38
しばらくして茉理は起きた。
(えーと、ここって……)
寝台に身を起こし、ぼーっとする。
見慣れない部屋だ。
(わたし、どうしちゃったのかな)
ゆっくりと彼女は記憶を頭から引きずり出す。
確かユーフォニアに飛ばされて、帝と会って、それから――。
(やだ、もしかして寝ちゃったんだ、わたし)
顔を赤らめて茉理は毛布をかぶった。
帝はどう思っただろう。
こんな状況で、つい眠気に勝てずに寝入ってしまった。
(最悪。ここには誰が連れてきてくれたのかな)
きっとはにわだろう。
茉理は寝台を出た。
側の卓に髪紐が置かれている。
もう一度髪を結ぶと鏡を出して服の乱れを直し、茉理は寝室を出た。
白いドアを開けると、昨日歩いた廊下が真っ直ぐ伸びている。
(制限魔法がかかってるっていったっけ)
ではどこを歩いてもあの居間にたどり着くだろうし、それとも噴水に出るかもしれない。
(どっちでもいいや。会長かトノアさんに会った方がいいものね)
茉理はゆっくりと歩き出した。
茉理の寝ていた部屋のすぐ隣の部屋で、帝は休むことも出来ずに押しかけてきたアルツールと対峙していた。
「少しは休んだらどうだ?」
「気遣いは無用だ」
帝はぶすっとして目の前の男を睨む。
アルツールは、にやりと笑いながら帝に言った。
「トノア様の命により制限魔法を解いた。お前たちは自由にこの世界を闊歩していいそうだぞ。感謝するんだな」
「この世界のことなどどうでもいい。俺達を早く元の世界に帰せ」
ありがたみも感じず怒鳴る帝に、アルツールは眉を上げる。
「イジュール、お前は変わった奴だな」
「何だと?」
「ユーフォリアといえば魔族のあがめる聖地。そして聖魔巫女は俺達魔族に新たな力を授けてくださる存在だぞ。そのお方から滞在を許可され、尚且つ自由な行動も許されている。何に不満があるというのだ」
「……」
「他の一族なら、このような特権を与えられたら泣いて喜ぶぞ。魔族の長しか足を踏み入れられぬ聖地。謁見することすら夢のような巫女姫と出会って、さっさと故郷に帰りたいなどと言う奴はまずいない」
「俺には新しい力も、この限られた空間での自由も必要ない。この世界に俺達は介入すべきではないし、興味もない。さっさと帰らせてくれ」
「そう言うな。なんだか知らんがトノア様は、お前の姫を大層気にしておられる。あの姫は魔力がないところをみると聖魔一族らしいが、一体何者なのだ?」
(馬鹿な。あいつが聖魔一族だと?)
帝はアルツールの見解に、はっとした。
(そうか。それならすべては納得できる)
現代に魔族の子孫が存在するのだ。
だったら聖魔一族の子孫がいても、何の不思議もないではないか。
もしそうだとすれば、彼女が何故学園に入学を許可されたのか――今まで見せた不思議な力のすべてに説明がつく。
ふいに考え込んだ帝に、アルツールは厳しい瞳を向けた。
「だがこれだけは覚えておけ。トノア様に何かしたら絶対に許さん。いかにお前たちがトノア様の客人だとしても、トノア様を傷つけることがあったら容赦はせんからな。肝に銘じておけ」
「……」
二人は一瞬、激しい闘志をぶつけ合う。
そのとき。
「いやあああーっ」
鋭い悲鳴が二人の耳に届いた。
「今の声は?」
「あいつ!」
アルツールを押しのけて帝は部屋を飛び出すと、声のした方に駆けていった。
悲鳴の上がる数分前。
部屋を出た茉理は、とにかくひたすら進んだ。
しかし行けども行けども黒い柱の廊下が果てなく続いている。
(けっこう歩いたと思うんだけど――)
制限魔法がかかっているなら、どこをどう歩いても噴水か居間に行き着くはずなのだ。
だがいくら歩いても目的地には着かず、逆に見たことのない場所に来てしまう。
(あーあ、ここ、どこなの?)
