反抗期の終り
「兄さん?」
その声に気付き、兄が振り返った。
「なんだい、こんなところで。夏祭りに行っているのじゃなかったのか?」
わたしはその問いに答えるにはあまりにバツが悪く、ただ俯いた。
「そんなところにいないでこっちにおいで。おまえも線香をあげるといい」
兄はそう言って手招き、それに従って兄の横に立った。手渡された線香に火を点けて墓前に供え、手を合わせる。その時にはもう落ち着きを取り戻していた。
「兄さん、何してるの? 祭りには行かないの?」
「夏祭りとは何の為に行うものだと思う?」
こんな兄の問いかけも久しぶりだった。
それくらい話をしていない。
「ひと言で言うのは難しいが、凡そは鎮魂や半年無事に過ごせたことの祝いであることが多い。昔この時期には特に疫病や飢饉など起き易かったからね、そういったこと無く無事に過ごせたことへの感謝と先祖への鎮魂、そしてこれからの無事を祈って祭りを執り行う」
線香の煙と香りが辺りに漂うと、不思議と辺りが清められているような気持ちになった。
「だから本来は先祖や神様への感謝と祈りでね、派手に行えば行うほどその効果も大きくなるのだが……」
騒がしいのは苦手なんだ、と兄は小さく微笑んだ。
「でも、沙耶ちゃんは祭りにいたよ」
「そうだろうね、沙耶はそれでいい」
兄は時折こうして意味深な言葉を選ぶ。こうなるともう何を言っているのか分からない。
「どういうこと?」
兄は黙って線香を足した。
彼女について自分は分かっているという態度が、その時は気に入らなかった。
「ところでお前は何をしていたんだい。墓所の入口とは違う方から来たみたいだが?」
「別に、何もしていない」
ささやかな抵抗を試みる。
「そうか、脚が傷だらけだぞ。山で遊ぶには些か日が落ちすぎているな」
その時になって初めて自分の足が傷だらけだと気がついた。きっと夢中で走るうちに茂みや草で切ったのだろう。こういったのは気付くと急に痛み出す。
「べ、別に全然平気だったよ。暗いのなんて慣れてるし」
気持ちを悟られぬように精一杯の強がりで返す。
「怖かっただろう」
兄は真っ直ぐにわたしを見てそう言った。その瞳に蝋燭の灯りが揺らめいて映る。
「だ、だから全然――」
「怖かっただろう?」
じっと見つめてくる兄の目はどこか悲しそうだったが、それ以上に優しさを湛えていた。
そんな瞳に見つめられ、わたしの強がりは何の抵抗も出来ずにあっさりと崩れ去る。
わたしはただ頷いた。頷いてしまうと急に涙が溢れ出した。
「お前は何も悪いことなどしていないというのに。何故こんなにも恐れ、震えなければならないのだろうなぁ」
わたしの手に兄が触れ、初めて自分が震えていることに気付く。震えていることに自分自身驚いた。
「本来、世界は明るいか暗いかの二つしかない。それは見えるか見えないかの違いだ。そして、それは言い換えれば知るか知らぬかの違いでもある。お前が恐れたのは見えぬからだ。見えていれば恐れなど生まれはしなかっただろう。現に今、お前は恐れていない筈だ。それはこの場所が見えているから、そして知っているからだ。
だが、もしこの火が消えたら、お前はきっとまた恐怖に取り憑かれるだろう」
兄はそう言ったが、わたしはそんなことはないと思った。
それはすぐ傍に兄がいるからだ。自分にとっての兄はそれ程の支えなのだとこれほど感じたことは無い。なぜあんなに話すのも見るのも嫌だったのか分からなくなってくる。
「だが、知ることさえ出来たなら、我々は恐れる必要など無くなる。無意味に暗闇や死を恐れることも無くなるだろう。それでこそようやく……」
「兄さん?」
つい呼びかけたのはほんの一瞬、兄が自分の知る兄では無いような気がしたからだ。
「そろそろ帰ろうか、最後に蝋燭を差し替えよう」
蝋燭はかなり小さくなっていた。それを新しいものと取替えて立ち上がった兄はいつもと変わらぬ兄でしかなく、自らの疑念もただの気の迷いに思えた。十も歳が違う兄だ。自分とは全く違って当たり前だ。その大きすぎる兄との距離感を今更ながらに感じたのかもしれない。
この時は、ただその存在に絶対的な信頼感しか感じなくなっていた。
そして、わたしの反抗期は終わりを告げた。




