26
放課後になった。
(結局戻ってきたわけね)
茉理は教科書をそろえてかばんに入れながら、軽く息をついた。
5時間目が終わったあと、消えた教科書とノートがまた机の上に出現したのだ。
(やっぱり『死んだゴキブリ』効果は高かったのかしら)
茉理はかばんを持つと、教室を出た。
うーんと伸びをして、廊下を歩く。
ふと校庭を見ると、特館が目に入った。
古びた趣のある洋館は、今つつじの植え込みが満開で綺麗だった。
(ちょっと寄っていこうかな。いい天気だし)
茉理はそう考えて、足を特館に向けた。
「失礼しました」
日直の日誌を担任に渡すと、英司はほっと一息ついた。
(えーとあとは……)
彼は小型PCを取り出し、キーを打って画面を出す。
そこには迷惑きわまりないメッセージが残されていた。
【ヤッホー、僕の愛する英司君、本日は野球部の練習試合につきあってくれたまえ。ああ、それから必ずホームランを三本は決めてくれよ。じゃあね。雅人より】
(野球かあ。あんまり好きじゃないんだけどな)
英司はため息をつく。
彼の持ち前の運動神経を持ってすれば大抵のスポーツは文句なくこなせるが、それでも本人の好き嫌いはあるというものだ。
(しゃーないよな。こんな生活、いつまで続くんだろ?)
直樹のスプレー効果は、当分切れそうもないし。
がっくり肩を落としながら、英司は変身するために男子トイレに入っていった。
小さな白いベンチには、暖かな日差しが注がれていた。
茉理は鞄を横に置くと、ベンチに座ってのどかな風景を楽しむ。
外観はつつじが咲き乱れていたが、裏のこの庭には薔薇がいっぱいだった。
向こうに見える温室にはまだ入ったことはないが、きっとあそこも綺麗だろうと茉理は想像する。
せっかくなので図書室から借りてきた本を引っ張り出した。
【魔法の国の巫女姫】
童話みたいな児童書は、今の茉理の読書レベルにぴったりだ。
表紙は若葉色で、金の飾り文字で題目が書かれている。
そこまで厚みはなさそうだったので、今度の読書感想文の宿題はこれにしようと決め、借りてきてあった。
そっと彼女はページを開く。
(うわっ、綺麗……)
見開きの幻想的な絵に、彼女は魅せられた。
どこかの聖堂を思わせる祭壇のある大広間。
たくさんの風変わりな衣装をつけた魔法使いたちが、皆そろって跪いていた。
彼らの前には、黒いローブを纏った銀色の髪の少女が立っている。
(【5ページより、聖魔巫女に拝謁する魔族達】か。この女の子が主人公なのね)
茉理は、そっと指で少女の絵に触れた。
気のせいか彼女の瞳は赤くルビーに輝き、そしてとても悲しそうだ。
(この本ってハッピーエンドじゃなかったりして……)
悲しい話はいまいちなんだけど、と思いながら茉理はページをめくった。
するとまた挿絵があった。
今度は先ほどの少女が二人描かれている。
双子と思うほど左右対称で、二人の少女は寄り添っていた。
一人は銀の髪、一人は真っ黒な闇色の髪。
瞳の色もそれぞれ違うが、輪郭、悲しそうな表情はすべて同じで、纏うローブも同じだった。
(双子だったのかな)
茉理はちらりと絵を見ると、またページをめくった。
今度は乙女心をくすぐる絵だった。
銀の髪の少女が横向きに立っており、足元に騎士のような青年が跪いている。
彼は少女のローブの裾をうやうやしく持つと、誓いをするかのようにそれに口付けていた。
(恋愛物語なのかな)
ますます好奇心をそそられて、茉理はページをめくる。
すると今度もまた絵だった。
(本文まで行くまでに、あとどれだけ絵なのかしら……でもこの絵って)
茉理は息を飲み込んだ。
次に現れた絵は、あまり情操教育に良さそうなものではなかった。
黒髪の少女が、黒いマントをつけた美青年に抱きしめられている。
少女の瞳からは涙が流れ、口元は苦痛で歪んでいた。
美青年は少女の喉元にキスをしているかのように唇をあてがっている。
