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夏の夜のクリスタルレイン  作者: イリ―


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財前

「うわあぁぁぁぁぁ」


 奇怪に(ゆが)む兄の恐ろしい笑顔のイメージに襲われて目が覚めた。

 激しい動悸(どうき)に油のような汗が全身を濡らしている。乱れる呼吸がぜぃぜぃと鳴り、身体のあちこちにも痛みが広がっていた。

 わたしは天井を見つめ、兄のイメージを振り払おうと深く深呼吸した。しかし息を吸い込むと共に、わき腹に走った痛みで大きく(むせ)た。

 (しばら)く咳込んだ後、ゆっくりと呼吸を整えて周囲を見渡すと、見慣れない場所であることに(ようや)く気がついた。


「ここは、どこだ?」


 まるで学校の保健室か何かのようにも見えた。白い部屋、カーテン状のパーテーション、白色の棚。

 保健室という表現よりも単純に医務室と言うべきか。やけに綺麗な内装を見る限りでは新しい建物という印象があった。

 起き上がろうとしたが激痛が(はし)る。脇には包帯が捲いてあるのが分かった。


「確かフェンスから落ちて」


 激しく回り流れる視界の中で、幾度か途中の木か何かに身体を打ちつけたのを薄らと覚えている。


「目が覚めたようだな」


 声に振り向くと白衣を(まと)った初老の男が入ってきた。男は皺枯(しわが)れた声で言った。


「どうだ、どこか痛むか?」


 わたしは誰とも知れないその男に警戒の視線を向けたのだろう、それを感じとった男は医者だと告げると再度、痛みは? とわたしに近づいた。

 手を動かしたりしてみた。落下したときに打ったのだろうと思われる(きず)が何ヵ所かあった。それからあちこちに引掻いたような傷がある。両手には包帯が()かれていて、痛みが酷かった。呼吸のときにも身体に痛みがある。


「脇の辺りが痛いですね。起き上がれない」


 わたしの目にライトを当てながら医師なのだろう男は頷いた。


「そうだろうなぁ、左脇の肋骨三本にひびが入っている。辛うじて折れてないだけマシだが長引くぞ」


 男はそう言うとレントゲンの写真をPCに映し出して箇所を指差した。

 確かに肋骨に走る細かな線が見える。


「ここは一体?」


 薬棚に向かった男の背に声をかける。


「ここは桐崎の施設だ。この近くで斜面から転落したところを、偶然見つけられて運ばれてきたんだ。私はこの施設で医療責任者をしている財前(ざいぜん)というもんだ。ここは設備もしっかりしているからな、お前さんは運が良い。もしあのまま誰にも発見されていなけりゃもっと酷いことになってたぞ」


 どうやら奇しくも桐崎ECPの施設に担ぎ込まれたということらしい。

 落下のときに少し頭を打ったのか、もしくは薬のせいなのか、まだ少し思考が曖昧だ。脇腹に響く鈍痛に手を当てるとギプスの硬い感触があった。


「それにしてもお前さん、あんな所でなにをしていたんだ? バラ線もなり振り構わず乗り越えてズタズタになってりゃ世話ないな。両手も軽い裂傷で済んでいるが、一歩間違えば肉まで裂けて両手が使い物にならなくなることもあるんだぞ。あまつさえ落下して肋骨を不全骨折、打撲多数、そこまでするのはあれか? 企業スパイかなにかか?」


 財前は温かいお茶を淹れて出してくれた。身体が冷えていたので温かい飲み物は助かった。染みるように温度が広がって大きく息を吐くと落ち着いた。


「企業スパイだなんて。そんなのでは」

「そうだろうな、そんな間抜けなスパイはいないだろうしな。お粗末にも程がある」


 財前も椅子に腰掛けて茶を(すす)っている。


「わたしはこの近くの村の者です。大企業がこの頃何かの調査を行っていると聞いたもので気になって。でもよく分からないし戻ろうとしていたんですが…」


 あの時、わたしは彼女の姿を見たのだ。


「どうした? 急に黙って。もしかして幽霊でも見たか」


 財前はふざけ半分にそう言って笑った。


「そう、かも知れません」


 わたしがそう呟くと財前は不思議そうな顔をした。


「何でも構わんがあんなところを乗り越えるなんてのは無謀だ。今回はまだ打ち所も良かったが、間違えば死んでいてもおかしくはないんだからな。もう二度とせんことだ」

「そうですね。ご迷惑お掛けしました」


 わたしは財前医師に頭を下げた。


「あの、わたしを見つけてくれた人というのは?」

「うむ、桐崎の特別顧問としてここに来ている女性だが」

「女性?」


 まさか、それは彼女なのか? 急に心臓が縮むような痛みを覚える。


「偶然お前さんが落ちた場所の近くで散歩をしていたらしくてな」

「名前はなんという人です?」

「残念だが、それは教えられない。特別顧問の情報は社内でも知る者はごく限られた者しかいないのでな。かく言う私も実のところよく知らんのだ」


 あの時わたしが見たのはその女性なのだろうか?

 彼女を意識するあまり、その女性に沙耶ちゃんの姿を重ねてしまったのだろうか?

 確かにあの時には彼女の姿を見た気がしたが、そもそも彼女はとうの昔に亡くなっているのだ。馬鹿げた妄想に取り憑かれていると気づいて苦笑した。


「あの、これ以上ご迷惑をかけるのも申し訳ないので」


 言いかけたところで財前は止めておけと(さえぎ)った。


「とりあえず脇に簡易的なギプスは付けているが動くのは(すす)めん。日も落ちて足場も悪い。暫くそこで安静にしているといい、明日には桐崎の者が村まで送り届けるだろう。お前さんの車も回収済みと聞いているから安心しなさい。それにその状態では運転もままならないだろう。無理されて車ごとまた転げ落ちられても困る」


 財前はそう言って笑った。

 外はもう日が暮れてしまっている。両手も不自由だし、その上この脇の痛みでは本当にハンドルを切り損ねる可能性もあった。窓ガラスに映ったわたしは呆然(あぜん)とわたしを眺めている。


「そう、ですね。そうさせてもらいます」

「そうと決まればお前さん、腹は減ってないか? 何か持ってきてやろう」

「ありがとうございます」


 今はほんの少しだけでも落ち着いて静かに考えたかった。

 夢に見た兄の笑顔。それを思い出してわたしは恐ろしくなった。


 日記に書かれた最後の文章。

 そこには殴り書きで大きくこう書かれていたのだった。


『沙耶を殺したのは僕だ』と。

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