伝承
「そんな馬鹿な、死後に別の世界が存在するって?」
この世界は本のようなものだと兄は言った。
その言葉は朧気にどこかで聞いたことのある言葉のような気がした。
「そこでは普通に人々が生活しているってそう言うのかい? だから生きた沙耶ちゃんがいる世界が別に存在するだなんて、そんなの多世界解釈じゃないか、どうかしてる。だからってそんなの死を納得する理由になんてならないじゃないか」
動揺に声を荒げるわたしに対して、兄は変わらず凪いだ水面のように静かで奇妙なアシンメトリーを生み出していた。
「それは違う」
兄は小さく首を振る。
「お前は多世界解釈と言うものを勘違いしている。そもそも多世界解釈というのは世間で言われるようにある地点で分岐が存在し、観測者がどちらを選んだかで世界が分裂をする、というようなものではないよ。宇宙的規模で見た場合には、観測者自体も相対状態に含まれ、元々それぞれにどちらかを選択する観測者がいるというだけだ。世界が相対状態であるということ以外に僕達が知ることの出来るものは今のところ無い」
例えば、一般によく知られる多世界解釈ではわたしを観測者とした場合、事故の時点で沙耶ちゃんが死んだ世界、沙耶ちゃんの死ななかった世界の二つに割れる。
どちらに属するかで世界は確定し、もう一方は可能性としての別世界となり構築され、それを繰り返して世界は数多のパラレルワールドを形成していく。
だが兄の言っているのはそれとは話が違うようだった。
沙耶ちゃんが死んだ世界、沙耶ちゃんが生きている世界、どちらにも観測者としてのわたしが存在しているというのだ。つまり観測者を軸とした解釈そのものが間違っていて、宇宙的規模で見れば観測者自体すでに複数の可能性の一つとして存在しているという話だ。
結果、分岐など存在せず、全てが全ての可能性を内包したまま並列して存在していると兄は言っているのだった。
「じゃあ、兄さんは沙耶ちゃんが別の世界で今も生きているって言いたいのかい? でもそれは別世界という時点でもう」
「半分は正解だが半分は違う。僕は多世界解釈ではないと言っているのだよ。
あくまで僕の言う世界は未来という方向に存在し、死を境としてそちらに進む。そして僕らの世界も連綿と続く世界のほんの一端だと言っているのだ。
現世という舞台で様々な出来事が魂を研磨する。研磨された魂は死という段階を経て次の舞台へと進む。解釈の仕方としては輪廻転生が近いのかもしれないが、死した魂はこの世には戻って来ないという点で大きく違う。とはいえ死した先はその魂にとって現世だがこの世の生者からすればあの世とも言える点で誤解も多いだろうがね。
お前は覚えているかい? 僕たちが幽霊なのかもしれないと話したことがあるのを。つまりはそういうことさ、僕ら自身もまた前の世界の研磨を終えて死を境にこの世界へと移ってきた魂の一つだということだ。
前の世界は前世と言い替えることも出来るかもしれないが、先も言った通り前世といってもこの世界の過去という話ではない。そして、前の世界から見ればあの世ともいえる現世に生きる僕達が歪みを超え別の世界から認識されたとき、この世界で言うところの幽霊として認識される」
彼らのようにね、と兄は両手を広げた。
周囲には破損したデータのような不完全な半透明の人の姿が幾つも投影されていた。
「お前は彼らを見てどう思う?」
わたしはひとつ深呼吸をして心を落ち着けて答えた。
「少なくとも幽霊なんてものではないと思ったよ。彼らはわたし達を認識もせず、ただ生活している。理屈は知らないが桐崎の実験による大規模な立体映像の投影、そう思った」
兄は満足そうに微笑んだ。
「この地には古くからの伝承がある」
もう残ってはいないがね、兄は言った。