でもその口元からは真っ赤な血が一筋たれている――そんなまがまがしい絵だった。
茉理の脳裏に、その絵はあまりにも鮮明に映った。
『巫女姫よ、わたしの永遠の愛をうけるがいい』
『愛しい方、どうぞわたくしをあなたの物に――これはわたくしが選んだ運命です。誰にも止められない、そして後悔しない道なのです』
『姫』
『どうぞ、あなたの唇で、わたくしをあなたの一族にしてください』
「だ、だめええーっ」
咄嗟に悲鳴をあげ、茉理は本を地面にたたきつけた。
はあ、はあ、はあ……。
茉理は体を両手で抱えて震えた。
目からは何故か涙が流れる。
(どうしちゃったの……わたし)
どうしてかこの絵をみた瞬間。
その情景が、現実にあった出来事のように脳内に再現された。
そして心の奥底から這い上がってくる嫌悪感と悲しみは一体――。
(なんだったの? この本は何よ)
茉理はなんとか気を取り直し、そろそろと本に手を伸ばす。
震える心を抑え、またページをめくると今までみた絵のすべてが消えていた。
(嘘……魔法の本、なのかな)
茉理は首をかしげながら、ベンチに座り直す。
今度はきちんと文字だけがページを埋めていた。
(気のせい? まさかね)
茉理は頭を切り替えると、ゆっくり本文を読み始めた。
(おー、やってるやってる)
放課後の校庭。
一角にグラウンドが整備され、ユニフォームを着込んだ生徒たちが位置について気合を入れている。
あちこちから黄色い声援が飛び交った。
「きゃーっ、雅人様―っ」
「ファイト、雅人様っ」
カキーンッ。
皆の声援に答えるように、バッターの雅人は真っ直ぐ伸びるボールを打った。
「きゃあーっ、ホームランよーっ」
「雅人様、すてきーっ」
(ほほう、こりゃすごいなあ。僕の人気がまた急上昇。英司君、君は本当によくやってくれるよ)
思いたってホームラン3本などとノルマを科したが、彼は苦もなくそれをクリアしそうだ。
英司の姿をした雅人は、少し離れた位置から練習試合を眺めていた。
(ちょっと様子を見に来てみたけど、これなら大丈夫そうだな)
英司はクリスティの中でも高い魔力を持っているが、まだまだ帝や雅人たちには及ばない。
連日の変身術連発生活はそろそろきつくなってないか、雅人は少々不安だった。
本人が聞いたら、だったら助っ人なんて引き受けるな、とユデダコのごとく沸騰して怒りそうだが――。
(ふふっ、でも僕の取り越し苦労だったみたいだね。君もしっかりトレーニングして、一応魔力のレベルを上げてるようだ)
満足げに英司の姿で微笑むと、雅人は踵を返す。
と、そのとき――。
「伊集院雅人様」
呼ばれて、彼はへっという顔をした。
「えーと、君はあっちに向かって言ったんだよね。ははっ」
妖しい瞳で自分を射抜く早川響子に、雅人は無邪気な笑みを浮かべる。
「君は確か直樹先輩の推薦した帝の彼女候補だっけ」
「わたしのことをご存知なんて光栄ですわ。雅人様」
少女は笑みを崩さず、彼の前に立ちふさがった。
「あのさ、君、雅人先輩はあっちで試合中。俺は山下英司。書記なんだけどね」
名前ぐらい覚えてもらえると嬉しいんだけど、とつぶやくと、彼はさっさと彼女の横を通り過ぎようとする。
「あら、お逃げになるの?」
「別に逃げるわけじゃないけど、君は雅人先輩に用があるんだろ。俺は関係ないじゃん」
少し膨れて英司らしく肩をすくめ、彼はさっさと通り過ぎる。
「お待ちください。言い方を変えますわ。わたしは今、あなたに用がありますの」
響子はうむを言わせない口調で、彼の背中に言った。
「お時間をいただきたいんです。今回のエントリーの件で」
振り向いた雅人が思わず息を呑むくらい、彼女は儚げで潤んだ瞳をしていた。
一途で純情な少女そのものの仕草に、英司の姿をした雅人は目を細めると観念してうなずいた。
半分ほど読み進め、茉理は児童書を閉じてため息をつく。
読み始めたら引き込まれ、時間のたつのも忘れてしまった。
