霧の中の存在
「なんだ…これは?」
辺り一面、奇怪な紫色で包まれている。
周囲の風景が見えず、何かが全てを覆い隠しているようだった。
後ろから息を切らせた財前医師が追ってきた。
「先刻から急にこんなことに。一体何が起きているんだ?」
よく見れば財前医師も額から汗を流し、肩で大きく息を乱している。ずっと走っていたようだ。
「これは、霧か?」
霧が周囲を取り囲んでいるのだった。夕暮れの光を取り込んで斑な赤紫の色が広がっている。なんだか異世界に飛び込んだような奇妙な感覚を覚えた。
「急にだ。だが問題は霧じゃない」
「問題? 何があったんですか?」
「どう説明すればいいのか。あんなもの」
それだけ言って財前医師は押し黙ったがその様子は明らかに動揺している。
何か見てはならないものを見たような恐怖の表情に近い。
「一体どうしたんですか? まるで死人でも見たような顔をしていますよ」
「死人? 死人か。いや、幽霊など」
「幽霊?」
「いや、そんなはずはない。だが説明できんものがこの霧の中にいるんだ。もう施設内部は混乱して機能していない。そうだ、社長。社長はどうしたんだ」
「今さっき出て行きましたが、会いませんでしたか?」
「今さっき? まさかさっきの車の音が」
行き違ったのだろう、この濃霧の中ではおかしな事でもない。それ程この霧は深く一帯を覆い隠してしまっている。
「こんな中に車で…」
絶句する財前医師には申し訳ないが、わたしにも時間が無い。
「先生。わたしの車も回収してあると言ってましたよね」
「車なら君が休んでいたA棟のすぐ脇に置いてあるが、まさかこの中に行こうというのか! 止めるんだ。只でさえこの霧、しかも君は怪我人だ。それに今この中には――」
財前医師の言葉が途切れた。
その視線は霧中に向けられ、震える指先がそれを指差した。
わたしはその先を辿るようにして霧の方へと目を向けた。
霧の中に人がいた。
スーツ姿の男性のようだ。社員の誰かかと思ったのは一瞬で、それが明らかに人では無い事をわたしはすぐに理解した。
「首が、無い…」
首の無い男が霧の中を歩いていた。
しかも、よく見れば片足も見えない。それが再び霧の中に消えていく。
我々はお互いにもう何も言わなかった。言ったところで意味が無い事も悟ったのだ。あれが何であるにせよ、ここでの議論は只の水掛け論になる。今は論じる時ではない。
「先生。言いたいことは分かりました。しかしわたしは行かねばならない」
「あれを見てもか? 君は正気か?」
わたしの目を見た財前医師は諦めたように言った。
「くれぐれも気をつけたまえ。この霧は異常だ。先刻も言ったが君はまだ怪我の具合だってよくは無いのだ。私は社の連中に話をつける、このままでは埒があかないからな」
財前医師に一礼し、わたしは痛む脇のギプスを押さえながら霧の中に足を踏み込んだ。
霧の中に入ると更に視界は狭くなった。湿度の高い空気が纏わりつくようで暑い。足元も舗装路ではないから歩きにくい。
暫く進むと向こうから興奮した声音で駆けてくる男達が見えた。
どうやら桐崎の社員である。わたしに気がついた彼らは一瞬怯んだがどうやら人間だと確信すると駆け寄ってきた。
「あんた、この先には行かない方がいい。化け物がいる。早く戻るんだ」
捲し立てるように言うと後ろを振り返り、来たと叫んだ。
「あんたも早く!」
それだけ言うと男達は一目散に駆けていった。
わたしは彼らの後ろ姿を見送り、道の先に向かって再び歩き始めた。
それから間もなく、赤いドレス姿の女が道の向こうからやって来るのが見えた。
先ほどの男とは違い右肩から腕が無い。女には顔がある。
しかし、その表情はあまりに涼しげで恐怖や怒り、悪意などの負の印象はことごとく無かった。
わたしは怯むことなく進み、彼女の前に立った。彼女は真っ直ぐこちらへ向かってきて、ぶつかりそうな距離までやってきた。
だが、予想が正しければ問題は無いはずだった。
次の瞬間、彼女はわたしに気付く素振りも見せずに通り過ぎていった。
「やはりそうか」
幽霊、ゾンビ、怨霊、妖怪、例を挙げていたらきりも無いが、彼らがその何れでもないのは間違いなかった。だからこそわたしはあれが無害のものだと考えたのだ。
まず最初に、スーツの男を見たときに違和感を覚えた。
もしもゾンビだの怨霊のような悪意あるものであれば、スーツの男はこちらに気がつく筈なのだ。首があろうが無かろうがだ。襲うかどうかは別にして反応はしなければおかしい。そして、スーツの男は片足が無かったにも関わらず歩いていた。
まるで足があるように歩いていたのである。それを見て思ったのだ。足が無いのではなく、足が見えないだけではないのかと。首もまた無いのではなくこちらから見えないだけだと。
この現象が起きている理由はまったく不明だが、起きていることは想像できた。
大規模な立体映像の投影。
仮説ではある。
そんなことが現代科学で可能かどうかなど知らないが、目の前で起きているのだから、今この時に措いては受け入れるしかない。幽霊などとして受け入れるよりもよっぽど理性的な答えだろう。
ドレスの女との遭遇で、その推測が間違いではないとわたしは確信した。
彼女はわたしを認識していなかった。そして腕は見えなかったが存在するのは間違いがない。
誰でも冷静によく見ればわかった筈だ。女はバッグを持っていた。一歩進む度にバッグは揺れていた。そしてバッグの一部が空間を境目に見え隠れした。これは答えでしかない。この霧と異常事態の交錯が皆の判断力を奪っている。
スーツの男もドレスの女も、何らかの理由で一部の投影が出来ていないのだ。
それが我らには頭や腕や足がないと見えてしまう。この霧では尚更だ。そしてすり抜けたことで物体としてそこに存在していないことも映像であることの証明だろう。
そうなると彼らが幽霊や妖怪の類でないのは間違いないが、この投影が何を意味するのかは分からない。
これは兄もしくは桐崎の何らかしらの計画の一端なのではないだろうか。
あまりにもタイミングが良すぎる。そうならばこれはまだ始まりに過ぎないのかも知れない。ならば尚のこと、一刻も早くわたしは兄に会わなければならないのだ。
わたしは薄暗くなってゆく霧の空間に足を踏み出した。
鼓動が、やけに鮮明に早鐘を打つのを感じていた。




