初めての許し
真奈さんはあの頃と変わらない真奈さんではあったのですが、だからこそ違和感のようなものも感じていました。
当然あの頃よりも歳は経ていますがその立ち居振る舞いも、微笑みも、視線も、声も匂いも、記憶の底にある真奈さんのものです。それはそうなのですが。
「おでこのそれ可愛いわね」
真奈さんがそっと石に触れます。
「覚えてますか? 真奈さんがあたしに初めてくれた石」
「そう、そうだったかしら。でも大切にしてくれているのね。嬉しいわ」
再会の余韻に浸る間もなく、真奈さんは言いました。
「正美ちゃん、積もる話もあるけれど今は行かなければならないの」
どこへと問うまでもなくその視線は霧の先、御滝のある方角へと向けられていました。
「あたしも行きます」
「だめよ、詳しい話は出来ないけれど、これはとても危険なことなの」
「それでもあたしは行きます。行かなくちゃいけないの」
真奈さんは諭すようにあたしの目を見ます。
「正美ちゃん、あなたは今何が起きているか分かっていないかも知れないけど――」
「わかってます!」
あたしは霧の中に紛れていた幾つかの影を次々指差しました。
『彼ら』です。『彼ら』は変わらず周囲に存在していました。
「さっき急にです。急に霧が広がってきて、それと一緒にあれが皆にも見えるようになってしまった。村は大騒ぎです。あたしはその原因を突き止めに行くんです。行かなければならないんです。だって、あたしを呼んでいるから」
あたしは真っ直ぐ真奈さんの目を見返しました。
「あなた今、皆にもって…まさか」
あたしは答えませんでした。真奈さんは少しだけ考えるようにして目を閉じます。
「わかったわ、一緒に行きましょう。ただし一つだけ約束して、身の危険を感じたら何があっても自分の身を守ることだけを考えて」
いいわね、と念を押した真奈さんの気配には逆らえない圧力のようなものがあり、あたしは黙って頷きました。
それからあたし達は霧の中を進み始めました。真奈さんはこの霧の中でも躊躇がなく、まるで土地勘があるような歩調で進みます。
「真奈さん、ここにはずっと?」
「いいえ」
「でも、まるで知っているみたい」
真奈さんは小さく笑って指を差しました。その足元のぬかるみに誰かが通った足跡がくっきりと残っていました。先程感じた気配。やはりさっき誰かが駆けていったのは勘違いではなかったようです。真奈さんはその足跡を辿っているようでした。
「この跡を行けば安全でしょ」
一瞬だけ振り向いた真奈さんはいたずら好きな子供のような笑顔でした。
誰かが通った跡は多少歩き易いとはいえ、奥に進めば羊歯や苔も鬱蒼としていて、ともすれば泥濘に足を取られそうになります。
川の脇を進んでいるのは左手に水の音が聞こえているので分かりました。しかし、日も落ちてきて薄闇に包まれて自分がどこにいるのかも分からなくなってきます。
それでも真奈さんの背中が見えていると、不思議と怖くはありませんでした。怖くは無かったのです。ですが、何と表せば良いのか分からない不安のようなものをその時のあたしは感じていたのです。
「正美ちゃん。あなたいつから?」
それが滞在を訊いているのではないことは分かりました。
真奈さんはあたしがいつから『見えて』いるのかを訊いているのです。
躊躇はありました。しかし、それも今は意味の無いことなのです。
「最初は幼稚園のときです。でもこのことは親も、誰も知りません」
「誰も?」
あたしは無言で頷きました。
怖かった。自分が他人と違うことがたまらなく恐ろしかった。拒絶されることが怖かった。
だからあたしは誰にもこの事は言わずにいたのです。たとえ秘密を抱えることが苦しくとも、自分だけが我慢すれば皆と同じ場所に居られる。その方が阻害され忌みもののように扱われるよりも遥かにましでした。孤独の暗闇に取り残されるよりも安らかでいられたからです。
それでも、恐怖はずっとあたしの中で燻り続けていました。もし判断を誤れば、あたしの中の燻りはあっという間に燃え上がり、業火となって身も心も焼き尽くすほどに。
あたしはこのことを遂に話してしまいました。そう思うと急に自分はとんでもないことをしてしまったのかも知れないと思えて、震えが身体の奥から広がっていくのを感じたのです。
真奈さんはこんなあたしをどう思っているのでしょう。
怖い。
もしも真奈さんの瞳に宿るものが侮蔑や忌避であったなら、あたしは、あたしは……。
叫びだしそうになる程の恐怖にあたしは立ち止まってしまいそうになりました。
真奈さんが立ち止まり、少しの間をおいて振り返りました。
「正美ちゃん。。。辛かったでしょうね。たった一人でそんな重いものを抱え込んで。誰にも話せず、誰にも支えてもらうことも出来ず、誰ともわかりあうことが出来なかった。恐ろしかったことでしょうね。自分を否定されるかもしれない世界に嘘を吐き続けることは」
その瞳に浮かんでいたのは侮蔑でもなく、忌避でもありません。
そこにあったのは労りと、哀しみと、優しさでした。
「これまでよく頑張ったわね。私はあなたを否定したりなんてしない。だから大丈夫。もう我慢しなくていいの」
真奈さんは泣いていました。
あたしの為に涙を流してくれていました。
その時、初めて
あたしは許されたのだ、そう思いました。
そう思うとまた涙が溢れ出し、我慢できなくて声を出して泣きました。
真奈さんはそんなあたしを再び抱きしめてくれます。
今度はもっと力強く、しっかりと。
まるで全身に染み付いていた黒く重い影が消えてゆくようでした。




