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(ん……ここは……)
茉理はそっと目を開ける。
最近このパターンが多いなと思いながら、彼女はもそもそ起きだした。
「なっ、何これ」
身を起こしてみて、茉理は驚く。
自分の体は、毛布ではなく大量の薔薇の花びらに埋もれていたのだ。
身動きするたびに血のように真っ赤な薔薇の花びらが縦横無尽に飛び散ってしまう。
薔薇の香りにむせ返りながら、茉理は花びらを除けて立ち上がった。
「……」
無駄に薔薇をしきつめた寝台から床に足を下ろすと、そこもまた薔薇の花びらで埋まっていた。
(こんなに花びらだらけだとうっとおしいわねえ。雅人先輩なら泣いて喜ぶでしょうけど)
薔薇好きの先輩を思い出し、くすっと笑みを漏らす。
しゃくしゃく花びらを踏みながら、茉理は歩き出した。
赤い花びらだらけの寝室を出ると、今度は白薔薇の花びらで埋め尽くされた廊下が続いている。
(こんなに大量に薔薇を使うなんて、よっぽどこの花が好きなのね、この建物の主人は)
服や髪にまとわりつく花びらにうんざりしながら、茉理は黒いローブの裾をひき、廊下を進んでいった。
茉理が眠っていたのは小さな館だった。
あちこち歩いてみたが館には人の気配はなく、茉理は扉を開けて中庭に出る。
(うわあっ、すごい)
彼女は中庭にも薔薇が咲き誇っているのを見て、驚きの声をあげた。
(すごすぎ……こんなにいっぱいの薔薇、見たことないわ)
どの花も美しい色と香りで茉理の心をくすぐる。
思わず花に魅せられて庭をあちこち彷徨っていると、白いベンチが見えてきた。
ベンチに座る人影に、茉理の胸はどきんとする。
(あの人だ)
金髪にすみれ色の瞳。
フランソワが優しく微笑んでいたのだ。
「お目覚めになりましたね、姫」
「……」
茉理は声が出なかった。
女の子なら誰でも魅了される夢のような貴公子が、自分に向かって微笑んでいる。
胸の高鳴りを押さえきれない。
茉理は一歩も動けずに、その場に立ち尽くした。
動けずにいる彼女を見て、フランソワは立ち上がり、側にやって来る。
(あ……)
手を取られ、接吻を受けて、茉理はぼーっとしてしまった。
(まるで本物のお姫様になったみたい)
少女なら誰でも一度は夢見る存在。
そんなものになったかのような感覚が全身に行き渡る。
フランソワの茉理に対する態度は、愛しい姫を前にしての仕草そのものだったから――。
彼は少女の手を引くと、白いベンチにかけさせる。
そしてすっと自然に茉理の横に座った。
(わっ……)
横に彼の存在を感じ、緊張する茉理の肩を、フランソワはそっと引き寄せる。
彼は茉理の結んでいた髪紐をほどき、黒髪を下ろした。
「実に美しい――こうして髪を下ろしている方が、姫は女らしくみえますね」
「え? あの、その……」
甘く艶を含んだ声でささやかれ、茉理はどきまぎする。
一体何と応えれば良いのかわからなかった。
彼はくすっと笑うと、茉理の髪をひとすくい指にかけて唇に持っていく。
「なんという甘い香りだ。姫、貴方ほど美しい方にわたしは会ったことがない」
すみれ色の瞳がきらめく。
フランソワは物憂げな表情を浮かべ、茉理を見つめた。
(ど……どうしよう……)
彼の瞳に射すくめられ、茉理の心はどんどん高まっていく。
――このままずっと王子様のような彼に寄り添っていたい。
本当に愛されているかのような甘い錯覚に、彼女は身も心も支配された。
フランソワは魅惑的な微笑を浮かべると、茉理の頬を両手で包む。
ゆっくりと彼の唇が茉理の唇に重なった。
だが彼の唇が触れたとき、茉理の体が凍りついたように冷たくなる。
(なっ、何よこれ……)
彼の唇は温かみのない、冷たい氷のようなもの。
そのひやりとした感覚が、すべての幻惑を正気に戻す。
(嫌……この人の唇は、嫌……)
茉理は必死にもがき、彼の接吻から逃れようとした。
でもしっかり押さえつけられたあげく、更に深く唇を押し付けられてしまう。
冷たい唇を通して、徐々に体中の体温を吸い取られていく。
(このままじゃわたし、凍り付いてしまう!)
