夢の中の兄
わたしは御滝のほとりに立っていた。
辺りは暗いが夜ではない。真上には青空が見えている。
滝は勢いよくその飛沫を上げて流れ落ちているのだが、音は無い。
無声映画のような世界にぽつねんと取り残されているようだった。
――この世界は本のようなものだ。
声がした。
この柔らかな声を聞き間違えるはずがない。
兄だった。
滝壷の対岸に兄が立っていた。
滝を中心に据え、わたしと兄、シンメトリーを描き出している。
「兄さんっ!」
――僕達のいるこの世界はその一ページに過ぎない。
兄は昔のままだ。だが、ハンチングを目深にかぶっているので顔は見えない。
薄茶色のベストにパンツ。記憶にある兄の姿だったが、わたしに気付いているのかどうかは知れない雰囲気である。
「兄さん! 兄さん!」
幾度呼びかけようと兄はわたしに気付かないまま、独り言のように何かを言っている。
――登場人物たる僕らは、その呪縛からは逃れられない。
「兄……さん」
――僕は『死』というものが怖いんだ。
これは、どれも遥か昔に聞いたことのある兄の言葉だ。
――だから僕はこの……
兄は何かを言っているのだが、声は聞こえなくなった。
「兄さん、兄さんは何がしたいの? 帰ってきてよ兄さんっ!」
兄に近づこうとわたしは滝壷を迂回するように駆けた。
だが、次の瞬間行く手を遮るように目の前に大きな長方形の箱が現れた。
恐る恐る近づき箱の中を覗き込む。
その中には覚えのある女性、沙耶の遺体が眠っていた。
「うわぁぁ」
わたしが箱から飛退くと、背中が何かにぶつかった。
人だった。
背の高い喪服の男。誰かは知らない。顔はぼやけてしまっていて分からない。
気が付くと、いつの間にか周囲には喪服に身を包んだ人々が溢れ群衆となり、わたしを取り囲むようにして立っていた。しかし、彼らは一様に私ではなく沙耶の収められた棺の方を見ている。誰一人としてわたしを見ている者はいなかった。
見回すといつの間にか風景は変わっていて、葬儀場になっていた。
見覚えがある。沙耶ちゃんの葬儀だ。
棺桶の周りに真っ黒な人々が押し寄せ埋め尽くし、巨大な祭壇は白と黄色の菊に覆われ、中央に大きな彼女の遺影がある。
誰かが顔を覆い泣き出した。すると、また誰かも泣き出す。
次第に、おおおと嘆きのような声が周囲に響き、空間を埋め尽くしていく。
耐えられないほど大きくなった嘆きの圧力にわたしは耳を塞いで頭を抱えた。
「違う…」
人々が俄かに流れ出す。わたしは津波のような黒い虚ろに抗えず、押し流されるように棺桶から引き離されていった。
兄が、棺桶の向こうに立っているのが見えた。
「兄さんっ!」
わたしは人垣を掻き分けるようにして進もうとするのだが、次々に押し寄せる真っ黒な塊たちに邪魔されて思うように進めない。
「兄さん! 兄さんっ!」
兄が沙耶ちゃんの頬を撫でる。
そして――
笑った。
「兄さん……なんで…」
わたしは黒い濁流に流されていった。
兄も、彼女も、遠くへとその姿が消えていく。
その姿が消える直前だった。
『………』
兄の口が動くのを見た。
しかし何と言ったのかは分からない。
目覚めると、身体中にびっしょりと汗をかいていた。




