この世ならざるもの
そこは学校のようでした。
日が大分落ちてきていて薄暗くなりかけています。
誰の気配も無い、日暮れのしんとした学校の様子はどこでも同じように不可思議な怪しさを漂わせているものです。
雨は止んでいました。
校門を抜けると緑の葉を立派に湛えた大きな銀杏の木が広場の中心にそびえています。その奥には木造の二階建ての校舎が建ち、一階部分には渡り通路があります。
どうやらその先に校庭があるようでした。
音は校庭の方から聞こえてきます。あたしは校庭の方へと進みました。
校舎は大きくありませんが校庭は不釣合いな程に広く、校庭の先には茂みがあり、その先は川原のようです。
校庭の真ん中に櫓が見えました。線が延び提灯が括りつけられています。
音はその櫓の辺りから聞こえているようです。
人影がありました。
櫓のすぐ手前。櫓を眺めているのか顔は見えません。黒いレインコートのフードをかぶった背中だけが見えています。
誰も居ないものと思っていたあたしは驚いてその場で立ち止まりました。
地元の人にしては、ただ立ち尽くすその後姿があまりにも異質なものに感じたのです。
「どなたですか?」
その声にあたしは一歩、後ずさりました。
人影は振り向くでもなくあたしの存在に気が付き声をかけてきたのです。聞き覚えも無い男の声は警戒心を抱くのに十分すぎました。距離は五十メートルほども離れているのは間違いありません。しかし、その声は叫ぶでなく、寧ろ静かに落ち着いた声音で響きました。
男が静かに振り向きました。しかしフードに翳っていてその顔は見えません。
「見ない顔ですね」
そう言った男の言葉に訛りはありません。
その時、またあの音が聞こえました。
あたしは刹那周囲に目を走らせます。
もう一度鳴りました。
その音は、男の方から聞こえているようでした。
「ほぅ」
男がゆっくりこちらへと足を踏み出しました。彼は真っ直ぐあたしの方へと歩いてきます。
あたしは彼から離れるように後ずさります。
男は足を止めました。
「貴女には、聴こえているのですね、この音が」
キンと澄んだ音が響きます。
周囲に反響し僅かに小さな音が重複して聴こえます。
「聴こえているのですねって、こんな大きな音誰にだって――」
「聴こえないんですよ」
「え?」
一瞬この人が何を言っているのか分かりませんでした。これほど鮮明に聴こえている音が聴こえないなどあり得ません。
光も当たらず真っ黒な穴のような顔です。その穴の中から彼はあたしを真っ直ぐに見ているのだけはよく分かりました。
「本来この音は普通の人間には聴こえないはずのものなのです。それが証拠にこの場に誰も集まってはいないでしょう? 大きい音、貴女もそう言ったはずです」
確かに騒音とは言わないまでも、これだけ大きな音であれば誰かしら気にして姿を見せそうなものです。しかし、誰も来ません。
「あなたにはこれが聴こえたからこの場所に来た。ですが貴女以外には聴こえていない。貴女だけには聴こえる音。そしてその音を聴く力。その力は特殊なものです。きっと過去にも同じように人には分からないことが分かるようなことがあったはずです。思い出してみてください、覚えがあるはずです」
「特殊な…力…」
言われるまでもなく力のことは分かっていました。麻奈さんに指摘されたこともありましたが、誤魔化しました。麻奈さんさえこのことは知らないのです。なのに、今会ったばかりで顔も見えないこの人は、あたしのことを知ったように言います。
あたしはこの人が恐ろしくなりました。
いえ、元々恐れてはいました。見知らぬ男に油断するほど明け透けな人間ではないという自負もあります。しかし、この時感じた恐怖はそれとは別の恐怖だったのです。
「驚かせてしまいましたね、怖がらせるつもりもなかったのですが」
男は少しの間をおいて言いました。
「実はその力、僕も持っているのです」
「あなたも持っている?」
予想外のひと言にあたしは驚きを隠せませんでした。
「まぁ、まったく同じものとまでは言いませんが。ですから僕にもこの音は聴こえています。それは言わば強い直感力や感性のようなものです。だからあなたの気持ちも分からなくは無い。他人と違う自分にどう思ったかはそれぞれでしょうが、普通なら怖い。異端の自分を恐れるか、それを異端と見做す世間を恐れるか、何れにしても怖いことに変わりがなければ誰にも何も言わずにいるのが一番良い、僕もそうしたクチですが」
この人は何だ? 心を見透かされているようです。何の遮蔽物もない場所に立たされて丸裸にされているような羞恥と恐怖と無力感を強く感じました。この人は危険だとあたしの中の何かがそう叫んで逃げろと袖を引きます。
「あなたは今、僕を恐れていますね。ですが安心してください。僕はなにもあなたを傷つけようとかそういう害意を持ってはいない。勘違いさせたのであれば謝りましょう。申し訳ありません」
そう言って男は頭を慇懃に下げました。
「謝られる理由がありません。それに、何を言っているのかも分かりませんし」
「そうでしょうか? あなたには分かっているはずですが」
彼の言葉があたしを追い込んでいくのが分かりました。
「見えるのでしょう? この世ならざるものが」
彼が真横に手を上げ指し示します。
それを見てしまったあたしには何の言葉も返せませんでした。
指し示されたその場所に刹那、アレが見えてしまったのです。
ほんの一瞬浮かび上がった人影。
本当に彼にも見えている。
その時あたしにはそれが分かったのです。
空を覆っていた曇天が途切れつつありました。




