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「もう、嫌んなっちゃう」
次の日。うきうき登校した茉理を待っていたのは、奈々の不平顔だった。
「雅人様って、バスケ部じゃないんだってー、もうショック」
昨日は次の対校試合のために、練習に出ていたということだ。
「うちの男バス、ろくな選手いないみたい。だから試合のたびに雅人様に助っ人頼んでるんだって」
あーあ、と肩を落としながら、奈々は席に戻っていった。
でもそんな彼女を気の毒と思いながらも、茉理の心は宙に浮いていた。
(今日は、間違いなくお兄ちゃんに会える)
担任がやってきてホームルームが始まっても、彼女はそのことばかり考えていた。
退屈な英語の一時間目が終わった。
10分間の休みは短い。
あっという間に2時間目が始まろうとしていた。
「ちょっと、今日の日直、誰?」
学級委員の声がする。
「次、数学の山田じゃん。消しとかないと、うるさいぞ」
「あ、いっけない」
横でしゃべっていた奈々が立ち上がった。
「あたし、今日日直だった」
手伝うよ、と茉理も立ち上がり、二人は黒板消しを手に持った。
「次、数学かあ」
あたし、苦手、とつぶやく奈々に、茉理もそうだねーと声を合わせる。
二人は背伸びしたり、体を横にして手早く消していった。
「茉理、貸して」
奈々は黒板消しを二つ持つと、3階の窓から身を乗り出して叩く。
「おいっ、どけよっ」
「なんだと、このやろう」
教室の隅で、男子生徒によるくだらない小競り合いが始まった。
(うるさいなあ)
茉理は窓辺によりかかり、ぼーっとクラスの喧騒を眺める。
すると――。
ピュッ。
彼女の横に、何かが飛んできた。
(え?)
それは筆箱で、どうやら小競り合いの最中、誰かが投げてしまったらしい。
筆箱は、横の窓で一生懸命黒板消し叩きをしていた奈々の後頭部に見事に当たった。
「あったーっ、誰よ、もう」
奈々がぷりぷり怒りながら、教室に向き直る。
「ひとつ、落っことしちゃったじゃない」
そう言う彼女の手には、黒板消しが一つだけ。
「もう、誰か取りに行ってよね」
彼女は、落ちた黒板消しを確認しようと窓の下を見る。
すると次の瞬間。
顔を覆って、彼女は窓の下にしゃがみこんでしまった。
体がぶるぶる震えている。
「……どうしよう……どうしたらいいの」
声色も変わった。
恐怖に体を縮めている奈々を、教室のみんなは驚いて見つめる。
「何、どうしたの?」
茉理は身を乗り出して、窓の下をみた。
(あ……)
窓の下は、コンクリートの通路になっている。
その通路にいた集団に、たまたま黒板消しが落下したのだ。
4人の男子生徒のうち、真ん中にいる生徒の頭がうっすら白くなっている。
(あ、あの人に当たっちゃったのね)
横の窓から他の生徒たちも、息をのんでみつめていた。
「おいっ、生徒会だ」
「やばっ、よりによって会長じゃねえか」
「可哀想、川本さん」
この世の終わりみたいに、奈々は震えていた。
うっすら白頭が、黒板消し片手に真っ直ぐ上を見上げた。
茉理と目があう。
黒い瞳は激しく怒っていて、茉理はその気迫にぞっとした。
いや、それよりも。
彼を見て、茉理の心臓は跳ね上がる。
(あの人だ!)
茉理に木の上から話しかけてきた男の子。
天使のような微笑で、優しく見つめてくれた人。
(やっぱり生徒会の人だったのね)
茉理はしばらく見とれていたが、あ、そうだと気がついた。
(ちょうどいいわ。あの本、返さないと)
彼女はすばやく机に行くと、かばんから名簿を取り出す。
そして急いで下に駆けていった。
息を切らせながら降りてきた茉理を、彼はじとっとねめつけた。
その視線と表情が茉理を震え上がらせる。
まわりの3人は、黙って二人を見守っていた。
(なんか……前に会ったときと違うような)
一抹の不安がよぎったが、彼女は勇気を奮い起こす。
「あの、その」
「お前か」
彼は、低い怒りを含んだ声で聞いた。
「これを今、落としたのは貴様だな」
「え? あ、ちょっと違うんですけど」
茉理はあわてて答えた。
「ふざけるな」
彼がものすごい声で怒鳴ると、ビュッと風が巻き起こった。
「え!?」
彼の手のひらが前に突き出された瞬間、茉理の体がふわっと宙に浮いた。
と思うと勢いよく、横の校舎に叩きつけられる。
「きゃあーっ」
いたたた、と茉理はぶつけられた背中を押さえた。
あまりにも突然で、自分に何が起こったのかわからない。
体の痛みをこらえて誤解を解こうと立ち上がると、悪魔のような笑みを浮かべて彼は目の前に立っていた。
「違う? 俺の頭上にいたのは貴様だろ。言い逃れは許さん」
がっと右足を上げると、彼は思いっきり茉理のお腹を蹴った。
彼女はあまりの痛みに耐え切れず、お腹をかかえて校舎の壁にうずくまる。
(嘘……)
ショックと痛みで涙が出た。
(こんな人だったの?)
