22
保健室は何時来ても、静かで落ち着いた場所だ。
「あら、どうしたの? 早川さん」
保健室担当教師、三河みちるは微笑むと、入ってきた女生徒を迎える。
「すみません。また少し気分が……」
白く病的な表情を浮かべ、響子はふらっと体を揺らす。
「ま、大変。とりあえず熱を測りましょう」
あわてて彼女を支え、みちるは体温計を出す。
耳にあて、電子音が鳴るのを待った。
(本当に綺麗で絵になる子だわ)
横で彼女を見つめながら、みちるは思う。
やわらかな黒髪はさらさらと腰まで流れ、制服の襟とプリーツはいつもきちんと整えられて一筋の乱れもない。
細身で少し心細げな彼女は、まさしく今時にめずらしい深窓のお嬢様のようだ。
「熱はないようね。また貧血かしら」
「いつもいつも……先生、わたし、大丈夫でしょうか」
悲しそうに少女は俯く。
「帝様からお声がかかったというのに、わたし……こんな風ではとても帝様の婚約者にはなれないんじゃないでしょうか。たとえ選ばれてもあの方の重荷にしかならないような気がするのです」
女の子らしい仕草に、みちるの中から暖かな気持ちがあふれる。
母性本能とでもいうのか、不安げなこの少女を支えて励ましてやりたくなった。
「大丈夫よ、早川さん」
みちるは彼女の肩を抱き、優しく言った。
「あなたは十分素質があるわ。魔力だって、あなたにかなう者などこの学校にはいなくてよ。帝様もそれをよくご存知であなたを候補にされたのでしょう。先生はあなたがきっと帝様のお相手に選ばれると信じているわ。自信を持って」
ベッドに連れて行かれながら、少女は綺麗な口元に薄く笑みを浮かべる。
それが清純というよりは、いささか悪魔的な笑みであったことにはみちるはまったく気付かなかった。
『――というわけでね』
「なんか信じられないんですけど」
駅のホームで、斎は手のひらの蛙を茉理に見せていた。
日直の日誌を提出して帰りが遅くなった茉理と、斎は偶然ホームで出会ったのだ。
『信じるもなにも、ほら、これ』
「ほんとだ、ちゃんと薔薇の花、咥えてる」
茉理はふふっと笑った。
「ほんとの蛙は薔薇なんか見向きもしないもんね。間違いなくこれ、雅人先輩だわ」
「げこげこげこっ」
蛙が薔薇を口から離して叫ぶ。
「あ、そうだ」
茉理は思いついた。
「ね、蛙でも頭の中は雅人先輩でしょ。だったらあれ出来るんじゃないかな」
『あれ?』
「うん、思念会話。遠野君とは言葉を交わせないかもだけど、わたし、こないだ雅人先輩と思念会話が出来たんだよね」
『そうなの?』
「そうですよね、雅人先輩」
『覚えてくれていたんだね、レディ』
蛙はぴょこんと茉理に飛びついた。
『君の記憶の片隅に僕の存在があるなんて! それが確認出来ただけでも僕は今、幸せでいっぱいだよ。ああっ、蛙になったこの身を一瞬前までは後悔していたんだけど、こうして僕の気持ちを受け止めてくれる可愛いレディに会えるなんて、僕はなんて幸せな蛙なんだ』
「……とんでもないこと、思いついちゃったかも」
頭の中に延々と響き渡るセリフにうんざりして、茉理はため息をつく。
側で斎がくすくす笑った。
『あ、電車、来た』
「ほんとだ。じゃあ遠野君、また明日ね」
茉理は手を振ると、自分の家に向かう電車に乗り込む。
人ごみに紛れ、見えなくなる彼女を目で追いながら斎は心が高鳴るのを感じた。
(こんな風に誰かと挨拶できるなんて、夢みたいだ)
誰かに手を振られて、じゃあ、また明日、と言ってもらえるなんてことは思ってもみなかった。
(後野さんのおかげで、僕も少しずつ変わってきた)
彼女と関わるようになってから、世界が広がったというかなんというか。
満ち足りた思いでホームを去り行く電車を見送る。
そんな彼を雅人がえるは目を瞬かせ、手のひらの上からじっと見つめていた。
人気のない保健室で、直樹は三河みちる教師と向き合っていた。
あいかわらず彼は黒眼鏡をかけ、無表情で座っている。
「早川さん、最近よく来るのよ。元々体が弱い子なんだけど、エントリーされたこともあって緊張してるみたいね」
みちるはそう言うと、直樹をじっと見た。
「彼女を推薦したのはあなただと聞いたわ、直樹君。やはり早川さんの資質に期待してのことでしょ? 彼女がクリスティ本家を将来背負う帝様には必要と思ったから」
「まあ、そういうことになるのかな」
表情を崩さない彼の落ち着いた声に、みちるは気おされまいと姿勢を正す。
