幽霊なのかも知れない
「そりゃあみんな怖いんじゃないのかな? 死にたい人はいないでしょう?」
わたしは兄にそう言った。
幼い時分、死というものを漠然と考えて恐ろしくなり両親に泣きついた記憶はわたしにもある。それから時間をかけて何となく受け容れてはきたが実感は無かった。きっと身近な者を失うまで、誰もそれらを実感など出来はしないのではないかと思う。
兄は変わらず窓の外を眺めていた。
「正しくは『死』それ自体が怖いのではないのだよ」
わたしには兄が何を言っているのか分からなかった。
「おまえも言っていたが『死』を怖いと思うだろう。僕はね、その死に付随する『怖い』、つまり『恐怖』という感情が怖いのだね。そして一番鮮明とした『恐怖』は『死』にこそ付き纏うものだと思う。だから僕は『死』が怖いのだと言ったのだ」
ぽかんとしていると兄は微笑んだ――ように見えたがコントラストの影に塗り固められた兄が本当に笑ったかは分からない。
「おまえはお化けや幽霊をどう思う? 本当にいると思うかい?」
「どうかな、僕は見たことがないけれど、本当にいたら怖いと思うよ」
「なぜ?」
「なぜって、お化けだよ。死んでいるのにそこにいたら怖いじゃないの」
「居るだけで怖いと思うのだね」
「そうでしょう、だって死んでいるんだから」
「死んでいなかったら怖くはないということだね」
「うん。死んでいるから怖いんじゃないの?」
「そうだね、ないはずのものがあれば驚くに違いない。だけどそれは僕の言っている怖さとは違う。おまえが言っているのは身の危険から来る恐怖だね。自分の理解を超えた不可解なものを漠然と怖いと思う。それは生存本能だ。もしかしたらソレは自分を害するものかもしれない。それが分からないから不用意に接触しないように恐怖が湧くのだね。種を存続させる為にリスクを下げるのは至極当然のことだからこれは仕方がない。つまり恐怖は人間の防衛機構の一つなのだ」
部屋の隅にある扇風機の首がこちらを向くたびにほんの少し身体がひんやりとした。扇風機の真ん中についた水色のリボンが風でひらひらとはためいているのをぼうっと眺めていた。
「ではもしもだけれど、そもそもお化けとは居るものだったらどうだい? もちろん関わり方を間違えば害があるのは人間も動物も一緒だろ。不用意に近づけば獣だって襲ってくる。幽霊とは死んだ人の延長にあるもう一つの形なら? それでも怖いだろうか? 見える見えないという概念は人間が可視光線しか見ることができないから存在する。本当はそこにあるのに我々が気付けないだけなのかも知れないよ。あちらは友好的に関わりたいのに僕達にはそれが分からない。無視されているのと似たような状態なら、気付いて欲しいと思うのはいけないことだろうか?」
りん、と窓際の風鈴が鳴った。
「でも心霊写真とか、あんな風になっていたら誰だって怖いよ」
兄は口元だけ小さく笑った。からかっていたのかもしれないが、その様子は楽しんでいるように思えたから、わたしは何となく嬉しかった。
「本当にいるのだったら僕達は認識を変えないといけないね。だって失礼じゃないか。先人達はすぐそこにいるのに無視していたら。ほら、今もそこに爺様が…」
兄がわたしのすぐ後ろを指差したものだから心臓と共に飛び上がり振り向いた。そこには婆様がいたのでわたしはさらに驚いて部屋内に転げた。腰の曲がった婆様は呆れたようにわたしを見た。
「こがな真昼間から何さ吃驚したもんだが、肝っ玉ちっちぇのはだみだよー」
婆様はそれだけ言うとにっこり笑い、板張りの廊下を台所の方へと歩いていった。ぎしぎしという板の音はゆっくり遠ざかっていった。
「婆様じゃないか。うそつきっ」
わたしがそう言うと兄はまた外を眺めていた。
「そうだね。僕にも爺様は見えないから嘘かもしれないが、そこに爺様が本当に居ないかどうかは分からないよ」
わたしはその言葉にとっさに後ろを振り返ってしまった。
「でもきっと、そこには居ないのだろうなぁ」
兄はそう言ったのだった。
りん。
風鈴が鳴った。兄は空を見上げたようだった。
「お前は考えたことがあるかい?」
汗がじわりと背中を伝うのが分かる。額の汗をわたしはぬぐった。兄の言葉が出てくるまでの間がやけに長く思えたものだ。
「何を?」
「僕たちが、実は幽霊なのかもしれないということをだよ」