もっと優しくて、いい人だと思っていたのに。
別人のような彼がそこにいた。
平気で女の子を蹴り飛ばし、壁にたたきつける悪鬼のような少年が――。
「のこのこ下りてくるとはな。その度胸だけはほめてやる。この俺に汚れをつけた落とし前、きっちりつけてもらうからな」
彼はそう言うと、黒板消しを茉理に投げつけた。
硬い部分が額に当たり、そこから血がひとすじ流れる。
「帝、そこまでにしときなよ」
穏やかな声が割って入った。
涼やかな瞳で、雅人がぼろぼろになった少女を見下ろす。
「君の怒りはわかるけど、あんまり美しくないね、これ」
「なんだと?」
「その子、今年外部から来たんだって。まだよくわかってないんだよ。こんないたいけなレディを、いたぶっちゃいけないな」
「うるさい。俺に命令するな」
彼はぎろりと雅人をにらんだ。
「知らないっていうんなら、今からとことん教えてやる。俺は2年A組 伊集院帝。生徒会長だ」
茉理はうつろな瞳で彼を見た。
涙で視界がぼやけたが、何度見てもそこにはあの優しかった人はいない。
正反対の悪夢のような光景だけが、写っている。
「貴様は、このクリスティ本家跡取りの俺に汚れをつけた。絶対に許さん。覚悟しておけ」
このままで済むと思うな、はき捨てるようにそう言うと、彼は唾を茉理に吐きかけた。
帝が踵を返したことで、他の2人もやれやれと肩をすくめ、彼の後についていく。
雅人が一人、残っていたが、茉理をじっと見下ろして言った。
「かわいそうだけど、君はとんでもないことをしたんだよ。まだよくわからないだろうけど」
横を向き、口元に薔薇を当てながら彼はつぶやいた。
「悪いことは言わない。明日からこの学園には来ないほうがいい。転校するんだ、いいね」
「……」
「あれで帝は済まないよ。彼は一族の中で一番魔力が強い。君はそう――生きて、ここから出ることは出来なくなるだろう」
雅人は手を伸ばし、通路に落ちた茉理の冊子を取り上げた。
「これは君の――」
言いかけて、彼は驚いたように言葉を止める。
何度も冊子と茉理の顔を見、低い声で聞いた。
「これは、君が持っていたんだね。どこから手に入れたの?」
茉理は震えて声も出なかった。
(どこから? どこからって……)
別に盗んだわけじゃない。
あの人が貸してくれたのだ。
あの人――って、誰?
茉理は混乱して、何も答えることが出来なかった。
雅人の表情が、険しいものになる。
彼は茉理を冷たい目でにらみ、おどすように言った。
「早く白状したまえ。何故、君がこれを持っていたのか」
燃え上がるような瞳に、茉理は体中が震え上がった。
彼の背後に、赤く燃え滾るオーラが見える。
彼女はなんとか口を開いた。
「あの、貸してくれたんです」
「誰が?」
「さっきの……生徒会長さんが」
あまりにも意外な答えに、雅人はあっけに取られた。
「帝が?」
「その、もしかして、違う人かもしれないんですけど」
恐る恐る茉理は説明する。
「顔とかはそっくりなんだけど、ぜんぜん雰囲気とか違ってて……会長さんって双子だったりしません? とっても優しくて、天使みたいな人なんですけど」
「天使、ね」
雅人は名簿を小脇にかかえた。
「その天使に、これは僕から返しておくよ。いいね」
「はい」
「君、名前は?」
彼の問いに、茉理はしぶしぶ答えた。
「後野……茉理です」
まじまじと雅人は茉理をみつめ、いきなり笑い出す。
「あー、あとのまつり、ちゃんねえ。すっごくいいよ、その名前」
「……」
「今の君にまさしくピッタリだねえ、ははっ」
笑いながら彼は、じゃあ、と去っていった。
茉理は、よろよろと壁に手をつきながら進む。
(教室に行く前に、保健室に寄らないと……あいたたた)
体中が動くたびに痛んだが、いつまでもここにいられない。
一歩一歩、彼女は保健室に向かって歩いていった。




