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夏の夜のクリスタルレイン  作者: イリ―


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クリスタルレイン

 目が覚めると辺りは真っ青な世界だった。

 強い赤を見たせいで補色残像(ほしょくざんぞう)が起こっているのだろう。強い色を見たあとに色相環の反対色、つまり補色が残像として見える現象だ。

 幾度か目をしばたき、闇と青の混在する周囲に視線を走らせた。


 暗闇に包まれてはいるが御滝(みたき)(ほとり)ではあるようだった。

 何事もなかったような静寂(せいじゃく)が一帯を支配していた。


 正美(まさみ)島野(しまの)さんが倒れているのを見つけた。

 近くにいた正美に駆け寄って抱き起こす。脇に酷い痛みが奔ったが一呼吸置いて耐えた。流石に折れたかもしれない。幸いなのは正美が気を失っているだけだったことだ。

 正美の名を呼んで頬を軽く叩く。数度繰り返すと目を開けた。正美にも同じように補色残像が起きているのだろう。幾度も目を(こす)った。


「怪我は?」

「大丈夫、それよりも」


 すぐ近くに倒れた島野さんを見つけた正美は、足をもつらせながら彼女に駆け寄った。


「真奈さん、真奈さん!」


 すぐに気がついたことに安心したらしい正美は彼女に抱きついた。島野さんはそれを受け止めるようにして正美を抱いた。

 二人にどういった関係があるのかは知らないが、それは正美がわたしに話したくなったときに聞ければいいと思った。

 わたしは御滝の畔に立った。

 滝から水が落ちていた。

 そこにあったはずのカテドラルは無く、滝壷の底には巨大な穴が残されていた。

 そして、そこにいたはずの兄と桐崎の姿もなかった。


「嘘でしょ…」


 正美が島野さんと支えあうようにしてわたしの隣に立った。

 巨大な穴に水が流れ落ちていく。

 二人がどうなったのかは分からなかった。

 消し飛んだのか、それとも……。


桐崎洋二(きりさきようじ)は八年前に、奥さんと当時二歳になる娘さんを自動車事故で亡くしているの」


 島野さんは穴を見つめながらそう言った。


「彼も私と同じ。失ったものを取戻そうとしていただけ。彼にとってもまたこの世界は大切なものの存在しない世界。そして大切なものを奪った憎い世界だった」

「だからあんなに寂しそうに。そんなことも知らないであたし」

「君が間違っていたわけではないさ。いや、誰もきっと間違ってなどいないんだ。ただ、もしもこうだったら、ああしていたら、そんな後悔が心の底に積もったとき人は逃れようのない苦しみに足を取られてしまうのだろうね。わたしも、いや、みんなそうなんだ」


 あの時、兄と桐崎は何かを話していた。

 赤い光が弾ける瞬間、兄がわたしに振り返って微笑むのを見た。

 兄は決して後悔していなかった。

 きっと桐崎を救いたかったんだろう。自分もまた呪縛に囚われた者として彼を解き放ってあげたかったんだ。それは彼に対しての兄の責任だったのかもしれない。


「お義兄さんたちはどうなったの…」


 語尾が消え入りそうな問いだった。答えを知るべきかどうか、正美も迷ったのだろう。

 この状況はあまりに現実からかけ離れていた。

 夢か幻だったようにも思う。この場所にも水が戻ればきっと全ての出来事が無かったことのように包み込まれてしまうのだろう。

 だが兄は死んでいないような気がした。

 根拠は無いが、不思議とそう思えた。


「きっと生きている。きっと」


 それまで聞こえなかった蝉時雨(せみしぐれ)が一斉に鳴り始めた。


「ねぇ、これ、なにかしら?」


 細かな光の煌めきが周囲の闇に浮かび上がった。


「綺麗…」


 光の粒がダイヤモンドダストのように夜の森に広がっていた。

 星が降っているようだった。

 わたしは降り注ぐ小さな輝きに手を伸ばし

 そっと光を包み込んだ。


 その日、御滝を中心とした広い範囲に細かな砂の粒が降った。

 ただの砂ではない。

 ぱらぱらと音を広げて小さな水晶の粒が降り注いだのだ。


 星屑(ほしくず)よりももっと沢山の光の粒が瞬き降り注ぐ光景は、

 ほんの僅かな時間ではあったが忘れえぬ鮮烈な記憶として目にした人々に語られることとなった。

 人々はあまりに幻想的な光景を後にこう呼んだ。


 ――クリスタルレイン


 そして、その雨が降ることは二度となかった。


 


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