兄の呟き
周囲を眺めてみるが特別な建物は見えない。
暗いということもあるが灯り一つ無く人影もない。広がるのは山林ばかりだ。
時間はまだ五時にもなってないが、先刻まで雨を落し続けた曇天は未だに空を覆っていて暗い。じきにもっと暗くなる。雨に濡れた土くれの道を戻るのも危険が増す。
これ以上ここにいても仕方がないと車に戻ろうとした刹那だった。
わたしの目に何か違和感が映りこんだ。
なんだ? 今のは。わたしは今、何を見た?
見えてはいけない、否、見えるはずの無いもの。
勘違いか? きっとそうだ、そうに違いない。
わたしは見間違いを証明する為にもう一度、視線を戻した。
視線にはフェンス、その向こうに暗い木々が立ち並ぶだけだ。
意識しすぎて見間違いをしただけのことと言い聞かせようとしていた。
だが、見間違いなどではなかった。
木々の隙間をすっと通り抜ける白い影。
見間違いなどでは決して無い。
女が森を歩いていた。
見覚えのある姿だった。
あれは、沙耶だ!
死んだはずの沙耶ちゃんがそこにいた。
彼女は木々を縫うように流れるように赤海山の方へと進んでいる。
周囲を見回したが下に降りられそうな道は無い。
フェンスを登った。カメラや有刺鉄線など気にしてはいられない。
必死によじ登る。
彼女が行ってしまう。何とか、何とかしなくては。
待って、行かないでくれ!
「沙耶ねぇちゃん!」
わたしに出来ることは叫ぶことだけだった。
声は届いた。彼女が振り返った。
沙耶ちゃんは、わたしを見た。
直後、バランスを崩したわたしは、フェンスから落ち、急勾配の坂を転がり落ちた。
激しく回る世界に入り混じる兄と沙耶ちゃんの顔。
兄が何かを言っている。
葬儀の日、沙耶の隣で兄が呟いていた。
不意に何か、まるで天啓のように記憶が蘇る。
兄が横たわる彼女に何か言っていた。
パズルのピースが填まるように
言葉が口の動きに重なっていく。
――わたしがころした。
そして兄は、笑ったのだ。