「生霧神社には伝承が残されていたようだが、その多くは口伝で伝えられ、先代が亡くなった折に途切れてしまった。それまでの口伝も過去の宮司の急死などで多くが伝わらなかったようだ。伝承にまつわる物も多少残ってはいそうだが、それら単独での伝承の読み取りは難しいだろう。その中の一つが古い屏風絵だ。お前も見たことがあるだろう?」
屏風。
生霧神社には昔から神楽舞の時期になると神社の奥から引っ張り出して使われる屏風があった。薄気味の悪い絵だったので子供には敬遠されていた通称・オバケ屏風。だが、今にして思えばその絵に描かれた様子と今の周囲の状況には妙な重なりを覚える。
「僕は先代とよく関わっていたので沢山の話をした。あれは伝承を元に江戸末期に描かれたものらしい。そしてあの絵の示すものは過去に起きた実際の出来事だ。先代は本気にしていなかったようだがね。話の概要はこうだ。
ある盂蘭盆会の夜、雷鳴を伴ったにわか雨が村を襲った。だが村人はよくあるにわか雨だと気にも留めずにいた。すぐに通り過ぎる雨よりも、先祖の霊や神様への感謝の方が重要だったからだね。ところが次の瞬間、山の方で大きな落雷が起こった。するとどうだ、周囲にはあっという間に霧が広がり、その霧と共に死者の霊が這い出てきた。村人は混乱し、逃げるもの、家屋に籠るもの、その場で座り込み拝みだすもの様々だった。
しかし、それは長く続くこともなく、霧が晴れると共に辺りは何事もなかったかのように元通りになったという。
その伝承を描いたものがあのオバケ屏風なのだそうだ。あくまで伝承だが、何故そんな伝承が伝えられ後の世に残されたのか、という意味はここまで話せばお前にも理解出来るだろう」
「起きた出来事が現実であると後の世に警告するため、だと?」
あくまで仮定ではある。だが、兄の言葉も踏まえて考えると現在の現象に関しての説明も出来るような気がした。偶然の落雷による影響が現象の引き金だとして、桐崎の実験で発生した膨大なエネルギーが、かつての落雷と同様の役割となってこの現象を引き起こした。霧はその大きなエネルギーに反応した水が分子間の振動か何かで一斉に霧となったもの、とも考えられる。
そして、そのエネルギーで兄が言うもう一つの世界が近付き――重なるというほうが近いだろうか、それがまるで立体映像のように周囲に投影された。
現代のわたし達ですら混乱するのであれば、科学の知識のない過去の人達には幽霊や化け物といった類のものと認識されただろう。
その時、滝壷に更なる変化が起こりはじめた。
これまでよりも強い風が巻き起こり、わたしは手を翳して顔を守った。
「始まった」
兄はそう呟いたようだったが、遠くから口の動きがそう見えただけだ。
滝壷は渦を巻きながらその水を淵へと押しやり始める。
淵から立ち上がった水網は上空に立ち昇り、霧へと変化するや否や巻き起こる風に吹き散っていった。
上流からの流れもまた巻き上がる風に呑まれて吹き散らされていく。
次第に水は失われて滝壷が枯れようとしていた。
水の失われた滝壷の底から何かが姿を現そうとしている。
強い光をその内側から発し、まるで貝殻の内側のようなぎらついた輝きをそれは放っていた。
滝壷の底にあったのは大きな水晶の塊、その一端だった。
ドームのような半球状の姿が見える。
そして、それを見たわたしはこれが最後の鍵だと気が付いた。
全ては水晶が引き起こしたことだったのだ。
嘗ては落雷のエネルギーの媒介となり、今に措いては桐崎の実験による水晶共振を経て空間に干渉している。
恐らく、兄は知っていたのだ。
そもそもこの地には特殊な水晶が存在し、その性質ゆえに特殊な現象が起きる地であると。
だが待て。
そうだとして、兄は何をするつもりだ?
嫌な予感がわたしの中で大きくなっていくのを感じた。
「まさか、兄さん! 兄さんがやろうとしているのは」
空間に細かな波紋のような歪みが生まれ始める。
そして
兄が嗤った気がした。




