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夏の夜のクリスタルレイン  作者: イリ―


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私は生きている

「さ…沙耶(さや)…ちゃん……、なんで…」


 彼女は涼しげな瞳を(わず)かも動かすことなくわたしを見下ろしていた。

 暫しの沈黙の時間があって、彼女は岩棚をこちらへと降りはじめた。

 真っ直ぐに坂を下りてくる。そして、わたしのすぐ近くまでやってきた。


「沙耶…ちゃん?」

「あなたもそう言うのね」


 沙耶ちゃんがそう言うのをわたしは見上げていた。彼女の声以外の音が消えている。


(うらや)ましい、まるで死人を見るような目。本当に死人が現世に現われるのであれば私も会いたいと切に願っているのに」


 でも、と彼女は座り込むわたしに顔を近づけて頬に触れた。

 その指先は温かかった。


「私は生きているし、あなたの言う女性とは違うのよ。ここまで歩けるということは怪我も大丈夫そうね」


 彼女は再び立ち上がると民族的な模様の入った薄いショールを羽織りなおした。


「私は残念ながらあなたの知る沙耶さんとは違う。世界は残酷ね」


 苦しみばかりを投げかけてくる、と(ささや)くように言った。


「現実とは、かくも残酷なものだけど私達にはどうすることも出来ない。その苦しみ、悲しみに飲まれるか、飲み込むか、それは自分で選ぶしかない。どちらにしてもその痛みは消えることは無い。あなたはどちらの人かしら」


 わたしは、どっちだ。

 消え去っていた音が戻ってきた。

 川のせせらぎ、虫の声、木々の騒めき、そして吐息。

 わたしは再び彼女を見上げた。沙耶ちゃんは変わらず其処(そこ)に居た。

 これは現実だ。彼女は生きている。しかし、彼女は沙耶ちゃんではない。

 沙耶ちゃんは死んだ。死んだものは生き返らない。

 それでも似すぎている。瓜二つだと言っても過言ではない。

 ただ、よく見ると彼女と沙耶ちゃんの印象が異なっているのが分かった。


 何よりも目が違う。


 この女性の目は、まるで凍りついたかのような無感情なものだった。沙耶ちゃんはこんなに冷たい目をしていなかった。そして、彼女はまだ一度も表情を変えていない。人形のようだとさえ思えた。


「あなたは、一体」

「私は島野真奈(しまのまな)。ここで特別顧問としてあるプロジェクトに参加している者よ」

「特別顧問? もしかしてあなたが」


 そうだ、落下したわたしを見つけてくれたのが特別顧問だと財前医師は言っていた。そして、あの時わたしが見たのは、沙耶ちゃんではなく。


「あなたがわたしを運んでくれた方ですか?」

「運んだのは桐崎の人達。私は気が付いて連絡しただけ」

「そうだったんですね。本当にありがとうございます。見つけて頂いたお陰で大事には至らず、こうして無事動けるくらいに」

「そう、良かったわ」


 彼女はそう言ってわたしをじっと見つめた。

 その視線を受けていると、沙耶の形をした人形に見つめられているようで何だか()わりが悪かった。


「あの、なにか?」

「別に。ただ、あなたが(おび)えているように見えたから」


 怯えている? わたしが? 


「怯えるだなんて、ただ、少し驚いているだけです」

「そう、別にそう感じただけだから気にしないで。どうせ人に他人の心は分からない」


 彼女はふわりと踵を返すと川の方へと下りて行った。わたしも彼女の後を追った。

 大きな岩の隙間を縫うような道を下り岸まで行く。

 川は渓流になっていて砂は無く大きな石ばかりが組み合わさって足場を作っている。彼女はそっとしゃがみ込んで水に手を差し入れた。


「驚いた理由を()かないんですか?」

「話したくない事は誰にでもある。でも話したくなることもある。あなたが話したいのなら話せばいいわ。話したくないのなら、訊く意味も無いでしょう?」


 冷たいような、それでいて優しいような不思議な口調だった。


「でもきっと、あなたの驚きの正体は、沙耶さんという女性が私と似ていたから、そしてその女性は既に亡くなってしまっているのでしょう?」


 水面から引き上げた白い手を水が滴り落ちる。


「分かりますか?」

「何度も名を呼ばれればそういう仮定くらい出来るわ」


 別人の名で幾度も呼ばれ、且つ過剰な驚愕の反応を示していればそのくらいは確かに感じ取れるのかもしれない。それ程にわたしは必死であったのだろう。


「私は余程その沙耶さんに似ているのね」

「そうですね。知る者が見れば生き返ったと思えるくらいに」

「そうなんでしょうね。前にも同じような反応をされたもの」

「以前にも?」


 そう、と彼女は再び川に手を浸した。

 そして思い至った。村で噂になった沙耶ちゃんの正体、それが彼女、島野さんであったことに。

 彼女の姿を僅かにでも見かければ沙耶ちゃんを見たと思っても仕方が無い。事実わたし自身でさえ見間違え、こうして一緒に居る今でさえも混乱している程なのだ。話すことでもあれば他人であると認識は出来たかも知れないが、恐らく村の誰もが一瞬の邂逅(かいこう)だったはずだ。

