義兄
彼から電話があったのは午後十時を回った頃でした。
なんでもちょっとトラブルがあって桐崎の施設にいるとのことでした。
怪我をしたと聞いて驚きましたが、ちゃんと手当ても受けたから心配ないということでした。今夜は施設でご厄介になって明日には戻ると彼は言いました。
しかし、その声が妙に暗いことがあたしには気がかりでした。
だから、何かあったのかと訊きましたが、彼は怪我をしたせいだと言います。確かに話している間も幾度か苦しそうに咳をしたりはしていました。でもあたしは、怪我のせいだけではなく彼の様子がおかしいと感じたのです。
とりあえず彼の無事が分かり、あたしもお義母さんも一安心でした。電話が彼だと分かるその直前までのお義母さんの狼狽は酷く、もう少しで警察へ通報するところだったのです。
しかし、考えてみればそれも仕方の無い事なのかもしれません。親しかった沙耶さんを事故で亡くし、長男は行方不明、その上次男までどうにかなったかもしれないと思えば母親としては生きた心地もしなかったのでしょう。彼の無事が分かるとすぐにお義母さんは部屋に戻って行きました。
あたしも同様に疲れていたのですが、部屋に戻って布団に横たわってもまったく眠れずにいました。蚊取り線香の香りがします。しかし眠れないのはそのせいではなく、きっと今日の出来事が気になっていたのです。
「あたしが見ているものの正体…」
白髪の男が言った言葉が頭から離れません。
あたしと同じようにアレが見えると言った人は初めてでした。
かつて同級生や同僚の中にも霊感があると言っていた人達はいましたが、彼女らが見えるとか居るとか聞こえるとか、そう言った時には残念ながら『彼ら』は確認できませんでした。
それは決して友人の霊感というものを否定しているのではなく、あたしの見ているものと彼女らの見ているものは違うのだという話です。
ですが、白髪の男は同じものを指摘して見せました。
同じとは限らないと彼は言いましたが、少なくとも同じものは見えていたか、感じていたか、聞こえていたのか、いずれかだったはずなのです。彼の言った言葉の数々はあまりにも重くあたしに圧し掛かっていました。
台風一過、静かな夜でした。
鈴虫が鳴く声が聴こえてきます。窓の外が妙に明るく見えました。そういえば満月だとテレビでも言っていたのを思い出しました。雨の過ぎ去った今夜もきっと月が強く輝いているのでしょう。
あたしは月をひと目だけ見て眠ろうと考えました。
布団から起き上がると隣の義兄の部屋の襖が開いているのが見えました。その部屋に月明かりが差し込んでいる様子が見えて、あたしは義兄の部屋へと向かいました。あまり広くはない部屋ですが、一人で居る分には落ち着く広さなのかもしれません。文机の前にある座布団に座りました。そこからは月がよく見えます。
強く輝く月が周囲に漂う雲を照らして、えも言われぬ美しく幻想的な夜を描き出しています。
あたしは暫くの間、その夜を眺めていました。
月明かりに照らされる室内をふと見渡しました。
文机の奥に引き出し式の和風小物入れがあるのですが、その上に写真立てが伏せられているのが見えました。あたしは何の気なしに、ついそれを手にとってしまったのです。
写真には学生服の男女が写っていました。
女性は沙耶さんなのでしょう、遠野さんのお宅で見た写真の女性です。その時にも思ったのですが、それにしてもよく彼女は――。
「そ、そんな…」
次の瞬間、あたしはあまりの衝撃に写真を落としそうになりました。
そして、次第に全身が粟立っていくのを感じたのです。あたしは何が何だか分からなくなりそうでした。
嬉しそうに笑っている沙耶さんの隣で、照れを隠すように視線を逸らした表情の青年。
そこに映っていたのは義兄です。
これまであたしは話には聞いていたものの、義兄の写真などは一切見た事がありませんでした。
それは彼も、家族も義兄に関するものはなるべく目に付かないようにと隠していたからです。
ですから、あたしが義兄の姿を見るのは初めてのことでした。
しかし、あたしは知らぬはずの義兄の姿を見知っていたのです。
写真に写っているその男性こそ、今日あたしがあの夕焼けの校庭で出会った白髪の男性その人だったのですから。
写真よりもっと年はとっていたし、髪の色も違います。でも、間違いありません。
あたしが出会ったのは、行方不明と言われている義兄に間違いありませんでした。