いつの間にか彼女は、高い塔の前に出てきていた。
塔の周囲には、ここで初めて見る真っ赤な薔薇が垣根を作って咲き誇っている。
茉理は魅せられるように薔薇に近寄った。
そっと大輪の一つに触れようと彼女は手を伸ばすが、きゃっと叫んでまた引っ込める。
思ったより鋭い棘が茉理の指を傷つけたのだ。
(いったーっ。綺麗だけど、うかつには触れないのね)
茉理は指をなめながら、そう思う。
さあっと風が吹き、彼女の髪を揺らした。
自分ではかなり寝ていたと思うのに、まだ空は暗いままだ。
(いつになったら朝になるのかなあ)
天を仰ぎ、不思議そうに首をかしげる彼女の耳に、ふふっと笑う声が聞こえた。
前を見て茉理は驚く。
塔の前に少女が立っていた。
(トノアさん? ……ううん、違う。この人の髪は黒だわ)
トノアにそっくりな少女が、茉理を見て微笑む。
「貴方ね、トノアの客人というのは」
「あの……」
「ようこそ、ユーフォリアへ。わたしはエレア。トノアの双子の妹」
(あ……この人って)
茉理は思い出した。
確か『魔法の国の巫女姫』に出てくる、もう一人の巫女姫。
トノアとは、まったく正反対の闇を纏う少女。
戸惑う茉理に、エレアは手を差し伸べる。
「こちらにいらっしゃい。貴方に紹介したい人がいるの」
茉理は、彼女の黒い瞳に引き込まれて側に寄った。
(この人は危険――)
どうしてかわからないが体中が震え、背中を悪寒が走る。
でもそうとわかっていても、体は言うことを聞かなかった。
まるで操られているかのように茉理は抵抗もせず、エレアの前に来る。
彼女は茉理の手を取ると、さあ、と塔の中に導いた。
塔の中はひんやりして静寂が立ち込めていた。
(何もない――誰もいない……)
まるで終わりを迎えた世界のように何も動かず、天井から差し込む小さな光さえ、瞬きもせず静止しているかのようだ。
塔の中で茉理は、自分が恐ろしい世界に連れて行かれるような気分に陥った。
エレアの手を振り解かねば――これ以上、進んではいけない。
そう心は茉理に警告する。
それでも彼女はエレアの手以外にすがるものがなく、逆にしっかりと手を握りしめてしまった。
(怖い、ここって何なの?)
震え上がる茉理の背を押して、エレアは塔の中心に連れていく。
そこには黒いマントに身を包んだ、金色の髪の青年が立っていた。
(うわっ……なんかすごく綺麗な人)
茉理は思わず、その青年に魅入ってしまう。
男の人に綺麗という形容詞は、あまりそぐわないのかもしれない。
でも他に表現する言葉を茉理は思いつかなかった。
ともすれば女性と思わせるほど豊かな金色の髪は腰まで流れ、瞳は淡いすみれ色に煌いている。
細身の体を包む黒のローブとマントはところどころ星のようにきらきらと瞬き、腰につけた剣の鞘は黄金の渋い輝きを放っていた。
首筋には幾重にも滝のように細い金鎖が巻きつけられている。
黒い装束に身を包んでいても、溢れて止まらない華麗な金色の光。
彼は口元をほころばせ、茉理の前に跪いた。
「ようこそ。小さな姫君」
「あ、あの……こんにちは」
茉理は顔を赤らめながら、なんとか挨拶をする。
いつの間にかエレアの姿は消え、この美しい青年と二人っきりになっていた。
青年は立ち上がると優雅に微笑み、茉理の手を取る。
「実に美しい人だ。貴方のその瞳に宿る魂の輝き――わたしの胸に永遠に留めておきたいもの」
(わたしのこと? なんか……変だな)
茉理はくすぐったいような変な気持ちになった。
こんな風に男性から賛辞を受けたのは初めてだ。
戸惑う彼女の頬を、彼は手のひらで包む。
そのひんやりとした冷たい感触が、茉理の背中に悪寒を走らせた。
すみれ色の瞳が揺らめき、少女を誘う。
危険だとわかっているのに茉理は彼に引き寄せられ、胸にしっかりと抱きしめられていた。
「貴方のような人がいつか朽ちて果ててしまうなんて、なんという悲劇だろう。人は皆、死を迎えねばならない定めだと誰が決めてしまったのか。そうだとは思いませんか」
「あ、あの……」
「でも心配しないで、姫」
青年は茉理の耳元でささやく。
「わたしが貴方の美しさを永遠のものにしてあげます。貴方に死は訪れない。いつまでもこの美しいまま生きていけるのです。永遠にね」
「……」
「さあ、わたしにすべてをゆだねなさい。すぐに済みます。そして貴方は永遠の命と美しさを得るのです」
青年はそう言うと、茉理の首筋に指を這わせる。
じわっと寒気が全身に伝わった。
ゆっくりと彼の唇が茉理の首に当てられる。
すっとなめるように唇が首筋を這った。
(うっ……)
茉理は身動きしようとして出来なかった。
体中から嫌悪感と吐き気がこみ上げる。
(駄目――この人に触れられては駄目……)
自分が何か別なものになってしまう。
茉理はすべての力を込め、彼を突き飛ばした。
「嫌っ」
青年は驚愕の表情で茉理を見る。
「どうしたのです。永遠の若さと命が手に入るのですよ。怖がることはありません。一瞬で済みます。さあ」