(ま、いいか。今日は別に急いで帰る必要もないし)
約束している友達もいないし、習い事のたぐいは一切していない。
彼女はもう一度、本をしげしげとみつめた。
中身はロマンス童話とでもいうべき内容で、おそらく架空の物語であろう。
昔、魔族たちに大切にされた聖なる闇の力を持つ姫がいた。
物語は本来一人しか生まれないはずの姫が双子だったことから始まり、どちらが聖なる闇の巫女――聖魔巫女なのかということをめぐっての一族の混乱や、彼女たちの騎士となった魔族同士の対決、二人の姫をめぐっての愛のもつれやらなんやら。
(でも今日初めて知ったけど、吸血鬼も魔族なんだ)
物語の後半は呪われた一族――吸血鬼の青年に姫の一人が恋をしてしまうという内容で、あの挿絵のごとく、その姫は恋する吸血鬼に身を捧げてヴァンパイアになってしまうのだ。
最後はどうなってしまうのか――。
からすの鳴き声に、茉理は我に返った。
(もう帰ろうかな)
本を鞄に押し込み、彼女は立ち上がる。
ゆっくりと庭園を一度眺め、それから歩き出した。
「――こちらには、素敵なお庭がありますわね」
向こうの方から誰かが歩いてくる気配がして、咄嗟に彼女は薔薇の茂みに身を隠す。
(やだ、わたしったら――何隠れてんの)
やましいことは何一つないが、やっかいごとには首を突っ込みたくはない。
ましてここは校舎ではなく、生徒会室のある特館なのだ。
警戒心が先にたち、茉理はそっと息を潜めて様子を伺った。
お人形のように綺麗な少女が、英司と連れ立って歩いてくる。
(なんだ、デートか)
別に隠れる必要はないけど、二人の前に今更出れなくなって茉理は更に身を縮こませた。
先ほどまで茉理が座っていたベンチに、少女はしとやかに腰を下ろす。
まわりに咲き誇る薔薇の花の効果で、彼女は余計に美しく見えた。
「それで、俺に話って?」
少々迷惑そうに英司が聞く。
美少女――早川響子は俯き、悲しそうなしぐさをした。
「どうして後野茉理さんをエントリーなさったのか、お聞きしたいんです」
茉理は目を丸くした。
(わたしって山下先輩の推薦だったの!?)
どういうことだろうと思わず耳を欹ててしまう。
「そりゃあ、残念。彼女を推薦したのは俺じゃないよ」
「いいえ、もうお芝居はおやめくださいな、雅人様」
濡れた瞳をあげられて、英司はやれやれと肩をすくめた。
ポンッと白いもやが一瞬彼を包み、たちまち変身が解ける。
(雅人先輩? じゃ、英司先輩に変身してたんだ)
ちっとも気づかなかった、と茉理は驚いた。
前回、英司が雅人に変身して近づいてきたときには違和感に気づき、すぐに偽者だとわかったのに――今の英司への変身は、本当に見破れないくらい完璧だった。
(すごい……副会長ってこういう特技があったのね)
ただの変態ナルシスト非常識男だと思ってただけに意外な彼の一面を知り、茉理は口をあけて魅入ってしまう。
雅人は面白そうに笑むと、すぐ横にあった薔薇の木から花を一本折り取った。
「さすがは校内に名の響いた魔術の天才少女だね。こうもあっさり僕を見破るとは」
「正直に申し上げましょうか。あなたの変身はわたしには見破れませんでしたわ。でもあの校庭でがんばっておられるユニフォームの方なら――」
薔薇の蕾のような唇が薄く微笑む。
雅人は、はああっと大仰にため息をついた。
「あいつか。まだまだ修行が足りないなあ。鍛えておくから今日は見逃してやってくれよ」
さりげなくウインクする雅人に、響子は陶酔の視線を向ける。
「雅人様と二人きりなんて夢のようですわ」
「僕こそこんな美しいレディに思われて光栄だよ。でも、ああっ、駄目だ。僕たちの間は清らかでなければならない。君は誇り高き魔族の王に花嫁として捧げられる身じゃないか。僕にそんな瞳を向けては駄目だ。君のそのまなざしで僕を誘惑しないでくれ。さもないと僕は、取り返しのつかない思いに身を焦がしてしまうだろう」
(相変わらず意味不明だわ)
