歌
考えたくもなかった。
自分の受け入れられる許容量を越えていたのだろう。とにかく不快感というか嫌悪感というか、言葉は悪いが胸くそが悪いというのが一番近いのかも知れなかった。
ベッドから見える窓の外は、レースカーテン越しにも分かるくらい明るく見える。
今夜の月はやけに明るい。いや、本来はそういうものなのだろう。都会では人口の光で満たされているから月の本来の明るさに気が付かなくなっているだけなのだ。
痛み止めが効いているようで全身の痛みはかなり鎮まっている。ゆっくりと起き上がってみた。上半身はボロボロだが下半身には大きな傷も無いから歩くのには困らなかった。
時間は天辺を回り午前二時前、丑三つ時という頃合いだ。
部屋にはわたししか居ない。財前医師は別の部屋で睡眠をとっている。その他にも特に見張りのような人影もない。
どうやら企業スパイの嫌疑はかかってはいないようだった。
叩いたところで埃も出ない平凡な人間であるが、そうは言ってもわずかな可能性があれば放置も出来ないのが普通である。だからこうして放置するにも理由はあるのだ。
まず、わたしの居る場所が施設内部でも重要度の低いエリアであり、より重要なエリアに進入するには多重のセキュリティを越える必要があって、それはほぼ不可能であるということ。
そして、実際に左肋骨に三ヶ所の不全骨折、両手腕に十五ヶ所の裂傷、全身七ヶ所の打撲、これだけの怪我を負っている者には何も出来ないし、できたところで万全の警備体制を鑑みれば対処はどうにでもできる。
以上の点から特に監視などは付ける必要も無いという判断がなされたらしい。
大仰に説明されたものの、実際は身元の確認が取れただけだと財前医師は笑っていた。
雨上がりで空気は澄んでいるが、湿度は高く室内に居ると少々蒸し暑い。
少しだけ窓を開けた。森の香りがすっと入り込んでくる。雨上がりだから湿気が多いのは変わりないが温度が低い、それだけでも心地良かった。
わたしは外に出ることにした。建物の近くなら構わないと言われていたし、日中に気絶していたせいか眠気がまったく無かったからだ。もしかしたら眠ることであの兄の姿を見ることを恐れていたのかも知れない。
建物の中にはセキュリティらしいセキュリティはほとんど無く、すんなりと外へ出ることが出来た。
外に出ると入口周辺には外灯が立っている。
もっとぬかるんだ足場を想像していたが周囲にはちゃんとアスファルトが敷かれていて足もとを泥水で汚す心配は無さそうだ。正面周辺は駐車場にもなっているからそれなりに広い。建物も無骨だが二階建てでしっかりした造りである。ここは食堂や医務室、簡単なミーティングなどが出来るようにと建てられたものだそうだ。隣には宿泊棟が建っていて現在多くの従業員は眠っているのだろう。一部夜間のスタッフは居るのだろうがその姿は見えなかった。本施設は更に奥にあるとのことだった。
空を見上げたが外灯の灯りが邪魔だった。
わたしは医務室から見えた景色のある裏手へと歩いていった。虫の鳴く声がよく聞こえる。裏手にもかなりの広さがあった。ご丁寧に芝生も敷いてあって、その向こうは森になっているが柵などはない。
月明かりが差し降ろす裏庭の中心に立って空を見上げた。
身体のあちこちが悲鳴を上げたが、幽玄とも思えるような幻想的な空間は心を妙になだめてくれているようでもあった。
その時、なにか聞こえた気がしてわたしは辺りを見回した。
「ん? なんだ?」
微かにではあるのだが周囲の雰囲気にすっと混じ入るように音が聴こえていた。
よく耳を澄ますとそれは歌のようにも聴こえる。針のように細い光の糸が景色の中を柔らかく漂うような、そんな音だった。どこか儚く、淋しそうでもあり、何かを慈しんでいるかのようでもあった。わたしは気になってその音の聴こえる方へと向かった。
森に足を踏み入れると、やはり音の正体は歌声のようだった。
歌はどうやら森の奥から聴こえて来ている。歌声に段々と近付いているのが分かる。その旋律は子守唄のようにも聴こえるのだが日本語ではない。どこかの伝統的な民族音楽のようなものにも聴こえる。
次第に水の音が聞こえてきた。位置的にきっと御滝の上流にある支流の一つだ。歌は川の辺りから聴こえて来ていた。
わたしは音を立てないように周囲の様子を見た。
下流よりも大きな岩が川に沿って存在しているのは火山の影響だろうか。その中に一際大きな岩場があった。岩棚と言ってもいいその場所から歌は聴こえていた。
わたしは目にした光景に息を呑んだ。
川の脇にある大きな岩棚。
その上にまるで月へと捧げるように両手を少し広げて歌う女性の後姿があった。
真っ直ぐに流れる黒髪。
ゆったりとしたジプシーのような服を纏っている。
月の光が神々しく降り注ぐその光景はまるで宗教的な神聖さを漂わせる絵画のようでもあった。暫しここが日本であることを忘れてしまうほどである。
暑苦しいはずの熱気さえ押し殺され、全身に寒さを覚えるほどの美しさに時間が止まってしまったかのようだった。
わたしは暫し茫然とその光景を眺めていた。
「誰?」
歌が止まり、薄氷のような均衡が破れた。
女性がわたしを振り返る。
スローモーションのように、回転に合わせて流れる黒髪の一本一本がゆったりと流れて見えた。
白い肌、薄紅の唇、通った鼻筋、そして涼やかな瞳は間違いなくわたしを見ていた。
心臓が収縮したように呼吸が止まる。
次の瞬間には波動のような衝撃が全身に広がってわたしは両膝を地に着いた。
そんなはずは無いと数え切れない否定が脳内を駆け巡る。
そこに立っていたのは紛れもなく。
死んだはずの沙耶ちゃんだった。




