麻奈
それから麻奈さんのお店にはよく足を運ぶようになりました。
優希と行くこともあるし、一人で行くこともあります。行くと決まって麻奈さんはアンニュイな表情でカウンターに座っていました。
小さいお店ではありますが、意外にお客さんは多く来店していました。精神的な部分での支えを誰しもが求めているのだ、というのは社会人になって思い至りました。
お客の大半は女性でしたが、時々男性の姿も目にしました。プレゼント用かとも思いましたがそれだけでもないようです。
「男性のお客さんも多いのよ。やっぱり石に興味を持つのは女性だけってことでもないのよね。そうは言っても私もこの仕事を始めてから知ったんだけど」
麻奈さんはそう言いましたが、麻奈さん狙いの人も中にはいたと思います。そのくらい彼女は美しい女性だったから。
当時、麻奈さんは二十五歳くらいだったと思います。あたしは一人っ子だったし、こんな女性が姉だったらどんなに素敵だろうと幾度思ったか知れません。
受験勉強に行き詰まって、どうしようもない気持ちになると麻奈さんに相談しに行ったりしました。もちろん石に関する色々な話も聞いたし、産地の海外の国の話も聞きました。
麻奈さんの話はどれも未知の世界の話のようで、聞いている時はいつも初めて絵本を読んでもらう子供のような気持ちだったのを覚えています。自分の知らないキラキラとした世界を知るこの人はこの上なく素敵な女性だと、あたしは思っていました。自分もいつかこんな大人になりたいと思える憧れを抱いたのは必然でした。
ある日のことです。
あたしは放課後いつものように麻奈さんのお店へ向かいました。
すると、お店から一人の男性が出てくるところでした。髪を短く刈り込んでいて背が高く体格もがっしりとしたスポーツマンのように見えました。スポーツをする人も石の力で精神的な部分をカバーする人も多いのだと教えてくれたのは麻奈さんです。きっとその人もそういう効果を信じている一人なのだろうと初めは思ったのです。
しかし、それはどうも違うようでした。
彼の表情は厳しく、まるで吐き出されそうな鬱憤のようなものを必死で堪えて真一文字に口を結んでいる、そんな表情でした。
その人の後ろ姿を見送り店に入ると、店内の空気もどこか張り詰めたようなものが漂っていました。
いつもは風に逆らわず揺れる植物のような印象の麻奈さんが、その日は少々違っていました。周囲のすべてを拒否する硬質な石のようです。
あたしは声を掛けられずに入口で立ち止まっていました。
そのまま帰った方が良いかもしれないとさえ思ったのです。今まで見たことの無い彼女の姿に驚いたのか恐れたのか、そんな逡巡に囚われていると麻奈さんがあたしに気がつきました。
「あら、いらっしゃい」
そう言って向けられた笑顔はどこかぎこちないものでした。
「あ、あの」
「どうしたの? そんな所にいないでこっちに……あ、そっか、あなたには隠せないわね」
そう言って麻奈さんは恥ずかしそうに微笑みました。
その表情によってあたしの身体を縛っていた鎖が解けたのです。
あたしは出された紅茶を一口飲みました。
「彼ね、幼馴染なのよ。ちょっと喧嘩しちゃってね。怒っていたでしょ」
確かにあの人は怒っているようにも見えましたが、むしろ。
「なんか、悲しそうに見えました」
「そう、そうね」
麻奈さんは近くにあったアメジストの珠を手にとって転がしました。
「私ね、六歳までハワイに住んでいたんだけど。色々あって日本に戻ってきて、あ、でも日本人なのよ。両親もそうだったし。だから一応日本語も話せたの。まぁ帰国子女っていうのかしらね、なにも出来ないけれど」
「帰国子女! なんかかっこいい!」
「だから何も出来ないって。それでね、日本に戻ってきたけれど知らないものばかり。生活環境の変化に順応できなくて、ハワイじゃお転婆だったのに、こっちに来た途端に内向的になっちゃったのよ。
日本語も分かると言っても日常会話の速度には慣れていなくて、ろくに話も出来なくなっちゃった。なんでこんな所に居なくちゃいけないんだろう。ハワイに帰りたい。そればかり考えて過ごしていたの。そんな時にね、声を掛けてきたのがあいつ」
あいつね鳴海丈二っていうの、と麻奈さんは一瞬入り口の方を見た。
「当時の私って服もちょっと皆と違ってたのね。素材とか柄とか、後になって考えたら誰だってそんな子に話しかけるのは気が引けるわよね。だって知らないものは――」
―――怖いもの。
「でも、あいつは違ったの。休み時間に近づいてきてね、言うのよ。俺はジョージってんだ。外国人みたいだろって得意げに。何が言いたいのか分からなくてその場の誰もがぽかんとしてたのよ、そしたらさ、ハワイって外国なんだろ? なら俺達友達なって。訳解らなくて、なんか急に可笑しくなっちゃってさ。その時日本に来て初めて笑ったのよね」
「優しい人ですね」
「そうね、優しいの、あいつ」
優しすぎるのよ。麻奈さんは寂しそうにそう呟いた。
「あいつ今ね、海上保安官なの。潜水士」
「潜水士! 凄いじゃないですか。誰でもなれるものじゃないんですよね? だってこの前テレビで特集しているのを見ましたよ。エリート中のエリートじゃないとなれないって。ドラマとか、映画とか、あの海上保安官ですよね?」
「そうね。よく知らないけどそれね。あいつはいつも誰かの為に必死なの。あたし以外の誰かの為に」
あたしとの約束なんて後回し、と呟く姿を見てあたしは漸く気がつきました。
「麻奈さん。もしかしてそれ、やきもち?」
大きな音を立ててアメジストの珠が机に落ちました。麻奈さんは急いで珠を拾いあげます。
「や、やきもちですって? わ、わたしが? 違うわよっ」
麻奈さんが動揺する姿を初めて見ました。あたしはその様子が可愛らしく楽しくなって訊きました。
「麻奈さんは丈二さんと付き合っているんですよね?」
「わ、わたしが丈二と? そ、そんなわけ無いでしょ! あれとはただの幼馴染だって言ってるじゃない。腐れ縁よ、腐れ縁!」
「ふーん。でも好き、なんですよね?」
麻奈さんは返答を誤魔化すように珠を拭き始めます。
「ま、その……嫌いでは…」
「だから、好きなんですよね?」
「………」
「まーなーさーん?」
顔を覗き込もうとすると立ち上がって逃れます。
「この話はおしまいっ!」
ですが一瞬垣間見えた彼女の顔は真っ赤でとても可愛らしい少女のようでした。
あたしは、どこか人間離れした麻奈という女性に憧れを抱いていました。
ですがこの時、
この人もまた一人の純粋な乙女なのだと知るに至り、
この女性のことがもっともっと愛しく感じられるようになったのです。