茉理はあきれて物も言えなかった。
前言撤回。またまた雅人のイメージは変態ナルシスト非常識男に戻っていく。
「雅人様……本当にわたしのことを?」
少女は身をよじらせて悲劇のポーズを取る雅人に歩み寄り、その手を取った。
「わたしも前から貴方をお慕いしておりました。嬉しいですわ」
「……」
彼の手を頬に当てて優しくすりよる響子に、今度は雅人が無言になってしまう。
(へえ、初めてみたわ。雅人先輩が困ってるところ)
それはそうだろう。
普通、あんな芝居ががったセリフは、本当とは思えないはずだ。
ただの装飾語程度にしか雅人は思っていなかっただろうし。
なのにそれを真顔で取られるとは、今後の対応に困るというものだ。
彼のばつが悪そうな顔を見て、響子はふふっと微笑んだ。
雅人の目がすっと細められる。
「――そうだね、君にはこういう手は通用しないんだったね」
いつになく真剣な雅人の口調が、茂みに潜む茉理にも伝わってきた。
「いいだろう。頭を冷やして真面目に話そうじゃないか」
不適な笑みを浮かべつつ、雅人は響子をエスコートして、またベンチに座らせる。
「で、この僕に一体何の用だい?」
「最初に申し上げたではありませんか。どうしてあの後野茉理さんをエントリーなさったか、お聞きしたいと」
「……」
「彼女を推薦なんてする酔狂な方は、あなたぐらいのものでしょう。帝様の恋人候補として、この校内中で彼女ほどふさわしくない者はおりませんわ。ライバルとせねばならないわたしには、理由を聞く権利があると思うんですけど」
「まあ、そうだね。君の意見は正しいよ」
雅人は薔薇の香りを吸い込みながら、微笑んだ。
「で、お姫様は、それを僕から聞いてどうするつもりなんだい」
「どうって、ただ知りたいだけですわ」
「ふうん、じゃ、教えない」
雅人はきっぱりと言い切った。
「雅人様」
「悪いけど君に教える筋合いはないんでね。知りたい君の気持ちはわかるが、こればっかりは教えられない。あえて言うなら直感ってやつでね」
「直感?」
思いもかけないことを言われ、響子はぽかんとした。
「そう、直感。彼女は僕たちに必要な存在となる気がする――それだけさ」
「そんな……そんな感なんて当てにならないもので、帝様の彼女を決めるというんですか」
声を荒げる響子に、雅人のするどい目線がせまった。
「感は大事だよ。それは君だってよく知ってるだろ? 魔族の感はけっこう信頼出来る」
「それとこれとは」
「関係大有り。大体僕が何を判断基準にして候補を決めたのかなんて、君にどうこう言う権利はないはずだ。そうだろう?」
嫌な目つきで、響子は雅人を選んだ。
「おいおい、そんな目でにらむなよ。怖いなあ」
「ふざけないで」
「それより僕も聞いていいかい?」
雅人は真剣に彼女を見詰めた。
「この取り決めに不満があるんじゃなくて、君は本当は『後野茉理』個人に、何かあるんじゃないのかい? もし彼女じゃなくて別な魔力をまったくもたない凡人の少女が候補になっていたとしたら、君はこんなに突っかかっては来なかっただろう。違うかい?」
今度は響子が無言になった。
彼女は悔しげに唇を噛みしめる。
「……感です」
「ほう?」
「彼女を見ているといらいらするの。なんだかとても憎くてたまらなくなるのよ」
はき捨てるように響子は怒鳴り、立ち上がった。
「雅人様、お付き合いくださってどうもありがとうございました。わたし、これで失礼します」
「もういいのかい?」
「ええ。これ以上、貴方に何を聞いても無駄でしょうから」
「引き際を心得ていてくれて嬉しいよ、響子姫」
にこやかに微笑んで、雅人は腰を優雅にかがめる。
「お帰りはあちらだ」
響子はあきらかに気分を害した様子で、立ち去っていった。
「……やれやれ、気の強いお姫様だね」
彼女を見送って、雅人は薔薇の茂みに声をかける。
「もう出来てきてもいいよ、かくれんぼの好きなレディ」
(ええっ!)
