呪縛
森を抜けた。
目の前には滝壷が見える。
左手には御滝の落水。右手に村へと続く流れ、先日わたしが腰掛けた岩が見える。
そして、対岸、滝壷の向こうに人影があった。
白い半袖のシャツから出る手をズボンのポケットに差し込み、水の落ちる滝を眺めている。
髪は真っ白になってしまってはいるが老け込んだ様子の無い背筋は真っ直ぐに伸び、印象はあの頃と何ら違わない。
兄が、そこに居た。
「兄さん…。本当に、兄さん…」
わたしはふらふらと水辺まで進んだ。
辿り着いたところで兄は居ないかも知れない、と疑う気持ちはあった。
そこに居るという思いよりも強かったかも知れない。だが、現実に兄は居た。
あの頃のように御滝のほとりに静かに佇んでいる。
もしかしたらこれは夢で、次の瞬間には全部無かったことになって目が覚めるのではないか、そんな不安もない交ぜになった感情に包まれた。兄さんと叫びたかったが叫んだ瞬間に全部が掻き消えてしまう気がしてできなかった。
そうやって呆然と立ち尽くすわたしに気が付き、兄が振り向いた。
兄との交錯は一瞬のような、長久のような時間感覚の狂いを感じさせた。
眩暈のように視界が歪みそうになる。心音だけが聞こえているようでどくり、どくりという血の巡りと共に耳鳴りがした。
「久しいな。元気そうだ」
懐かしい声だった。
十年ぶりの兄の声はあの頃のように静かに、それでいてやけに鮮明に耳鳴りをすり抜けて届いた。だが、父や母、自分も含めたこの十年の苦悩を比ぶれば、あまりにも軽く無感情な言葉にわたしは俄かに怒気が湧き上がった。
「久しいなだって? それだけですか? 兄さんはこの十年わたしたちがどれだけ心配して、どれだけ苦しんだのか分かっているのですか! もしかしたら何かがあったかも、どこかで辛い思いをしているのじゃないかと胸を痛め続けて――」
「だから僕は、二度と会わないつもりでいた」
「な、なん…」
「会わないつもりだったと言ったのだよ。僕は会う気など無かったのに、お前はここに来てしまった。どうして来てしまったのだろう。ここで会わなければ薄れ消え行く記憶と共に悲しみも癒え、全ては懐古としてそれぞれの記憶を補完していたというのに」
そう言って兄は再び滝に視線を向けた。まるでもうわたしのことなどどうでもいいとでも言うように。
そんな兄の言動にわたしの怒りは噴出した。
「だったら、だったら何故兄さんは帰って来たんですか! ここへ戻りさえしなければ会うことは無かった。そうすれば兄さんの言うように兄さんは過去の人としてわたしだって納得することも出来たでしょう。違いますか――」
違う。わたしが言いたいのはそんなことじゃない。やめろ。
「――兄さんこそ戻って来なければよかったんじゃないですか! 消えてしまって戻らないなら、いっその事そのままでいればよかったんだ! 何故戻ってきたんですか? どこかで生きているという望みと共に、どこかで死んだという諦めに折り合いを付けるにはまだまだ時間が必要だった!」
暴走する感情が止まらなかった。
こんなこと言いたくないのに。
会えて本当は嬉しいのだと、安心したのだと、そう伝えたいのに。
「あなたこそ、ここへ帰ってくるべきではなかったんだ!」
そこまで言ってわたしはようやく止まった。だが、全身を支配する後悔の興奮は全身を震えさせ、ひたすらに呼吸を乱す。目頭は熱を帯び、不規則な呼吸は強く意識しなければ安定を保てないほどだった。
わたしは何を言った?