彼は、茉理をつかまえようとした。
「離して! わたし、帰る!」
茉理は叫び、そのまま塔の入り口に向かって全力疾走する。
しかし青年の方が早く、たちまち背後から羽交い絞めにされてしまった。
「もう貴方はどこへも逃げられません。さあ、わたしの祝福の接吻を受けるのです」
青年の唇が首筋に当てられる。
茉理は涙を流しながら必死に叫んだ。
「いやあああーっ!」
バキイイーッ。
塔の壁が崩れた。
今まさに、茉理の首に青年が牙をつきたてようとしているときに。
驚きで一瞬力を抜いた青年に気付き、茉理はすばやく肘を彼に叩き込む。
「くっ」
少女の攻撃は微弱とはいえ突然だったので、青年は腕を緩めて胸を押さえた。
茉理は彼の腕から逃れ、壁の崩れた方に向かって走り出す。
「待て」
あわてて体制を整え、追いかけようとした青年を雷が襲った。
正面から閃光が叩きつけられ、あまりのまぶしさに青年はマントで顔を覆う。
しかし光の衝撃に、彼の体は壁に叩きつけられた。
床に膝をつき、青年はきっと顔を上げる。
崩れた壁の前に、茉理を背にかばって一人の少年が立っていた。
黒い前髪の間、額に輝く一族の紋章を見て青年は眉を上げる。
「貴様、クリスティ一族。アルツールの手の者か」
帝は答えず、立ち上がる青年を激しい闘志で睨んだ。
「ふっ、この姫の護衛か。少しはやるようだな」
「お前は誰だ」
「わたしは――」
青年は唇にわずかにじみ出る血をぐいっと腕で拭き、にやりと笑う。
「フランソワ・デ・カルタス・デューキュア。デューキュア一族の長にして、永遠の命を求める者」
「何?」
帝は鋭い視線を向けながら聞き返した。
「永遠の命だと?」
「そうだ。わたしはすでに永遠不死の力を得た。これを人類すべてに伝授し、この世界を死のないとこしえの楽園にするのだ」
帝は、じっと自分の言葉に酔いしれている青年を見つめる。
彼の言った内容を頭の中で反芻し、少々軽蔑の笑みを浮かべてみせた。
「陳腐な理想論だな。要するにお前は死を恐れているということか」
「なんだと」
「そうではないのか? でなければ、どうして不老不死など求めるのだ」
フランソワは顔をゆがめ、返事を返さなかった。
悔しそうな横顔が、彼の理想を汚した帝への怒りに燃え上がっている。
「どうした」
崩れた壁の向こうから、人がばたばたとやってきた。
フランソワはきっと唇を噛み締め、帝を睨む。
「小僧、今日はここまでにしといてやる。だが覚えておけ。お前とその姫は、いつか必ず我ら一族の前に膝を屈するのだ」
そう叫ぶと彼は黒いマントで身を包み、すっと消えた。
震える茉理の背後から、アルツールの声がする。
「大丈夫か」
「は……はい」
茉理は崩れるように座り込み、体を震わせた。
今更ながら恐怖の悪寒が全身を駆け巡り、動こうにも動けない。
「何があったんだ」
アルツールが優しく肩に手を置いたが、茉理は何も答えられなかった。
ただひたすら震えている少女を見下ろし、帝は歩けそうもないのを見て取る。
(まったく世話のかかる奴だ)
「おい、立て」
肩をぐいっとつかんで起き上がらせると、彼は茉理を横抱きにした。
(え? ええーっ)
突然お姫様抱っこをされ、茉理は感じていた恐怖もふっとんでしまう。
「動くな。運び辛いだろーがっ」
帝は行動に反して思いっきり怒鳴ると、彼女の頭を自分の胸に寄りかからせる。
「目をつぶってろ。少し休め」
そうつぶやくと、彼は周囲を警戒しながら茉理を寝室に運んでいった。
寝台に下ろされ、茉理は顔を赤くしながら礼を言った。
「あ、あの、ありがとうございました」
「……次は自分の足で歩けるようにしておけ」
「はい」
ふうっと帝は息を吐き、寝ろ、と毛布を茉理にかぶせる。
されるがまま横になった彼女の手を、帝はそっと握った。
(え……)
茉理は思いっきり戸惑う。
「じっとしてろ。今、お前の気の乱れを直す」
彼は目を閉じ、何か口の中で呪を唱えた。
(あ……なんか、あったかいかも)
手を通して、安らげる暖かいエネルギーが茉理の体に入ってくる。
目を閉じ、力の流れに身をゆだねると、徐々に悪寒や恐怖の思いが薄らいできた。
(安心したら、なんか眠くなってくる……ふああっ)
茉理は少しずつ心地よい眠気に襲われ、ついに目を閉じる。
帝は呪をやめ、茉理の顔を見た。
少女の顔色はずっと良くなり、深い眠りに入ったようだ。
何をされたのかは知らないが、あの危険な瞳の男に良からぬ力を与えられそうになったのだろう。
(普通の女ならおそらく抗うことも出来ず、あの忌々しい男の術中にはまっていただろうな)
一度対峙しただけだが彼は相当な魔術の使い手――帝にさえ恐怖の念を起こさせる相手だった。
(さっきはふいうちだったからあれで済んだが、まともにやりあったら俺もどうなるか)
険しい瞳で茉理の寝顔を見つめ、帝はため息をついて寝室をあとにした。