茉理は心臓が止まるほど驚き、そろそろと茂みから出てきた。
「あの、その……」
「僕のことが気になって、こっそり覗き見かい? 君の熱い視線はずっと僕を見つめてくれていたね、嬉しいよ」
「そういうわけじゃなくて」
茉理は顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
「わたしは偶然通りかかっただけですっ。立ち聞きしちゃったのは悪いと思ってますけど、そういうんじゃないんですから」
「ふふ……わかっているよ、隠さなくても君の気持ちは」
雅人はふわっと微笑むと、少女を引き寄せる。
「ちょっ、何するんですか」
叫ぶ彼女の唇に、雅人は人差し指を当てた。
「静かに。薔薇たちの機嫌を損ねてしまうよ。せっかく美しく咲いているのに――彼女たちはね、沈黙と静寂を好むんだ。だから声を立てないで」
「……」
顔を寄せられ、茉理は頬が高揚した。
こんなに間近に男子と接近したのなんか初めてだ。
身を堅くし、俯く彼女の髪を雅人は優しく撫でた。
「こうしてみると思ったより君は可愛いね。帝が夢中になるのもわかるな」
「なっ」
「君は自覚していないんだね。帝の視線は君だけに注がれている。僕は確信してるんだ。きっと君が僕たちのプリンセスになると」
「そ……そんな……」
茉理は声を震わせた。
いつもは思いっきり叫んで暴れるところなのだが、薔薇咲き誇る庭園で貴公子のような少年の腕に引き寄せられていると、そんなお転婆ぶりも発揮出来なくなってしまう。
頬を染め、戸惑う茉理の顎に雅人はそっと指をかけた。
顔を上向かせ、瞳をあわせる。
(な……なんなの、この展開は)
茉理の心臓が、ばくばくと暴れて止まらない。
キスするかのように、雅人は彼女に顔を近づけた。
(や……やだーっ)
次の瞬間。
茉理は感情が爆発し、雅人を突き飛ばしていた。
「いたたた……なかなかガードの固いお嬢さんだね」
「か、からかわないでくださいっ」
甘いムードから逃れると、茉理の中で怒りが燃え上がった。
恥ずかしさと弄ばれてた事実が、彼女をいらだたせる。
「本気じゃないくせに、そんなことしないでください」
「そんなことって?」
しれっと言われ、茉理は必死に次の言葉を探す。
びしっと人差し指で彼を指差し、彼女は叫んだ。
「大体雅人先輩、ちゃんと付き合ってる人がいるじゃないですか。悲しみますよ、山下先輩が」
「……」
雅人は一瞬、無言になったが、弾けたように笑い出した。
「あ……英司のことね、ははははっ」
「笑い事じゃないでしょ。ちゃんと好きなら浮気しないで山下先輩を大事にしてあげてください」
真剣な茉理に、雅人は笑いが止まらなかった。
「な……何が可笑しいんですか」
「いや……くくく……ごめんごめん」
(そんなにお腹をかかえて笑わなくたって)
茉理は憮然とした。
雅人は笑いながら彼女を見る。
「ますます面白いレディだね。惜しいなあ、帝のものになるんじゃなかったら僕が君をつかまえるのに」
「は?」
「嫌かい? ふふ……でもこれは本気だよ」
「なっ」
茉理の顔が、また真っ赤になった。
雅人は残念そうにつぶやく。
「帝には渡したくないっていうのは本当さ。でも彼も僕にとっては大事な存在なんだよ――この僕自身よりも。だから君を譲ることも出来るのさ」
茉理は、突然の真摯な言葉に声も出なかった。
「と、とにかく」
ばつが悪くなって、茉理はなんとか言葉をつむぐ。
「覗き見しちゃって、どうもすみませんでした。あの、ここでのことは、ちゃんと山下先輩には内緒にしときますから」
勢いよく言って頭を下げると、雅人は笑いをかみ殺しながら答える。
「英司に? 僕が他のレディと密会してたって?」
「……」
「それとも君に想いを伝えたこと? だったらむしろ言って欲しいくらいだよ」
「え?」
「だって彼はね、最近僕に冷たいんだ。だから少しは妬いてくれないと面白くない、だろ?」
ばっちりウインクを決められて、茉理は更に怒りが沸騰した。
(会長といい副会長といい、人の心をなんだと思ってるのよ)
弄ぶようなその態度が、むかついてしょうがない。
これ以上会話したくはなくて、茉理は勢いよく一礼すると庭園を走り去った。




