48
月曜日。茉理はすっかり元気になって登校した。
「おはよ、茉理」
「あ……おはよう、奈々」
数日でそんなに変わるわけはなく、いつもの日常が始まって時が過ぎていく。
あっという間に放課後になった。
(今日は生徒会の人、誰にも会わないな)
そんなことをぼんやり考えながら、帰り支度をする。
鞄を持って正門に続く道をてくてく行くと、前方に人影がたたずんでいた。
(う……嘘っ、会長だ)
茉理は思わず横の並木に隠れたくなった。
一応、もし会ってしまったら――のリアクションを考えてはいたが、いざ本人を目の前にすると、体が強張り動けない。
(うーっ、こっちに気付くな――って、無理か)
彼はちょうど振り向いて、背後にいた茉理を見つけてしまう。
黒い瞳がじっと彼女に注がれた。
(見てる……みてるよ、こっち。どうしよう)
以前だったら睨まれてるようにしか感じなかったが、今は違う。
どことなく気遣うような色も見え、茉理はどうしてよいかわからず、立ち尽くした。
(ええい、どうしたっていうの、わたし。なんでこんなに意識しちゃうのよ)
わずかだが触れ合った時を思い出し、胸がどきどきと脈打つ。
(早く別な方を向いちゃってよ。そんな珍しい珍獣みたいに凝視しないで……)
心の中で、彼の視線がそれることをひたすら願った。
でも何故か帝は、じいっと茉理を見つめ続けている。
(気まずいよ。どうしちゃったんだろう、わたし)
彼の目線一つで、こんな金縛りにあうなんて。
茉理は自分の心をもてあまし、身動きできずに固まってしまった。
そこまで気にする必要はない、と頭ではわかっている。
でも心は――感情というものは、どうにもままならないものだ。
朝から彼女の事が脳裏にチラつき、それを否定しては完全に意識外に出来ずにいる自分の想いをもてあます。
非常に面倒この上ない思考で放課後まで過ごした帝は、結局気になる存在に気づいてしまった。
唇を噛みしめて動かない少女を、彼もどうしてよいかわからずに、ただ見つめる。
(今、お前は何を考えてるんだ?)
異次元で過ごした時間が、帝の脳裏によみがえった。
今まで知っていたどの少女とも違う、予想外の行動や考えをみせた彼女。
正直戸惑いながらも新鮮さを感じてしまった。
今朝も真っ先に考えたのは、茉理のことである。
(あいつ……今日ちゃんと登校してくるのか?)
送っていった雅人の話では、百パーセント大丈夫とのことだが。
異世界に普通の人間が流されてしまった場合、精神的にも肉体的にもショックが大きいはずだ。
当然過去にもそういう事例はあって、発狂したり体調を著しく損ねたり、まともに通常の生活に戻れたケースは本当にまれだった。
だから心配したのだが――逆にそういう心配をする自分自身に戸惑い、驚いていた。
(この俺があんな女を気にかけるとは……)
異世界で過ごした状況を思うと、彼女は普通の少女ではないようだ。
この学園に編入を許されたことを考えても、たぶん自分の予想は間違ってはいないと帝は思う。
(聖魔巫女……か)
魔法使いの間では、現実に存在した一族の巫女として伝えられている存在。
でも実際、そういう伝承などというものは、ほとんど曖昧なものであると帝はあまり気にかけていなかった。
(仮にあいつがそうだとしても、この俺と個人的に何の関係があるというのだ)
彼女は自分とは関係ない少女だと、彼は必死に思おうとする。
(あいつは魔力ゼロ。何の役にも立たない女だ。そんな存在が、俺の運命の相手などであるはずがない)
美少女でも、家が名門でもなく、自分とはまるでつりあわない。
なのに関心を寄せてしまうとは、なんという不覚だろう。
帝は自分自身を叱咤しながら、消せない感情に戸惑い、どう行動してよいかわからなくなった。
――そう、彼女に対して。
(馬鹿な……俺は今、一体何をしているんだ)
そう思いながらも、何て声をかけるべきかわからない。
いや、無視してしまった方がいいのか。