茉理は恐怖を全身に感じ、ありったけの力を込めて彼を押した。
「くっ」
茉理の肘が彼の胸に決まる。
フランソワはふいをつかれて腕を緩めた。
その隙に茉理は彼から逃れ、走り出す。
「待ちなさい、姫」
「嫌っ、来ないで」
彼女はやみくもに走り、庭園の薔薇の茂みに身を隠す。
「ふふっ……かくれんぼですか。可愛い人だ」
フランソワは余裕の笑みを浮かべた。
「必ず見つけてあげますよ」
茂みに身をちぢこませて茉理は息を殺す。
(お願い、行っちゃって……)
彼の足音が近づいてきた。
茉理が隠れた茂みの前で、足音はピタッと止まる。
(嘘……来ないで)
茉理の心臓はばくばく音を立てた。
(どうかみつかりませんように――)
足音はしばし留まっていたが、彼女の祈りが通じたのか、また歩き出す音がした。
どんどん遠ざかり、向こうの方に消えていく。
茉理は心底ほっとして胸をなでおろした。
(ここは嫌。とにかくこの館を出よう)
このままここにいたら、見つかるのは時間の問題だ。
一体ここがどこなのかわからないが、館を出て人家を探せば、どうにか帰れるかもしれない。
彼女は心を決め、立ち上がる。
そのとき。
すっと背後から優しく抱きしめられた。
「見つけましたよ、姫」
耳元で甘くささやく声に茉理は震え上がる。
フランソワの両腕が彼女の体を包み、抱きしめていた。
「は……離して!」
「離しません、美しい方。もう、かくれんぼは終わりです」
フランソワは茉理を自分の方に向けさせると、せつなげな瞳で彼女を見た。
「あなたはわたしが捕まえた。もうわたしのものなのです」
「嫌! わたしはあなたのものなんかじゃないわっ」
「どうしてそんなにわたしを嫌うのですか。あなたに永遠の若さと命を差し上げようというのに」
悲しげなまなざしに、茉理はまた胸がどきっとした。
彼は本当に本気で自分を想ってくれているかにみえる。
でも。
触れてくる冷たい指先、甘い微笑みの下に隠れた氷のような表情を茉理は感じられるようになっていた。
(こんな誘惑に乗っちゃ駄目)
彼女は必死にもがく。
でも彼はますます悲しげな瞳で迫った。
顔はせつない優しい微笑を浮かべているのに、腕はぎゅうぎゅう茉理を締め付けていき――まるで荒縄にでも縛られてしまったかのようだ。
フランソワの指が茉理の首筋をすっと撫でる。
「じっといていらっしゃい。今、ここに貴方への想いを刻んであげます」
彼はそう言うと、茉理の首筋に唇を寄せた。
「やっ、やだっ」
愛しそうに彼は何度も唇を茉理の首筋に這わせる。
茉理は恐怖に震えた。
(ドラキュラって確か……血を吸い取ってしまうのよね)
彼の牙がいつ自分の首筋にぶすりといくか、それを思うと歯が噛み合わず、目を開けていられない。
(嫌……嫌だっ)
茉理はぎゅっと目をつぶり、体中のすべてを集中して彼を拒否した。
フランソワの唇から、ついに二本の牙が出る。
それをまさに茉理の首に突き刺そうとした瞬間。
「嫌―っ」
茉理は叫び、体中に満ちる熱い思いを放出した。
彼女の体から光があふれ出す。
フランソワはあまりのまぶしさに茉理を抱いていられなくなり、顔を覆った。
「くっ」
茉理を離すと、彼は五歩ほど下がって膝をつく。
(な……なんなの、この光は)
茉理自身も驚いていた。
自分の中からあふれて止まらない光。
それは辺り一面に満ち溢れ、咲き誇る薔薇の花を消してしまう。
すべてを包み込み、暖かく溶かすと不思議な光は収まった。
「……」
茉理は辺りを見回して呆然とする。
美しい庭園も館も消えた。
寂しい荒野の真ん中に、茉理とフランソワはいたのだ。
「くそっ、まだ目覚めていないとはいえ、巫女は巫女か」
悔しげにフランソワが叫ぶ。
「わたしの魔術をすべて無効化するとは――」
(何? 何を言ってるの?)
