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夏の夜のクリスタルレイン  作者: イリ―


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地蔵の小道

 霧の中をひたすら進んだ。

 自分が施設のどこにいるのかは判断できなかったが、(さいわ)い道は一本道であった。

 常にあちこちに投影される人々が溢れ、歩き回っているのが見えた。そして時折、叫び声と桐崎の社員らしき影が走り去る様子も窺えた。

 この状況はわたしにとっては幸いであった。

 セキュリティの網に妨害されることもなく容易に車のある場所まで辿り着くことができたからだ。この混乱がなければわたしは施設から出ることなど出来なかったことだろう。

 車に乗り込むとエンジンをかけて、桐崎たちの向かったと思われる御滝(みたき)への道を追うように走り出した。

 だが、その道程は決して容易いものではない。道は狭く、周囲には深い霧が満ちている。一歩間違えば道を外れて滑落する危険も充分にあった。そうなれば元も子もない。わたしは脇腹の痛みが集中を邪魔しようと(うず)くのを、唇を噛んで耐えながら前方の霧と道の境界を見誤らぬように意識を向けた。

 桐崎たちも同様の状況下で車を走らせている。ならばまだそう遠くまでは離れていないはずだった。

 彼らは恐らく道をそのまま下り、村まで出た後、再度川を徒歩で遡る道を選ぶだろう。御滝には車では行けない。同じ道を通っても追いつくことが出来ないのは明白だった。


 だが、わたしの記憶が確かであればもう一本の道がある。

 幼い頃の記憶だから今その道が使えるものか分からないが、追いつくにはその道に賭けるしかない。そこを通れば村を回るよりも遥かに早く御滝に辿り着くはずだった。

 その道の入口は、この山道沿いだったのは覚えている。目印があったはずだ。


 わたしはその目印を見逃さないように意識を集中した。現われては消えていく風景の中にそれが入り混じるのは一瞬のことだからだ。時折現われる人影に惑わされないようにもしなければならない。

 その直後だった。

 ヘッドライトの先に少女が立っているのが見えた。

 どうせ幻覚だ、わたしはそのまま走り抜けようとした。


 だが次の瞬間、少女は――

 わたしを見た。


 驚いてブレーキを踏んだ。

 慌ててハンドルを切ると車は砂利道を滑り、眼前に迫った土壁の直前で止まった。

 ヘッドライトの光に照らされて、小さな祠が霧の中に(たたず)んでいた。

 わたしは車を降りて辺りを見回したが、どこにも少女の姿は無い。目が合ったと思ったのは勘違いであったのか。

 (すんで)のところで車は止まっていた。

 激しく動悸(どうき)する胸を撫で下ろし、木造の小さな祠の中にいる地蔵に謝罪を込めて手を合わせた。地蔵の首には赤い前掛けが下がっている。錫杖(しゃくじょう)を右手に持って微笑んでいた。


 おや、と思う。

 わたしはこの地蔵に見覚えがあった。

 森の方へと振り返ると霧の切れ目に小道が見えた。手入れをされた様子は無く、茂みに埋もれかかってはいたが間違いは無い。ここが御滝へと続くもう一本の道である。


 わたしは車をその場に乗り捨てると、鬱蒼(うっそう)と茂る小道へと入っていった。

 小道には上から圧し掛かるように小笹などの茂みが侵食していて酷く歩き難い。その上に先日の雨の名残は腐葉土(ふようど)に確りと溜め込まれていて足元を濡らす。そして、この視界を埋め尽くす霧だ。状況は最悪といえる。それでも辛うじて見える道を辿って掻き分けて進んでいった。

 日が(かげ)っていても纏わりつくような湿気と気温は珠のような汗を噴出させる。道とてどれほど進んだものか、きっと思っているよりも進んではいない。

 茂る藪や木の枝を掻き分け進むのは想像以上に困難だった。それでもここまで何とか歩けたのは道らしきものを辿ってくることが出来たからである。

 その道が消えた。

 長年の侵食と森の生命活動が、手入れのない道を消し去るくらい造作も無いことなのは想像に難くない。周囲を見回しても目印になるようなものも無く、何が何だか分からなくなっていた。周囲は手入れもされていない森なのだ。茂る羊歯(しだ)などの草に埋もれ、深い霧にどっぷりと浸かっている。更に日が落ち、周囲はもう夜の足音で満たされてきているのだ。


 最早なにも見えず、何を頼りに進むべきかも分からない。

 耳を澄ましても聞こえてくるのは、この森に住まう何十億といるのだろう小さな住人達の声ばかりだ。

 昔にも同じようなことがあったと思い出す。あの時は蝋燭(ろうそく)の灯りが見えてそこに兄がいた。だが、今は立ち込める霧ばかりで周囲に何も見えない。

 携帯電話があったのではないか?

 わたしは医務室から出るときに戻されていた携帯を思い出し、ズボンのポケットから引っ張り出した。この辺りは村からそう遠いわけでもないし桐崎の施設もある。

 アンテナぐらいは立つだろうと思った安直な希望はあっという間に打ち砕かれた。携帯は一切の操作を受け付けなくなっていた。画面を触れても反応しない。しかも、刹那(せつな)映ってもノイズのような乱れが差し込み、ろくに画面を見ることも出来ないまま消える。


「実験の影響か…?」


 わたしはこの一体に起きている状況を反芻して、携帯が意味を成さないことに思い至った。

 そもそも強力なエネルギーの流出が発端で、この異常な状況を生んだのは間違いない。そんな環境の中で、たかが携帯の電波が干渉も受けずに正常に動くほうが脅威だ。目にこそ見えないが原子レベルで見たならば、この辺りにはきっととんでもない量の粒子の動きがあるのだ。

 生身で平気なのか懸念さえ浮かぶレベルだろうが、心配したところで既に手遅れだ。人体への影響が無い事を祈るばかりである。


 ふと空に目を向ける。

 もちろん空は霧に包まれて見ることは出来ない。出来ないのだが、ほんの一瞬何かが見えた気がした。

 物質ではない。(うっす)らとした波紋のような光だ。

 眼を凝らして何となく感じる程度のものではあるのだが、もしかしたらエネルギーの動きが霧にその残滓を残しているのかもしれない。

 動きは左から右へと流れているようだ。流れの起点が施設ならば向かう先に御滝がある。わたしはそう考えて歩き出した。


 その時、同じ方向へと前を進む小さな影が見えた。

 少女の後ろ姿。

 先刻、車で見た子かもしれない。

 わたしはその背中を追うようにして茂みを掻き分けて進んだ。


 それから暫くして少女の姿を見失った頃、じめじめと張り付いてくる湿度に満ちた空間が途切れた。

 霧が薄れてきていた。微かにではあるが風の流れを感じる。風に流されているのだろうか、視界が広がってきた。


 水の音、否、滝の音が耳の端に聞こえてきた。御滝は近い。

 この先に兄が居るのかも知れない。

 会ってどうする?

 何を言う? 

 言いたいことはこの十年で幾らでも浮かんだ。

 どこにいた、何をしていた、何故連絡を寄こさなかった、心配したんだ、結婚するんだ、元気そうだ、無事でよかった、どんな気持ちでいたのか、細かいことまで含めればそれこそ限りが無い。

 しかし、思い返せばどれもそれほどの価値を持たない言葉のようにも思えて、結局頭の中は真っ白になった。


「もうどうでもいい」


 理屈など成り立たない異常な状態でまともに考えるだけ無意味な気になり、わたしは一歩、また一歩と水の落ちる音に向かって踏み出した。



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