迷う自分をもてあまし、どうしてよいかわからずに、帝は黙ったまま、じっと茉理を見つめていた。
校舎の四階、三年B組の教室の窓。
(あーあ、帝ったらすっかりあがってるよ。もう少し女の子の接し方、教えてあげた方がいいかな)
雅人は窓から身を乗り出し、二人の様子をうかがっていた。
校舎から帝たちのいる道までの距離は、かなりある。
どう考えても肉眼で見ることは不可能だが、雅人は不可能を可能にする魔法使いだったりするのだ。
左手の親指と人差し指で小さな円を作り、片メガネのように左目に当てる。
するとそこだけ双眼鏡のように遠くまで視野が広がり、はるか駅前までが見渡せた。
(ふっふーん、どうするのかな、帝。 ここで彼女に優しく声をかけてあげないと――このまま何もしないで行かせるなんて男がすたるぞ、がんばれ、青少年)
自分だって一つしか違わないのに、気分はすっかりどこかの野次馬おやじのノリだ。。
温かく――いや、半分面白そうに二人を見ていた雅人は、目線を茉理の背後に向けて眉をしかめる。
(あれ? あの子は――)
じっと背後に忍んでいる存在を見つけ、彼の瞳は少しだけ真剣になった。
(ふうん、そういうことか)
口元に笑みを浮かべ、雅人はいつでも動けるように心の準備をし、成り行きを見守ることにした。
二人の気まずい沈黙を破ったのは、大きな声だった。
「帝様―っ」
はっと茉理が横を向くと、すごい勢いで走る少女とすれ違う。
円城寺美奈子だ。
彼女は茉理など眼中に置かず、帝の側に走りよった。
「今からお帰りですか。お車のところまで、ご一緒させてくださいな」
彼女の言葉に帝はそれまでの金縛りのような状態を解き、ふっと笑むと優しく腕を差し出す。
さりげない仕草が茉理の目に映り、何故か胸を突き刺すような痛みが走った。
(そうだ……会長、円城寺先輩と、去年本当にラブラブだったんだっけ)
以前見せられたラブレターや写真のことが、頭に思い浮かぶ。
美奈子は一瞬ちらりと茉理を見て勝ち誇ったような表情をしたが、すぐに帝の腕に自分の腕を絡め、寄り添うようにして歩いていった。
茉理は一歩も動けず、また俯いてしまう。
(何やってんだろ、わたし……)
自分は一体今まで何を考えてたのか。
帝にとって自分が特別な存在だとでも思っていたのか。
異次元に一緒にとばされ、いろいろと助けられて、いつの間にか帝を必要以上に意識するようになったのかもしれない。
だからこんなに胸が痛むのだろう。
茉理は自分で自分を笑った。
(ばっかみたい、わたし。何変な期待してんのよ)
そもそも自分は帝みたいなタイプは好みじゃなかったはず。
それはお互い様で、彼もまた茉理を嫌っているのだ。
彼女候補にエントリーしたのだって、雅人による強引な推薦があったから。
ただそれだけのことにすぎない。
(もう、何浮かれてたんだが……しっかりしてよ。後野茉理)
彼女は顔をあげ、きっと前方を睨んだ。
例の帝の彼女を選ぶイベントは、あと数日で開始されるという。
関心がないのでほっておいたため、茉理はまだその詳細すら知らずにいる。
(そうよ、大体そんなの知ったところで何になるっていうの。わたしが勝つわけないじゃない。魔力ゼロのわたしなんて、はなから眼中にないはず。円城寺先輩か早川さんのどちらかが選ばれるに決まっているわ)
ずっとそう思ってきた。
でもなんだろうか、この湧き上がる気持ちは。
茉理は去っていく二人を見つめながら強く思う。
(あんまり気乗りはしないけど――でもこのまま何もしないで負けるっての、すごくしゃくだわ)
ずっと見えない力のような物に動かされ、翻弄されている気がする。
どんなに抵抗しようとしても、運命は茉理を予想外の方向へと押し流していってしまうのだ。
イベント強制参加も、異次元強制転送も、初恋の人の記憶が無くなってしまった事も――全部運命だったというのか。
このままじゃ自分の知らない力に流されて、弄ばれて終わるだけ。
(そんなの絶対嫌!)
