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そこは仰げば一面の闇だった。
漆黒の闇に彩られたユーフォリアには、空に柔らかな星の輝きがある。
でもこの世界には――。
エレアは天を眺めながら、静かに思いをはせる。
「何をしているの? 愛しい姫」
そっとかたわらにフランソワが寄り添い、エレアの長い長い黒髪に触れた。
「天を見ていましたの。この空に貴方のために何か美しいものを置きたいと思って」
やさしく髪にからまる指に、エレアは自分の指をからめ、幸せそうに微笑む。
「この空は完璧だよ。これ以上ないほどにね」
耳をくすぐる甘い声。
「君がわたしの為に作ってくれた世界に、余計な飾りは必要ないよ。愛しい君がここにいてくれるだけで、もう十分だ」
「本当にそう思ってくださいますか」
エレアの震える唇に、フランソワは羽のように柔らかく接吻した。
「もちろん」
極上の美しい微笑み。
エレアは満ち足りた思いで恋人にすがりつく。
恋の美酒に酔う彼女には、自分を抱きしめる男の瞳にまだ何か餓えた欲望が秘められていることなど、少しも見えてはいなかった。
アルツールは何度か魔方陣をつくり、エレアの閉ざした空間に切れ目を入れようと試みていた。
でもさっきから、ことごとく失敗に終わっている。
「――直接進入するのは難しいか」
「やはり巫女姫のお力をお借りした方が」
横にいた魔術師の言葉に、アルツールはため息をついた。
「それしかないのか。我が姫を前線に出すのは気が進まないが」
彼女を傷つけたくはない。
ただでさえ最愛の妹のことで心を痛めているというのに。
「随分と過保護だな」
考え込んでいた彼に、帝の容赦ない一言が飛んだ。
「何?」
壁によりかかり、儀式の様子を見ていた帝は、じっとアルツールを睨む。
「それとも自分の力に絶対の自信を持っているのか。自らの力だけで行えば相当な手柄になるとでも?」
「なんだと」
ドンッ。
アルツールは儀式場の壁を思いっきりなぐる。
「貴様、俺を侮辱する気か」
「さっきから見ていたら、まだるっこしくてな。どうして巫女姫の力を使わない。向こうも巫女の力で空間を作り上げているのだ。魔力がどんな高くても、巫女の力には通用しないとわかっているはずじゃないか」
アルツールは唇を噛み締め、あらぬ方を向く。
そう、どんなに魔力を高めても、すべての魔法を無効化してしまうエレアの力。
魔族の自分ではかなわないとわかっていても、それでも今は何かせずにはいられなかった。
彼に新たな力を授けたトノアは、その反動でまだ深い眠りについている。
彼女を思うと、不可能とわかっていてもじっとしてはいられない。
苛立つアルツールの肩に帝は手をかける。
「冷静になれ。今のお前では、たとえエレアの世界に侵入出来たとしても奴を倒すことなど出来ない」
「……」
「戦いでは熱くなって状況を見誤った方が負ける。それでは本当に守りたいものも守れなくなるぞ」
落ち着くようにと制する帝の声には、アルツールを心配している響きがこもっていた。
「……言われなくてもわかっている。小僧に説教される必要はない」
バシッとアルツールは帝の手を払いのける。
横の魔術師に休憩を言い渡すと、彼は荒々しく足音を立てて儀式場を出て行った。
広場の噴水は止まっていた。
(トノアさん、まだ休んでるんだね)
茉理は所在投げにその辺に咲いている黒薔薇を弄ぶ。
(早く気がついてくれるといいんだけど)
一人であちこちうろうろしたが、結局自分のやるべきことはみつからなかった。
こうなったらトノアに聞いてみるしかない。
そう思った茉理だが、はにわはトノアの所でなく彼女を噴水の広場まで連れてきた。
いつもキラキラ輝く水が噴出しているはずのそこが、何故か水が止まっているのを見て、茉理はふっと気がつく。
(もしかして、この噴水が止まったのって……)
トノアがまだ眠っているからなのだろうか。
はにわにそう問いかけると、うにーっと笑ってうなずかれた。
(そっか。じゃ、聞けないね)
部屋に戻ってもしょうがないし。
はにわに下がるように言い、茉理は噴水がまた流れ出すまでここで待つことに決めた。
ひんやりした石のベンチに腰を下ろし、折り取った黒薔薇をくるくるまわしていると――。
(あ……アルツールさんだ)
大またで、勢いよく彼は噴水に近づいてきた。
相当苛立っているのが、その歩みでよくわかる。
彼は茉理に気付かないくらいの早足で、噴水の前に来る。
まだ涸れたままなのを見て、彼の瞳は揺れた。
「……トノア」
だまって俯き、何か考えている彼を、茉理はびっくりして見つめる。
(なんかいつもと違う)