「これは個人的な意見だけど、早川さんは本当にいい子よ。少し健康に注意しないといけない部分もあるけれど、直樹君が彼女をよく支えてあげて欲しいの」
「……」
「例の一件、さっき早川さんから聞いたわ。自分でも止められなかったと言ってた。泣きながらベッドの中で」
「先生に彼女が話したんですか」
「そうよ。あんなことしてしまったのを彼女自身も後悔していたわ。でもどうしても、あの子を見てたら止められなかったって」
「そうですか」
「後野茉理さんはどなたがエントリーしたのかは知らないけど、わたしも正直あんまりだと思うわ。だって彼女、魔力がゼロなのよ。おまけに有力な魔族の親戚もいない。まったく普通の少女――そんな子がどうして帝様の候補に挙げられたのか、理解に苦しむわね」
「そうでしょうね、普通は」
「そんな子と優劣を競わないといけないなんて、早川さんにもプライドというものがあるわ。帝様だって本当は後野さんに乗り気じゃないようだしね。なのに誰かの強引なエントリーによって、嫌々彼女を候補者にしている。帝様を慕う子にとってはたまらないことよ」
直樹はうなずくと立ち上がり、一礼した。
「先生のお話はよくわかりました。俺はこれで失礼します」
彼は背を向けて、保健室のドアに向かう。
ドアを開けしな直樹は振り向き、みちるを見た。
「そうそう、先生。俺は昔、猫を飼ってたことがあるんですよ」
「え?」
「とても人懐っこい奴でして、母は気に入ってたようです。でも俺は数日で嫌いになりました」
「そうなの?」
「母の膝に乗って甘えると必ず美味しいえさをもらえ、遊んでもらえるのがわかっていた。そいつは頭が良い奴で、数日後には俺なんか眼中になくなってしまったんですよ。俺が拾ってやったっていうのに」
「まあ、動物なんてそんなものでしょうね」
「そして母がいなくなると態度が一変したんです。今度は俺に身を摺り寄せだした。本能という奴かな。それが生きるための手段だったんでしょうが……でも俺はもう情が行かなくて、二度と猫なんか可愛がるものかと心に決めたんです。そいつは数日後、俺の開発した魔法薬の実験台になりました」
「まあ、殺しちゃったの?」
あきれて声をあげるみちるに、直樹はふっと笑む。
「俺はそういう男です。人の顔色を伺って取り入ろうとするあの猫みたいな性格は、どうも好きになれなくてね。そういうのを見ると無償に腹立たしくなって、実験台にしてやりたくなるんですよ」
みちるは目をしばたたかせる。彼は一体、何の話をしているのだろうか。
「では先生、失礼します」
「あ……気をつけてね」
間の抜けた返事を返し、みちるは直樹が出て行くのを見送った。
(なんなのかしら、猫なんて――わたしは早川さんの話をしてたのに)
予想外の彼の反応に、みちるは内心苛立っていた。
(もう! もう少しエントリーのことに気を使ってあげたっていいじゃないの。まったく男の子には、女の子の繊細な気持ちはわからないものよね)
彼女の脳裏に、先ほどベッドで響子が見せた心細げな姿が浮かぶ。
「先生、わたし……先生だけしか話せる人がいないんです。こんなこと……」
「そんな、早川さん――」
「クラスのみんなも、人よりたくさん魔力があるせいで恐れて近寄ってこないし。たまに声をかけてくれる人はみんな、わたしの魔力と頭脳を利用したいがためにお近づきになろうとする」
「そんなことないわよ。みんな、あなたの才能をうらやましいと思ってしまうだけ。きっといつか本当に貴方を理解してくれる人に出会えるわ」
「だから私、どうしても帝様のお側に行きたいんです。だってもうこの学校にわたしを理解してくださる方は、帝様と生徒会の方たちだけしかいないと思うから」
孤独で儚げな天才美少女。
今の響子は、みちるの目には十分に悲劇のヒロインに映った。
(大丈夫よ、早川さん)
赤いルージュを引いた唇が微笑む。
(あなたにはこの泣く子も癒す保健の教師、三河みちるがついているわ。わたしはいつでも貴方の味方よ)
教師にあるまじ態度であることにも気づかず、保健室でみちるは一人、教え子に理解ある先生役に浸りきっていた。
「響子様だわ」
「響子様、さようなら」
「御機嫌よう、また明日」
もう少しで最終下校時刻5時になる。
先ほど保健室に寝ていたとは思えないほど優雅で華麗な足取りで、響子は校門を潜った。
振り返り、横に立つ桜の大木を見上げる。
(大丈夫、この出会いの木の下でわたしとあの方は出会ったんだもの。必ず結ばれる運命にあるのだわ)
