あの時の後悔
あたしはこれ以上ないくらい必死に自転車をこぎました。
バスはこの時間、本数が減ってしまうので待っていられません。
日が落ちて暗くなるに連れて、消え入りそうな光は外灯やネオンに移り変わり、流れていきます。蒸すような暑さの中で汗が滴り落ち、店に近づくほど動悸は激しくなっていきました。
あたしは店に辿り着くと同時に、自転車を投げ捨てるようにして店の扉に張り付きました。
「麻奈さんっ! 麻奈さんっ! 麻奈さん!」
店には電気も点いていません。真っ暗な店内に人影は見当たりませんでした。よくよく考えれば当たり前です。あれだけ大きな事故が取り沙汰されて、しかも幼馴染の麻奈さんがこのニュースを見ていなかった訳がありません。きっと現場か、身元が判明しているのであれば病院に搬送されたと考えるのが普通です。麻奈さんが店に居るなどということはあるはずがないのです。
あたしは大きく深呼吸し呼吸を整えることに集中しました。
「病院!」
きっとそこに麻奈さんは居るはずです。でも、一体どこの病院に運ばれたのかも分かりません。
当時は携帯事情も今とは違っていてネットで情報を検索するなど不可能でした。あたしは店の前で何か方法はないかと必死に考えました。焦れば焦るほど考えはまとまりません。それでも必死に考えたのです。
「そうだ、交番!」
警察なら何かきっと情報を持っています。怪我人達が収容された病院くらいは教えてくれるに違いありません。その時できることはそれしかないとあたしは思ったのです。
交番は確かあっちだと振り返ったその時です。人気のない商店街の通りに女の人が立っていました。
力なく歩く姿は、少しでも触れれば崩れ落ちそうなほど脆い砂細工のようにも見えました。
「麻奈…さん」
あたしは彼女の前に立って小さく呼びかけます。彼女は俯いたまま何も反応しません。もう一度彼女の名前を呼びました。すると彼女は立ち止まりました。
麻奈さんだとは思えない姿でした。髪も服も乱れています。
一挙手一投足が優雅さと気品を漂わせていた彼女が、今は現世を漂う亡者の如くに生気を失っていたのです。
彼女がゆっくりと顔を上げました。
正直に言えば、その時、あたしはその顔を見ることが怖かった。目を合わせてもかける言葉など見つかりません。一体あたしは彼女に会って何をするつもりだったのかも分からなかったのです。あたしは何も出来ない自分に無力感を抱き、また見たことのない彼女に恐怖していたのです。
髪の隙間から見上げる瞳が見えました。
刹那、悪寒が奔ります。泣き腫らしたのでしょう、彼女の目は真っ赤に染まり感情も消え去ったような無機質な闇が穿たれていました。
「まさ、み、ちゃん?」
麻奈さんが弱々しい声であたしの名を呼びました。
あたしは彼女の目を見つめたまま何度も頷きます。
闇のような瞳が次第にキラキラと光が差すのが見えました。直後、大粒の涙が零れ落ちて頬を伝います。
あたしも泣いていました。
理屈ではありません。ただ悲しくて、ひたすら哀しくて、胸が深くえぐれてしまいそうなくらいに苦しかった。でも麻奈さんの哀しみはそんなあたしの幻じみた痛みとは比べてはいけないものです。
「正美ちゃん。正美ちゃん。あいつが、あいつがね……」
苦悶を浮かべる姿がたまらなく痛々しく、あたしはそっと近づいて麻奈さんを抱きしめました。その時は壊れそうな彼女を、例え砕けても全部拾ってみせると思ったのです。抱きしめてみて、麻奈さんは思っていたよりもずっとか細く小さな女性だったのだと初めて知りました。
「麻奈さん、分かってる。分かってるから。分かってるから」
あたしも精一杯の気持ちでそれだけ伝えました。麻奈さんはその言葉に反応するようにして震えだし、堰を切ったように声を上げて泣き出しました。あたしもまた共鳴するように泣き、あたしたちはそのままひたすら二人で泣き続けたのです。
それから麻奈さんのお店は開かないことが多くなりました。
彼女は心がどこかに行ってしまった抜け殻のようでした。話しかけてもまるで起きながら眠っているように反応が鈍いのです。時折うわ言のようになにかをぶつぶつと呟いたりします。
その時、麻奈さんは以前の彼女ではなくなってしまっていたのです。
丈二さんの死が原因なのは明らかでした。
あたしは壊れていく彼女を見ているのが辛くて辛くて、でもどうして良いのかもわからないまま、結局ソレから目を背けたのです。子供だったのです。
今にして思えばそんな風にして彼女を一人にすべきではありませんでした。
一番辛いのはあたしではなく、救いを求めていたのは麻奈さんだったのですから。
でも、その時のあたしは逃げてしまった。
受験を言い訳にして、自分の将来を理由にして、向き合うべきものから逃げたのです。
夏休みも終わりという頃、勇気を出して彼女の店に足を運びました。
目にしたのは、閉店告知の張り紙のされたシャッター。
息苦しいくらいの蝉時雨が降り注いでいました。
それから、あたしは麻奈さんに会ってはいません。




