き覚えのある声。


ゆっくりと振り向く。


そこにいたのは――


“見知らぬ女性”だった。


制服ではない。

少しやつれた顔。

泣き腫らしたような目。


なのに、どこかで見たことがある気がする。


「……誰ですか」


思わず口から出た言葉。


その瞬間だった。


女性の顔が、崩れた。


「……え?」


信じられない、という表情。


次の瞬間には、唇が震え、涙が溢れ出す。


「やめてよ……」


か細い声。

必死に何かを繋ぎ止めようとするような声。


「なんで……わからないの……?」


頭が、追いつかない。


記憶が、拒絶している。


「私だよ」


一歩、近づいてくる。


「春乃だよ」


――その言葉で。


一瞬、世界がひっくり返った。


耳鳴り。

視界の歪み。

地面がぐらりと揺れる。


反射的に、隣を見る。


そこには――


“春乃”がいる。


いつもの笑顔で。

何も変わらない顔で。

当然のように、そこに立っている。


もう一度、前を見る。


泣き崩れる“春乃”。


地面に膝をつき、声を殺して泣いている。


「……は?」


喉が乾く。

呼吸が浅くなる。


「どっちだよ……」


声が震える。


理解が追いつかない。

いや――理解したくない。


隣の春乃が、くすりと笑う。


「何言ってるの?」


まるで当然のように。

何もおかしなことなんてない、と言わんばかりに。


目の前の春乃が、顔を上げる。


涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に訴える。


「お願い……戻ってきて……」


“戻る”?


どこに?


何から?


記憶の奥で、何かが軋む。


白い部屋。

薬の匂い。

誰かの泣き声。


――封筒。


『ごめんね』


『もう、疲れちゃった』


一瞬、フラッシュバックする。


頭が、割れるように痛い。


「……うるさい」


思わず呟く。


「うるさいうるさいうるさい!!」


耳を塞ぐ。


聞きたくない。

考えたくない。


どっちが本物かなんて。


もう、どうでもいい。


だって。


“隣にいる方”は、笑っている。


優しくて。

温かくて。

自分を置いていかない。


それだけでいい。


「行こう、透……」


隣の春乃が、手を差し出す。


その手は、確かに温かい。


――気がした。


一瞬だけ、迷いがよぎる。


前を見る。


泣き崩れる“春乃”。

必死に手を伸ばしている。


「待って……お願い……」


その声は、震えていて。

壊れそうで。


“本物”みたいだった。


――いや。


違う。


違う違う違う。


考えるな。


「……ああ」


透は、隣の手を取った。


その瞬間。


世界が、静かになった。


後ろから、声。


「待って!!」


振り返らない。


振り返ったら、壊れる。


全部が。


だから。


透は、選んだ。


“都合のいい現実”を。


――その日を境に。


透は、完全に壊れた。




数日後。


病室。


白い天井。

無機質な壁。

消毒液の匂い。


規則正しく鳴る、機械音。


ベッドの上に、透はいる。


視線は、空を見つめたまま。


焦点は合っていない。


「春乃」


ぽつりと呟く。


もちろん。


隣には、誰もいない。


椅子も、空白のまま。


カーテンも、静かに揺れるだけ。


それでも。


透には見えている。


確かに。


そこに。


「今日も一緒に帰ろう」


微笑む。


誰もいない空間に向かって。


手を伸ばす。


空気を掴むように。


それでも。


彼の中では。


確かに、その手は握られている。


温もりも。

声も。

笑顔も。


全部、“本物”だ。


現実の春乃は。


もう、いない。


あの日。


本当にいなくなったのは――


最初から、ひとりだけだった。


でも。


それを認めることは。


透には、もうできない。


だから。


彼の世界は、優しい。


痛みも。

喪失も。

後悔も。


すべて排除された、完璧な世界。


そこには、いつも春乃がいる。


笑っている。


隣にいる。


離れない。


――永遠に。


もう二度と。


現実に戻ることはない。


彼にとっての“世界”は。


あの日の夕焼けのまま。


時間が止まったまま。


ずっと。


彼女と二人きりで、閉じ続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