わたしが兄に伝えたかったのはこんなことではなかったはずなのに。心臓が張り裂けてしまいそうだった。
そんなわたしの言葉に兄は深沈として目を伏せた。
「そうだな。お前の言うことには一理ある。だが」
そういう訳にもいかないのだ、と兄は呟いた。
「今日この日、この時の為だけに僕は甘んじて生きてきた。そして漸くすべてが終わる」
その時だった。周囲に更なる異変が起きた。
水面がにわかに騒がしく波立ち始めた。
波は次第に高さを増しながら剣山さながらに立ち上がり、無数の水音が広がっていく。そして、淵に近い幾筋かの水が、中空へと立ち昇り始めたかと思うと滝壷の上に水網のドームが形成された。その水の流動が生き物の胎動のようにも思えてわたしは恐ろしくなった。
「兄さん…なんですかこれは…。あ、あなたは一体なにをしているのですか……」
わたしは茫然とした状態でなんとかそう問いかけた。
兄は水網の向こうで何に動じる様子もない。
「なにも。なにもしてはいないさ。僕はただ待っているだけだ」
水晶を使った新エネルギー生産にはじまり、周囲に満ちる霧、幽霊の如く現われる人々、空間に溯る水の様相、全てが常識外れのファンタジーのようでまるで現実感に乏しい。
そんな茫洋とした空間の中で、兄だけは異様なほどの現実感をまとっている。
だが、それは逆に、繰り広げられる未知の現実世界の中で浮かび上がる異物とも見えた。
兄はただ、その場に静かに立っていただけだ。
お前には話したことがあったね、と兄が言った。
「僕は『死』というものが怖いんだ」
遥か昔に聞いた言葉。
あの夏の日のシルエットが脳裏に浮かび上がる。
夢で見た時のようにわたしと兄は滝壷を中心にシンメトリーを描き、向かい合っている。
あの夢と違うのは兄がわたしに向き合い言葉を交わしていることだ。
しかし、対岸から向けられた視線は木漏れ日のような嘗ての優しい兄のそれとは異なる冷たいものだった。
「兄さん、あなたはなにをしようとしているのですか?」
目にしている光景は常識というものを大きく逸脱している。
まるで悪い冗談のようだ。なにもかもが偽りで積み上げられた張りぼてのようで苛立ちが湧き上がってくる。真実が欲しかった。
「何なんですか! 何のために兄さんはこんな」
「人を死という呪縛から解き放つ為に」
兄はそう言った。
人を死という呪縛から解き放つ?
何を言っている? 人が死なないようになるとでも言うのか。それとも人が甦るとでもいうのか。
「そんなこと出来るはずが――」
「ない、と思うのはお前たちが呪縛に捕らえられているからだ。だからこそ僕はその呪縛からお前を、皆を、そして僕自身も解き放ちたいのさ」
そして今夜すべてが終わる、と小さく微笑んだ。
「終わる?」
「そう、終わる。そして人は死の恐怖から解放される」
「いったい何を言っているのさ、兄さん。何も分からないよ。そのことと兄さんが居なくなったことと、この状況と、どんな関係があるって言うんだい。死の恐怖とか開放とか、そんなことどうでもいいんだ。頼むよ兄さん、わたしも父さん母さんもただ兄さんに――」
「お前は受け入れられるのか? 今この瞬間に地球のどこかでは多くの人が死んでいる。だが、お前の心は然程痛むことはないだろう。それはその死が遠く自分には感じることが出来ないからだ。しかし、その死に関わる多くの人々、恋人、家族、友人、そんな死者との縁を持った人々の痛みや苦しみ、悲しみは確かに存在する。それは形を変えてお前の元にもやって来る、来ている。
思い出せ、お前もこれまで多くの死に関わってきたはずだ。その死がお前と近ければ近いほどに強い痛みと苦しみと悲しみ、喪失感を味わっただろう」
脳裏に数多くの死の風景が浮かぶ。
親戚や、上司や、友人。
モノクロの哀しみに重なる鐘の音と読経、線香の香り。
そして、遺影。
祭壇に掲げられた笑顔が次々と切り替わり、最後に残ったのは沙耶の微笑みだった。
「お前は受け入れてきたのだろう。仕方がない、何も出来ないと打ちひしがれて諦めて、満足だったに違いない、辛かったに違いない、死した感情に理由を付けて納得させてきたのだろう。それが理なのだと諦めてきたのだろう」
他に何が出来る?
失われてしまったのだ。
死んでしまったのだ。
死んでしまったのですよ、兄さん。
「他にどうしろと言うのですか兄さん! だって、だって沙耶ちゃんは死んでしまったのじゃないですか!」
兄もわたしも始まりはそこだった。
一瞬の静寂。
それが呪縛なのだ、と兄は言った。
「沙耶は生きている」
お前の呪縛を解いてあげよう、そう兄は囁いた。