打ちひしがれ、背中に哀愁がただよっているアルツールは、自信にあふれて堂々としているいつもの彼とはまるで違っていたのだ。
アルツールは、フランソワとは違う色の瞳を、違う想いで濡らしている。
(あ……そっか)
茉理は彼の姿を見て、あることに思い当たった。
そっとベンチから立ち上がると、アルツールの側に行く。
彼は気配に気付いて顔をあげたが、茉理だとわかると自嘲気味に微笑んだ。
「マツリ姫、こんなところでどうしたのですか」
「あの、トノアさんはまだ……」
「そのようですね」
アルツールは寂しげにつぶやくと、噴水に目を戻す。
「この噴水は、この空間がトノアに受け継がれたときに生まれました。彼女の魂を写す鏡のようなもの――だからトノアが眠りにつくと、水は止まってしまうのです」
「でももう少ししたら、また流れ出すんですよね」
茉理の問いに、アルツールはため息をついた。
「トノアの巫女としての力は、もうあまり残っていないのですよ」
「え?」
茉理は思いもしなかったことを言われて目を瞬かせる。
「聖魔巫女は、いつまでも巫力があるわけではありません。次の聖魔巫女にふさわしい者が目覚めたとき、その力は終わりを告げます。徐々に空間を維持する力も弱まり、新たな巫女がその役目を引継ぎし後には、自ら消えていくのです」
「そうなんですか」
「聖魔一族の中から、次の巫女になるべき定めの少女が目覚めつつあるようです。トノアは今、最後に残された力を持って、この事態に当たっています」
できれば彼女にあまり力を使わせたくはないのですが、と悲しげにアルツールはつぶやいた。
「力が弱まれば体力も衰えます。徐々に体を維持ずる生命力が消えて、この世を去ることになる。いわば力の衰えは、寿命と同じようなもの」
「そんな……」
「寿命を延ばす方法はあるのですが、彼女は何故かそれを頑なに拒むのです。まだ時ではないといって」
「寿命を延ばす方法ってなんですか」
茉理の質問に、アルツールはためらいつつも口にした。
「魔族の男と婚姻することです」
「コンインって……つまり結婚するってことですか」
茉理は予想もしていなかった答えに目を丸くする。
「もちろん巫女としての力は消滅します。でも自らが消える前に結婚すれば、巫女は相手の男の魔力を受けて寿命を保つことが出来るんです。ただの女性になってしまいますが、それでもすぐに身罷ることはありません」
はあっと大きなため息をつくアルツールに、茉理はかける言葉がみつからなかった。
(えーと、つまりトノアさんは、もうすぐ寿命がきちゃうってことで、そのためには魔族の男の人と結婚しないといけなくて、でもそれを拒んでいるということは――つまり)
茉理は力を落としたアルツールの表情を見て、何も言えなくなる。
おそらくトノアに結婚を申し込み、断られてしまったのだろう。
それだけでなく愛している女性が今、死に直面しているというのに、何も出来ない無力な自分を嘆いているのだ。
「自分の相手を、巫女はその能力で知ると言います。そして彼を自分のすぐ側に騎士としておくのが慣例――聖魔騎士とはそういうものです。巫女を愛し、巫女のために戦う。そのかわり巫女はすべての勤めを終えた暁に、妻として騎士に生涯を捧げることになる」
アルツールは悔しげに唇を噛んだ。
「わたしはトノア様を一目見たとき、この方こそ自分の運命を委ねる人だとわかりました。そして優秀な魔術師になり、彼女の役に立てるよう、必死に努力したのです。わたしの直感は間違いではなく、トノア様は数年後、わたしを騎士に取り立てられました。本当に嬉しかった。それ以降、わたしはすべてをトノア様に捧げ、あの方の微笑みを守ることに喜びを感じてきた。でも」
それ以上何も言わず、彼は噴水に深い溜め息を落とす。
(あ……水が……)
少しずつ水が噴出し、その勢いがどんどん増していく。
先ほど共に儀式を行っていた魔術師がやってきて、アルツールの前に膝をついた。
「アルツール様、トノア様がお目覚めになりました。アルツール様を呼んでいらっしゃいます」
「わかった」
彼はいつもの口調に戻り、茉理に向かって小さく微笑む。
「わたしはこれで。あとで使い魔に、あなたをトノア姫の元まで案内させましょう」
「あ、はい」
茉理はうなずいた。
マントを翻して去っていくアルツールを見ながら、その姿が堂々といつもの様子を見せていることに、彼女は余計に胸が痛くなる。
(ああいうのって、やせ我慢っていうんだっけ? うーん、ちょっと違うような――)
彼が行ってしまったあと、首をかしげながら茉理は噴水の側に佇んでいた。
険しい顔をして帝が噴水まで来たとき、茉理はまだそこにいた。