茉理は唇を噛み締め、二人の背中をじっと見送っていた。
『はーい、茉理姫』
突然頭の中に響いた声に、茉理はうっと詰まる。
(……雅人先輩だわ)
何も返事を返せないでいる少女の前で、空間がすっと揺らいだ。
薔薇の花を撒き散らしながら、とてもキザにポーズを決めて金髪の先輩が現れる。
現れた彼に、茉理は思いっきり嫌な顔をした。
もうこんな状況――人が突然目の前に出現するという非日常的出来事に慣れっこになってる自分が怖い。
(まったく違和感を感じないのよね。人間、慣れって怖いもんだわ)
独り言を心の中でつぶやき、茉理はぎっと雅人を睨んだ。
「何かご用ですか」
「つれないなあ、せっかく姫が一人で寂しがってるから、慰めてあげようと思ったのに」
「けっこうです」
彼女は叫ぶと、さっさと早足で歩き出す。
この先輩に関わるとろくなことがないと、経験上よくわかっていた。
さっさと退散するのが一番安全だ。
しかし雅人は微笑むと、すれ違う茉理の腕をぱっと摑む。
「離してください」
「そういわないで。ね、茉理姫。これから何もないなら、少しこの僕に時間をくれないか」
「お断りします」
「ふふっ、むきにならなくてもいいのに。君の本心はわかっているよ。照れてるんだね、突然のお誘いに」
「違いますって」
茉理は顔を真っ赤にして怒鳴る。
(この人はもう……どうしてこう強引なのよ)
「でもそうやって僕を拒む君も、最高に素敵だよ。そんな顔されちゃ、もうさらっていくしかないね」
「は? って、ちょっと、雅人先輩っ」
雅人は突然茉理の腕を引っ張り、自分の胸に抱き寄せる。
「しっかりつかまってるんだよ」
「や、やめてくださいって、あーっ」
もがく茉理を抱きしめると、雅人はすっと空中に浮いた。
「きゃーっ、ちょっと、下ろして」
「嫌だよ、さっき君を攫うって言ったろ?」
「わたし、家に帰りたいんです。ちょっと雅人先輩」
じたばたしている間に、校舎をはるかに見下ろすぐらい、二人は上まで飛翔してしまった。
澄んだ冷たい風が体に吹き付ける。
茉理は恐る恐る下を見下ろした。
正門の前に、帝と美奈子の姿が見える。
(あんなに密接しちゃって……一緒に帰るのかなあ)
二人は恋人同士のように肩を寄せ合っていた。
自分とはあまりにも接し方が違っていて、なんとなくもやもやした気持ちになる。
(円城寺先輩はわたしなんかよりずっと綺麗で頭も良いし、魔法だって使えるんだろうし……まあ、当然だけどさ)
半分開き直り、半分は少しやっかんだ気持ちで、茉理は二人を目で追いかけた。
帝の黒塗り高級車が、門の前で主人を待っている。
帝がそれに乗り込むとき、美奈子はすばやく彼に抱きつき、頬に唇を当てた。
茉理の瞳は、それらの光景を詳細に写して心に送る。
その瞬間。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるほどの痛みを感じた。
(何、この感じ……)
茉理は這い上がってくる感情に身を熱くする。
こんな気持ちは知らない。
自分が今まで味わったどんな感情よりも苦しくて、死にそうなほど全身が痛む。
「戻りたければ戻るといいよ。でも僕の手を今、離したら、君はまっさかさま――下に落ちてしまうんじゃないかな」
雅人は茶化すようにそう言うと、ぎゅっと茉理を自分の方に引き寄せた。
「だから君はもう僕から逃げられないってことさ。観念して僕と空の散歩を楽しもうよ、茉理姫」
面白そうな雅人の声が、茉理の怒りを増幅させる。
いつもそうだ。
こうやって対抗できない力に絡め取られ、何も出来ない自分。
運命に翻弄されるがまま、なすすべもなく流されていく。
そして今も横で笑っているのは、全然その気もない先輩。
からかって、気の有る素振りで弄び、人の反応をいちいち心の奥で楽しんでいるに違いない最低な人。
そんなのの側に、どうして自分がいないといけないのか。
(嫌……そんなの、嫌っ)
茉理の瞳が揺らぐ。
瞳から涙がぽろぽろと落ちた。
(またこうやって泣いてるしかないの? わたし……)
悔しくて、悔しくて。
少女は唇を噛んだ。
嫌だ。
このまま流されて、言いなりになるがままに拘束され、束縛されるのは我慢出来ない。
たとえどうなっても――。
茉理はぐっと雅人の胸を突き飛ばす。
「うわっ、おいっ」
体制を崩した雅人の腕をすり抜け、茉理は下へと身をおどらせた。
遠目から見たら、一瞬の出来事。
少女の体はふわっと宙に浮き、次の瞬間、加速をつけて降下した。
「馬鹿っ、なんてことを!」
雅人はあわてて体制を整え、茉理の後を追って降りる。
でも彼女の速さにはついていけない。
それはそうだろう。自分の我慢できる限界スピードでしか降りれない雅人に対し、茉理はすでに意識を失い、自分のことなど何も考えられはしなかったのだから。
重力のなすがまま、少女は束縛から逃れて、自分の意思で大地に身を落とす。
(駄目だ、間に合わない!)