形の良い唇が自信ありげに微笑んだ。
「響子様、お待ちしておりました」
高級車が向こうの角からやってきて、響子の前に止まる。
彼女はスカートのプリーツを乱さないよう、ことさら上品に見えるように気を使ってシートに座った。
走り出した車の窓から彼女は手を振り、皇族でもあるかのように微笑んで挨拶する。
「ご機嫌よう、みなさま」
何人かは一礼をし、何人かは御機嫌ようと手を振ってきて、反応の良さに響子はすっかり満足した。
(ふふっ、順調ね。イベントもきっとわたしの勝利で終わるわ。そうしたら――)
自分は晴れて、この学校のクイーンになれる。
そしてゆくゆくは日本にいる魔族の頂点に君臨するクリスティの総帥夫人として、すべてを足元にひれ伏させることが出来る。
(すべてはわたしの思いのまま。ああっ、早くそうならないかしら)
少女は胸を高鳴らせ、未来の自分に酔いしれた。
(お兄様、待っていらして。わたしが必ずお兄様を幸せにしてみせますわ。そのためならどんなことでもしてみせる。どんなことでも……)
胸元から下がった銀のロケットを出し、うやうやしく開く。
そこには彼女と少しだけまなざしが似た少年が写っている。
(愛しい愛しいわたしの君、ああっ、もうすぐお会いできますわ)
響子は何度もロケットにキスをし、また大事にしまい込んだ。
茉理と分かれて数分後。
反対側のホームにも電車がやってきた。
『何も君が電車通学なんてしなくてもいいのにねえ』
雅人がえるはそう念じたが、斎の反応はない。
右手のひらでかえるを包み、斎は電車に乗った。
でも車両では、当然変な目線が追ってくる。
斎は慣れているのか得に気にしてなかったが、雅人は好奇心旺盛の子どもやおばさん乗客のひそひそ声にうんざりして斎のポケットに入りこんだ。
何度か思念を送ってみたが、斎は悲しそうに笑むだけで何の反応もない。
でもきっと彼も一生懸命お返しに思念を送っていると、雅人は信じていた。
『僕の声は届いてるんだろ、君に。僕が受信出来なくても、君は僕の思いを受け取ってくれているよね』
そう送ると、ポケットに小さな指が一本進入してきた。
指はゆっくりと雅人がえるの背を撫でる。
『くすぐったいなあ、わかった、もういいよ』
彼の声に、指はすっと離れていった。
返事が来なくてもかまわずに、雅人は思念を送り続ける。
『どこまで乗るんだい? 君の家にお邪魔するのは本当に久しぶりだね。叔母さんは元気かな。またレモンパイを焼いてくれると嬉しいんだけどね。君のお母さんの作ったお菓子はとても美味だからね。そうだ、今度はローズティーを持って行くよ。そして君の家でお茶会にしよう。とびきり美味しいお菓子を焼いてもらうように今日お願いすればいい。どうだい、斎。いい考えだろう』
指がまたやさしく背を撫でる。
雅人は嬉しくなって、どんどん思念を重ねていった。
『ああっ、本当に君とこうして触れ合えるなんて夢のようだ。君の姿が霧のかなたに隠されていた間、どんなに僕たちは君を待ち焦がれていたことか。それはあたかも美しい人ではないかとうわさを耳にして姫君に胸をこがす、平安時代の若君さながらさ。どんなに清らかで美しい容姿の少年なのかと本当の君を想像し、胸躍らせて待っていた幼き日々――ま、英司と直樹は、がまがえるみたいな顔だったらどうしようって心配してたけどね』
ガタンと電車がゆれ、手すりにもたれた斎の体も左に大きく揺れた。
『おおっと君の側には僕がいるってことを忘れないでくれよ――って、そろそろ着いたんじゃないか』
駅のホームに電車が入り、扉が開いた。
斎は降りると、すぐにポケットからかえるを出す。
『ふう、やっと一息つけるね』
微笑む斎に、雅人は感謝の意を評しようと手のひらの上でピョンピョンと飛びはねた。
斎はホームの時計を見る。
あと15分。
もうすぐ一時間がたつ。
雅人も気づいていた。
『ここで変身が解けたらまずいだろ? 早く君の家に連れてってくれ』
斎はうなずくと、早足で改札を出た。
駅を出ると車が待っており、彼はそれに乗りこむ。
「斎様、それは」
手のひらに乗せられたかえるを見て、運転手は首をひねった。
「よろしいのですか。奥様はかえるがあまりお好きでないから、処分されてしまうかもしれませんよ」
『げっ!』
かえるの頭から冷や汗がたらりと落ちた。
斎は運転手に向かい、静かに首を横にふる。
そうですか、とつぶやくと、運転手は車を発進させた。