水の流れる音に耳を澄ましながら、ベンチに座っている。
「何をしている?」
あまりにも静かに彼女が座っているので、彼は不思議に思った。
「水の音、綺麗だなって思って」
「綺麗?」
「うん、すっごくいい音してる――楽器みたい」
茉理の答えに、帝は自分も噴水を見た。
勢いよく噴出す水は、清らかで美しい。
どんな魔法を使っているのか、そこだけライトが当たったかのように光輝きながら――。
「ねえ、会長って誰かを好きになったこと、ある?」
唐突な質問に、帝は返す言葉が出なかった。
黙って茉理を見つめていると、長い髪をさらりと揺らしながら真剣に考え込んでいる。
「トノアさん、あと少ししか巫女でいられないんだって、アルツールさんがさっき教えてくれたんだ」
「そうか」
「アルツールさん、とても悲しそうだったよ。トノアさんの寿命を延ばしてあげたくて、プロポーズしたら断られちゃったみたい」
「なんだそれは」
帝はあきれて声をあげる。
「要するにふられたのか、あいつ」
さきほどあせっていたアルツールの姿が、彼の脳裏に浮かんできた。
トノアをあきらめきれなくて意地になっているのだろうか――自分が役に立てる騎士であると証明して、今度こそ巫女の心を勝ち得たい、そう思っているのだろうか。
そんな風に思えなくもなくて、帝は眉をひそめた。
「あのトノアとかいう女も馬鹿なことを。その気がない男を、何故騎士にしたんだ?」
「ていうかトノアさんもアルツールさんのこと、すっごく好きだと思うんだけど」
茉理は首をかしげる。
「どうして断ったのかな」
「……運命の相手じゃなかったんだろ」
帝はぼそっとつぶやいた。
「えっ、でも好きなんだよ?」
「好きという気持ちだけで、相手を選ぶわけにはいかないんだ」
「どうして?」
「普通の人間なら別に関係ないけどな。でも魔族には重大な問題になる」
「子どもに自分の魔力を完全に遺伝させられないってこと?」
茉理は以前、雅人から受けた説明を思い出す。
「そうだ。もし本当に運命の相手と出来た子なら、必ず生まれた時に額に一族の刻印が現れる。もし印がなかったら、それは間違った相手だったということだ」
「そんなにはっきり出るんだ」
茉理が驚くと、帝はうなずいて説明を続けた。
「普通に暮らしてる魔族なら、魔力の遺伝なんか問題じゃない。この先人間として生きようと思うなら、別に相手は誰でもかまわないのさ。強制じゃないからな」
「でも、じゃあどうして会長はイベントなんてことをやって、相手をわざわざ見つけようとするんですか」
素朴な茉理の疑問に、帝は目を閉じ、しばらく考え込む。
――君は、僕たちとは違う。
そう自分に言ったのは誰だったか。
「俺は――クリスティ本家の俺は少し違うらしい。どうしても運命の相手を見つけだし、子どもに全魔力を遺伝させなければならない。それが何故なのかは俺も知らないんだ」
「知らないって……」
「魔族は数え年十五歳で、成人として認められる。十五歳を迎える年の新年に、成人の儀式を行うんだ。クリスティ家にとっては、これはとても重要な儀式なんだ。そこで一族に伝わる宿命とやらが伝授されるんでな」
「一族の宿命?」
「おそらくそれは今、俺達が見ているこのユーフォリアに関係あるんじゃないかと、俺は思っている」
(……むずかしいな)
それが茉理の素直な感想だった。
いろいろ説明されて、頭の中がごちゃごちゃしてくる。
(えーと、だから――)
「とにかく会長は、自分の魔力を子どもにすべて遺伝させないと大変なことになっちゃうんですよね。先祖から受け継いだ魔力を……って、あれえ?」
頭が更におかしくなりそうだったが、茉理は思いついて口に出してみる。
「会長のご先祖様って、あのアルツールさんですよね。じゃあアルツールさんと同じ魔力が会長にも?」
「そういうことになるな」
(駄目だ、余計ややこしくなった)
茉理はついに頭を抱えた。
十二歳の少女には、まだ難しすぎることばかりだ。
そんな彼女に、帝は少しだけ暖かい視線を向ける。
普通の少女なら、異変だらけでパニックに陥るだろうに。
(今でも何か悩んでるみたいだが、正気を保っているし、まあ、大丈夫だろう)
ほっと息を吐くと、帝は、俺は少し別なところを見てくる、と言って、茉理の前から姿を消した。
彼が目の前から消えた後、茉理はもう考えるのをやめることにした。
(ま、いっか)
もともと自分は考えるのは苦手な方だ。
どちらかというと思いつきで行動するタイプである。
(わたしが思い悩んで、何か状況を変えることが出来るわけでもないしね。今は一旦保留しよう)
茉理はそう思い直すと、また水の流れに耳をかたむけながら時をすごした。