茉理は彼の言葉に首をかしげた。
巫女とはなんだろう。
もしかしてトノアが何かしてくれたのだろうか。
(えーと、とにかく消えちゃったってことは、あの庭も館も幻だったってことね)
フランソワが強力な魔術で見せていた幻影だったということだ。
彼の顔は先ほどまでの優雅でうっとりする王子様の容貌ではなくなっていた。
顔立ちは変わらないものの、瞳には野心と憎悪がみなぎり、悪魔のように変貌していたのだ。
(に、逃げないと)
茉理は我に返り、一歩あとずさる。
「フフフフ……姫、貴方に逃げ道などない。おとなしくわたしの与える幻影の中で、愛される夢を見ていれば良かったのに」
「やだっ、そんなの本物じゃないじゃない」
茉理は勢いよく叫ぶ。
「あなたがわたしを本気で好きになっていないのに――そんなまぼろしなんて嫌」
「聞き分けのない女だな。トノアと同じ女がもう一人いようとは思わなかった」
フランソワはそう言うと、茉理に向かって中指を突き出した。
「深遠に眠りし闇よ、この者を拘束し、わが意のままに」
「きゃっ」
彼の言葉と共に、茉理の手足が突然動かなくなる。
彼女の背後に真っ黒い魔方陣が出現し、そこから黒い糸のようなものが幾重にも現れ、茉理の体にからみついた。
「いやっ、動かないっ、どうして」
必死に暴れる茉理の前に、余裕の笑みを浮かべてフランソワが立つ。
「美しい夢の中で貴方を永遠の存在にしてあげようと思ったのに――わたしの思いを受け止められぬとは残念だ。かくなる上は貴方の生力をまず最初にいただくことにしよう」
「やだよ……来ないで……」
恐怖に涙しながら茉理は叫ぶ。
彼は茉理のあごに手をかけると、顔を近づけた。
「まず貴方の力を眠らせる。そうしないとまた巫女の力をよみがえらせ、わたしの術を破ってしまうから」
(嫌……やめて……)
黒い糸に縛られて、抵抗が出来ない。
茉理の唇に、フランソワの氷のような唇がもう一度重ねられる。
唇を通して徐々に体から力が吸い取られていった。
それはきわめて甘美にゆっくりと行われ、茉理の意識はどんどん眠くなっていく。
(あ……)
恐怖を感じる心も、嫌悪を覚える意識も薄れていった。
力がどんどん抜けていき、それでも頬を伝う涙はとまらなくて。
(助けて)
茉理は閉じそうになる瞳と、消え行く意識の中で強く願った。
(助けて……わたし、もう駄目……助けて、会長……帝先輩!)
「後野茉理?」
帝は自分を呼ぶ気配にはっとした。
トランシルバニア地方の古城デューキュア城――フランソワの領地にある彼の城。
アルツールからフランソワの潜伏していそうな城や館を聞き出すと、帝はトノアに無理を言ってユーフォリアを出た。
必ず帰ってくるという確約の元、アルツールと部下のクリスティ一族と共にデューキュア所有の建物に踏み込み、捜索をしている。
そんな最中、確かに彼は自分を呼ぶ茉理の声を感じた。
すばやく呪を唱え、どこから来たのか感知させる。
「どうした、イジュール」
魔法を使い出した彼に気付き、アルツールたちが近寄ってきた。
答える余裕もなく、帝はかすかな声の残像を空間から手繰り寄せる。
(見つけた)
ユーフォリアとはまた違う、別空間に開かれた場所。
(空間を作り上げたのは、エレアの奴だな)
エレアによって空間が閉じられていれば、侵入は出来ない。
でも。
(あいつが呼んだのなら――)
帝は呪文を唱え、空間を開いた。
目の前が揺らぎ、大きな穴のような入り口が現れる。
「おいっ、イジュール、どこへ行く気だ」
驚くアルツールの静止を振り切って、帝は穴の中へ飛び込んだ。
(空間はつなげた。このまま行けば出れる)
彼が入った後、穴はすぐに閉じる。
「おいっ、待て、俺も」
アルツールも続いて飛び込んだが、はじき返されて穴から転がり出てきた。
「アルツール様、大丈夫ですか」
「ああ」
部下に起こされ、アルツールは体制を整える。
「どうやらイジュールは別空間に向かったようだ」
「別な空間? ユーフォリアのようにですか」
「おそらくエレア様が巫力で作られたのだろう。空間はエレア様によって閉じられている。俺の侵入を拒みやがった」
「では彼は? イジュールはどうして閉ざされた空間に入っていけたのでしょう」
「わからん」
アルツールは首を横に振り、とにかくトノア様に報告だ、とつぶやいて、城をあとにした。