雅人がそう心で叫んだとき――。
ものすごい突風が吹きぬけた。
一瞬の早さで、それは茉理を目がけて飛翔し、彼女をとらえる。
雅人が風に気をそらした隙に、茉理はしっかりと受け止められ、地面への激突を免れた。
目の前に現れた突風の主を見て、雅人が目を見開く。
「帝……」
地上から彼が飛翔して、落ちようとする茉理を間一髪で抱きとめたのだ。
空中で沈黙が生まれる。
帝は意識を失った茉理を抱え、雅人を睨んだ。
彼の本気の怒りに、雅人の額から冷や汗が流れる。
普段接しているどんな帝とも違う。
これはまさか――。
「み……帝?」
やっと声を絞りだす雅人に、低い声が投げつけられた。
「何をした」
「え?」
「彼女に何をした!」
激しい怒りが帝を包み、雅人を震え上がらせる。
いつも余裕の笑みを浮かべていた雅人すら恐れを感じさせるほど、目の前の帝は力に満ちていた。
彼のまわりに光のオーラが立ち上り、雅人を威嚇する。
「忠告したはずだ。彼女にはいつもの態度は慎むようにと――」
「……」
「君は口で言ってもわからないようだね」
帝はすっと腕を伸ばした。
「ちょっと待て。帝、僕の話を」
あわてて弁解しようとする雅人の言葉を無視し、帝の腕から雷撃が発射される。
電撃はまるで鋼の刃のように、鋭く正確に雅人を直撃した。
「うわわわーっ」
雅人は咄嗟に両手でバリアを張ってガードする。
直撃は免れたが、すさまじい魔力攻撃の威力をすべて防ぎきることは出来なかった。
衝撃で体制を崩し、雅人は下に落下する。
帝は冷やかな瞳で自分が射落とした先輩を見下ろすと、ゆっくり地上に降下した。
――大切そうに少女をしっかりと抱きかかえて……。
門の横にある桜木の下に、茉理を下ろす。
「う……んっ……」
茉理は、木の幹に持たせかけられたときに気がついた。
(あれ? わたし……)
目を開けると、短い黒髪が見える。
せつなげな黒いまなざしも――。
(え? か……いちょう?)
驚く茉理の体を、帝が強く抱きしめた。
「なんて無茶をするんだ。君に何かあったら『僕』は――」
「……」
「お願いだ、もっと自分を大切にしてくれ。何かあったら、『僕』のことを呼んでいいから」
茉理は一瞬混乱したが、彼の口調にはっとする。
(そうだ! わたし、雅人先輩と一緒に空中にいて……)
湧き上がる感情に突き動かされ、とんでもないことをしてしまった。
(助かったんだ、わたし)
自分をしっかりと抱きしめている帝の学生服の匂いに、茉理は何が起こったのか理解する。
(助けてくれたんだ……会長)
美奈子と一緒にいたはずなのに、彼女を置いて自分のために駆け寄ってきてくれた。
それがこんなにも嬉しいなんて――。
(しかも『僕』って……これはB君のほうね)
自分を大切に思ってくれる、帝のもう一つの人格。
いつも助けてくれる暖かい心の人。
安心したら、何故かまぶたが滲んできた。
(わたし、こんなに泣き虫じゃなかったのにな)
熱く潤む目元に恥ずかしくなって、茉理は帝の胸に顔をうずめた。
抱きあうこと数分。
「なっ……なんだ、お前は」
「え?」
突然、帝は茉理を離し、顔を真っ赤にさせて突き飛ばす。
こないだも同じようなパターンだったので、茉理はもう驚かなかった。
「なんでお前と俺が――」
「あ、あの、会長、これにはわけが……」
茉理はゆっくりと起き上がる。
帝も立ち上がると、じろっと彼女を睨みつけた。
(もう、なんでそんな顔するかなあ。わたしのこと、嫌なのはわかってるけどさ)
これが美奈子だったら、彼はこんな不機嫌な顔をしなかっただろう。
ちらりとそんな考えが頭に浮かび、心を萎ませる。
茉理は溜め息をつくと、顔を上げて帝に言った。
「言っときますけど、別にわたしからしたわけじゃないですからねっ」
「……」
「もう一人の会長が、わたしのこと、助けてくれただけです。それだけですから」
帝は渋い顔で、またお前が何かしたんだな、とつぶやく。
(もう、そんなに睨まなくてもいいじゃない)
茉理はむすっとする。
迷惑なのはよくわかっているのだが、どうも面白くなかった。
しばらくみつめあっていたが――。