 目の当たりにした時間が短ければ短いほどに、沙耶ちゃんと島野さんとの差異は薄れ、記憶に残る沙耶ちゃんだけが姿を現す。

 島野真奈という人物を媒介にして、記憶と願望が同調を果たした結果、沙耶ちゃんは幽霊になったのだ。


「聞かせてくれないかしら」


 島野さんはすっと立ち上がり、わたしを振り返った。


「あなたは今どんな気持ちなのかしら」

「どんな気持ちか、ですか?」

「そう。死んだ人間と同じ姿の人間を前にして何を感じているの? 本人とは違うと認識して尚、あなたは私に彼女を投影しているのかしら? 今あなたはどんな気持ち? 嬉しい? 残念? 懐かしい? それとも何も感じないものなのかしら? 出会ったことに感謝する? 後悔する? 運命だと思う? あなたは何を感じているの?」

「何を感じているかって…」


 そんなもの知らない。今だってまだ混乱している。

 沙耶ちゃんが存在しないことには悲しみや無念を感じるし、生きた姿を目にしたことには別人とはいえ懐かしく、また愛しくも思う。

 だが、結局のところで彼女は沙耶ちゃんではないし、沙耶ちゃんは既に亡くなっている。事実が翻るわけでもない。

 唯一つ分かるのは、現実は何も変わっていないという事実のみだ。

 何も変わっていない。変えられない。

 だから、あえて何を感じているのかを答えるのであれば、それはきっと。


「無力感、ですかね」

「真面目なのね」

「真面目ですか?」

「真面目よ。そして傲慢(ごうまん)だわ。でもね、その真面目さは世界のあり方を()じ曲げるものよ。お止めなさい。それに」


 私が聞きたいのはそんなことではないもの、と島野さんは言った。

 あり方を捻じ曲げる? どういうことだ? 


「だったらどう思えばいいと言うのですか? それに、その気持ちを聞いてどうするというのですか? 失った大切な人に瓜二つの人がいたとして、その別人に対して何を望むのかなんて、そんな残酷な質問を投げかけてまで貴女は何を知りたいというのですか」


 島野さんが微笑んだ。

 だが、その笑いは笑顔ではない。

 瞳はまったく笑ってなどおらず、口許だけが笑顔を刻んでいた。

 人形などというものですらない、まるで死人が笑ったようなうすら寒い恐怖を覚える、そんな笑みだった。


「残酷。そうかも知れないわね。でも、あなた達はどうなのかしら。既に死んだ人間と私を重ね合わせて。そんなあなた達は誰と話しているのかしら? 私? 沙耶さん? 私の身体に憑依(ひょうい)した沙耶さんかしら? それとも沙耶さんの身体に憑依する私?」

「それは、島野さんに決まっているじゃないですか。沙耶ちゃんはとっくに亡くなっているんです。わたしは自分の目で彼女の最期を見た」


 そう、例えどんなに姿形が似ていたとしても、そんなもの混同などするはずが無い。


「違うよ。私、死んでなんかいないもの」


 島野さんが一歩わたしに歩み寄る。その瞳は先ほどまでの冷たいものではなかった。

 口調も違う。暖かな印象の、まるで本当に。


「冗談は止めてください、なんのつもりですか」

「冗談なんかじゃないの。ずっと会いたかった。事情があって死んだことにするしかなかった。島野真奈は偽名、今はあなたと二人きりだから言うことにしたの。あなただけには伝えておかなきゃいけないことがあるのよ」

「そんな、本当に止めて…」

「信じてくれなくてもいい。でもこれだけは憶えておいて」


 更に一歩歩み寄る真奈さん、いや沙耶ちゃん、意識が混濁する。


「私は生きている」


 わたしにすがるように抱きついて来た彼女をそっと支える。ほんのりと優しい香りが鼻腔(びくう)をくすぐる。華のように甘い。


「そして――」


 (ささや)くような声は記憶を(さかのぼ)り、沙耶ちゃんとの記憶を呼び起こす。

 これは現実か、夢か、沙耶ちゃんは死んでない。


「――あなたのお兄さんも」


 今、なんて。


「にいさん? 今、兄さんが生きていると言ったの?」


 沙耶ちゃん、そう呼びそうになってわたしは凍りついた。


 腕の中で、沙耶ちゃんが真っ暗な穴のような目で私を見上げて笑っていた。


 わたしは戦慄(せんりつ)し、彼女を引き剥がした。




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