月と太陽
義兄には異様な雰囲気がありました。
悲しみのような怒りのような、その姿がひどく胸に切なく突き刺さってきます。
しばらく沈黙が続きました。
あたしも何をどこまで踏み込んでいいものか量れませんでした。
「彼女は快活な女性だった」
義兄の声はうって変わって穏やかなものでした。
「いつも明るくてね。僕などは本の虫であったし、得た知識から思索を巡らせれば巡らせるほどに、この世には希望よりも絶望のほうが圧倒的に多いのだと己の無力を痛感してよく落ち込んでいた。そんな僕の側でいつも太陽のようだったよ、彼女は。どうしてそういう風に考えるんだろうねとよく僕にそう言っていた」
懐古的と言うのでしょうか、それ故に言葉の端には妙な寂しさが絡み付いているようにも思えます。
「好き、だったんですよね」
どうだろうねと義兄は空を見上げました。
天辺にいるはずの太陽は丁度厚い雲にその姿を隠されています。翳っていても暑さは幾分和らぐ程度で、走ったこともあり大粒の汗が額から滴り落ちます。それを拭ってもすぐに汗が浮き出してくるのが分かりました。
蝉が、じりじりと鳴いています。
「彼女は太陽で、僕は月のようなものだった。彼女に照らされて僕は輝くこともあったし、彼女が眩しいからこそ蔭ることもあった。
月は太陽に憧れるのだけどね、太陽からは見えてないのだよ。太陽はいつでも周囲を照らし愛される。月は仮初の輝きを与えられて輝いた気になるだけなのさ。
結局自分は輝いてなどいないことに気がつくとね、月は太陽と自分の間にある大きな溝に気がつくのさ。憧れが憧れでしかないと気がつく。
するとね、あれほど憧れていた太陽に憎しみを覚えるようになる、眩しさに身を焼かれるようになる。いっそ無くなってしまえばいいとさえ思う」
義兄の言う想い、あたしにはそれが何なのか分かってしまいました。
きっと義兄は。
「それなのに不思議なものでね。実際に太陽が無くなってしまうとあれほど憎かった太陽の姿を探してしまうんだ。滑稽な話だろう?
そう、まるでユダの気分だ。キリストに対して抱いた彼の感情も同じようなものだったと思う。それが一体何なのか、もしかしたら、それを確かめたいのかもしれないなぁ」
義兄の想い、それはきっと愛と呼ばれる感情なのでしょう。もしかしたら義兄は未だにその想いに整理がつかず、苦しみ続けているのかもしれません。
「帰って、きませんか?」
義兄もまた苦しんでいるのであれば、それを癒すことが出来るのはきっと同じように義兄を愛する家族しかいないのではないかとあたしは思ったのです。
「みんなで一緒にいればお義兄さんもきっとまた」
「なにか勘違いをしているようだね」
義兄がこちらを見て微笑みました。
ざざと周囲の木々が風に煽られます。
そんな中で義兄の声はやけに鮮明と聞こえました。
「僕は、程なく死ぬ」
「え?」
「脳内に悪性の腫瘍があってね。これまで様々な手は尽くしたが医者にも手の施しようが無い状態らしい、余命はせいぜい半年と言われている」
「で、でも…」
あたしはそれにどう答えるべきかも思い浮かばず、何も言えなくなってしまいました。
「そんな僕が今更家族に生きていると伝えたところで余計な苦しみを与えるだけだ。
僕は、十年前のあの時、家を出て死んでしまったことにしておいた方が家族にとっても幸せだろう。それに、僕には――」
やらなければならないことがある、と義兄は言いました。
「そんな、一体何をするって言うんですか?」
「ユダはどうだったか知らないが、少なくとも僕は知っている。キリストは死して甦るということを」
死して甦る?
あたしはその言葉を聞いてあの屏風の絵を思い出しました。
その時、遠くからあたしを呼ぶ声が聞こえました。お義母さま達のようです。きっと心配して探しに来たのでしょう。
義兄が背を向けました。
「待って! また、会えますよね?」
山間に反響しながら、あたしを呼ぶ声が次第に近付いてきます。
義兄は背を向けたまま言いました。
「今夜、すべての答えが明らかになる」
それだけを言い残して、義兄は森の中に消えていったのです。