帝はふいっと踵を返し、茉理に背を向ける。
足早に車に向かって、彼は歩いていった。
でもその足が止まる。
「帝様……」
円城寺美奈子が身を震わせて、帝の前にいた。
帝は、真っ青な顔の彼女から目をそらす。
美奈子の瞳から、一筋涙がこぼれた。
「嫌ですっ。帝様はわたしのものです。他の女の子を見るなんて嫌っ」
「美奈子」
「わたし、絶対にあきらめません。あなたと別れるなんて出来ない」
美奈子は悲痛な顔で帝に抱きつく。
帝は黙って彼女を受け止めた。
腕をまわし、細い華奢な体を抱きしめる。
(会長……)
茉理は呆然と二人を見詰めた。
美男美少女が抱き合う姿は、ドラマにでも出てくるせつないワンシーンのようで、とても似合っている。
でも――。
茉理はじっと帝を見つめ、はっとした。
彼はまったくの無表情だったのだ。
自分を激しく恋慕って美奈子が泣いているというのに、自分も彼女を優しく胸の中に抱きしめているというのに。
彼の瞳には、何の色も表れていなかった。
優しい光も、愛しく想う心も、何も映っていない。
冷静沈着、別に心動かしているようにはみえなかった。
そう、まるで義務を確実に遂行しているかのようだ。
彼女を抱きしめることは、いつも変わらぬ授業を受けるのと同じくらい平凡な出来事。
(目は心の窓だっていうけど、本当かもしれない)
茉理は無表情の帝を見て、そんなことを考える。
そしてとても胸が痛くなった。
彼は、本当は美奈子に何の感情も持っていないのだ。
そのことがよくわかる。
優しい仕草、彼女に向ける愛しそうな微笑み。
それらはすべて義務であり、自分が果たすべき役目だから。
次のイベントで新しい彼女が決まるまでは、美奈子を受け止める。
それが自分のやるべきことだと、彼は思っているのだ。
その瞳は決して想いに燃え立っていなかったとしても――。
(なんか……悲しいね、そういうの)
茉理は彼らを見つめながら、二人のことが痛ましくなった。
架空の恋愛。
恋人ごっこ。
二人がそうやって楽しんでいるのならまだしも、片方はまったく心が動いていない状態なのだ。
校門に見える高級車から、運転手が降りてきて礼をする。
うやうやしく後部座席のドアを開けた。
帝は美奈子をエスコートしながら車に乗り込む。
車内に入る前に、彼女は一瞬、ちらりと振り向いた。
茉理と目が合う。
憎悪と挑戦的な瞳で一瞬睨まれ、彼女は体がぞくぞくした。
(うっ……円城寺先輩に敵視されてる)
おそらくさっき帝が自分を助けたからだ。
「美奈子、どうした?」
帝の声に美奈子は茉理から目を離し、嬉しそうに微笑む。
「なんでもありませんわ、帝様」
そして茉理にはそれ以上一瞥もくれず、座席に腰掛けた。
帝が美奈子の横に座ると、運転手は扉を閉める。
そして車は走り去っていった。
(会長……帝先輩……)
茉理は黒い車が校門を出て行くのを、じっと見つめる。
なんだかあの車が不吉な霊柩車のように一瞬見えて、体中がぞっとした。
生きるために走るのではなく、彼が人生の終点に向かっていくような、そんな気がしてたまらない。
(行っちゃったな)
茉理は制服の乱れを直し、鞄をしっかりと持った。
一歩一歩駅に向かっていく彼女の足取りは、何故か重かった。
最初に美奈子に感じた焼け付くような感情。
それはもうすっかり彼女の中から消えていた。
二人が仲良く同じ車に乗って去っていったというのに、全然うらやましくもなんともない。
むしろもしそれが自分だったら、とても耐えられないと思った。
(なんなの、あれ)
どうしてだが心が重い。
あんな振りをして、帝は辛くないのだろうか。
そんな帝の感情に、円城寺美奈子は気付いているのだろうか。
もし気付いていないのだとしたら、とても虚しい事だと茉理は思った。
同時になんだか同情の気持ちがわいてくる。
(違うよ。こんなの、違う……)
はっきり違うと言い切ることが、本当に良いことなのかどうかわからない。
けれどこのままで良いとは、茉理には思えなかった。
(会長って、とっても悲しい人なんだね)
駅のホームで電車を待ちながら、茉理はさっきの出来事をあれこれと思いめぐらせ、一人瞳を揺らしていた。




