罰と懺悔
正美の視線に強い意志を感じ、彼女を追うことはせずに任せようと判断した。
疑問はないではない。彼女はどういう訳か島野真奈と見知っているようであったし、そもそも何故こんなところにいるのか。
しかし、それよりも今は兄だった。
呆ける桐崎を横目にわたしは兄に駆け寄って抱き起こした。
「兄さんっ!」
腹部に真っ赤な鮮血が広がっている。だが思ったよりも出血は少ないように思えた。
周囲を見回し、布らしきものを探したがあるはずも無い。わたしは急いでシャツを脱いだ。脱いだシャツを折り畳み腹部の傷に当てて強く押さえる。自分の脇腹も痛むがそんなことを気にしている場合ではなかった。心臓の位置が高いのはいけない、そっと兄を横たえて傷口の圧迫止血に集中した。
薄らと開いた瞳がわたしを見た。
「兄さん、なんでこんな…」
わたしの問いに静かな深い一呼吸をおいて兄は言った。
「これは罰さ。彼女の想いを利用したつけが回ってきたというだけのこと……だ」
脂汗が滲んでいる。苦痛に言葉が途切れた。意識は失っていない。思ったよりは傷は浅いように思う。出血さえ何とかすれば大事には至らないのではないかと素人目には見えた。だが、臓器を傷つけている可能性もあるので楽観は出来なかった。
「兄さんがあの人に何をしたかは知らない。でも、もしバチが当たったのならそれはあの人だけでなく、家族やその他の皆も含めて人の気持ちを大切にしなかったことの報いでしょうに。それで死んだところで贖罪にはならない」
兄は口許だけ小さく微笑った。
「厳しいな、言うようになった」
「当たり前でしょう。わたしだってもう三十ですよ。十年も行方を眩ましていた兄さんにとっては二十歳のままかも知れないが、わたしだってこの十年遊んでいた訳でもない。兄が失踪している家庭環境で暮らすのは世間の目だとかもあってそれなりに大変だった」
こんな時だからこそ軽口の方がいいような気がした。問い質したいことだって、この十年溜まった鬱憤や心配だって幾らでも口にしようと思えば出てきそうだった。だが、こうして十年の時を経て触れた兄は思い出の中の兄よりもずっと華奢で小さく見え、怪我のこともあって今責めたてると消えてしまいそうで怖かった。
「十年……。そうだね、あれから十年も経つのだね」
あれから。兄が姿を消したあの日、しかしきっと兄にとってのあれとは沙耶ちゃんのいなくなった日のことだ。
少し起こしてくれないか、そう言った兄の上半身をほんの少しだけ起こして肩を支えた。兄は周囲をゆっくりと見回した。懐かしい風景を眺める郷愁のこもった表情だった。
「なんとか間に合った。これでもう思い残すこともない」
「なにを言っているんだい兄さん。傷はそんなに深くない、手当てすればどうということは無いよ。諦めるなんてらしくない」
兄がわたしを見た。優しいあの頃の兄の目だった。
「そうじゃないさ、元々僕の命はもう長くなかったのだよ」
「え…、なにを言って…」
「僕の脳には腫瘍があってね、悪性のグリオーマ、神経膠腫のグレード4にあたる。余命は精々半年といったところだ。時間がなくてね。だからどんな手段を使ってでもこの証明は完遂しなければならなかった。それが例え島野君や桐崎の想いを利用し踏みにじることになったとしても」
「脳腫瘍だなんて冗談でしょう兄さん。余命が半年? 死ぬって言うのかい? やっとこうして戻ってきたって言うのに」
兄は小さく微笑み、すまないなと言った。
「なんで、なんでそんな」
言葉が出なかった。
再会した兄が今度は本当にいなくなる。そんな話を今この場で聞かされて何が言えるというのだ。
分からないことだらけで次から次へと知らされる事実は、現実や空想の次元を超えて目の前に容赦なく降り注いでくる。どれ一つとして対処も出来ない自分の無力。手出しすら及ばない巨大な真実の奔流に呑まれて流され存在する自分自身のあまりの脆弱さに苛立ちさえ感じていた。
「気に病むことはない。これは全て僕の罪であり、罰なのだ」
兄の手がそっとわたしの顔に触れた。
冷たく、優しい手だった。
「罪とか、罰とか、もう何が何だか分からないよ!」
わたしはもう泣き出しそうだった。理解不能な現実と不安のあまりの重さに耐え切れず押しつぶされてしまいそうだった。
「お前には話しておこう。そしてこれは僕の懺悔でもある」
日記に記された『沙耶を殺したのは僕だ』という一文がフラッシュバックし、なにか嫌なものが身体の中に生まれるのを感じて体が強張った。
兄は目を閉じて話し始めた。




