ハッチン
昼食を一緒にどうかと誘われたが丁寧に辞退し、わたし達は遠野の家を出た。
帰宅した後、正美は母とお昼の仕度を手伝い、わたしは外に出ることにした。
どこへ行こうというのではなかったが、気付くと川に出たので生霧川の土手に腰掛け川を眺めた。夏の日差しはじりじりと肌を焼いたが、そんなことはお構いなしにぎらぎらと煌く水面を見つめる。
周囲は夏の色に染まっている。
緑は深く鮮やかに広がり、高く真っ青な空には白く輝いてさえ見える雲が浮かんでいる。草の隙間には小さな昆虫達が見える。川の流れる水音がちゃぽちゃぽと涼しげに聞こえて、風も優しく心地良い。
まるであらゆる祝福が降り注いでいるような素晴らしい風景を眺めているというのに、その風景の中でわたしだけがぽつんと染みのように薄闇を羽織っているようであった。
あり得もしない馬鹿げた噂話だということくらい最初から分かっていたはずだ。
実際に事実が分かればこんなものだということも予測できたはずだ。
それなのに真実を理解した途端、心がどこかぽっかりと抜け落ちたような脱力感が広がり全身を包み込んでいる。虚しいとはこういうことを言うのだろうか。
わたしはやはり沙耶に会いたかったのだ。
それが例え幽霊であろうが幻覚であろうが構わなかったのだ。
「会って、何を言うつもりだったのだ?」
自問の呟きが口を突いて出ていた。だが、答えられない。
結婚のこと、死んでしまったこと、兄のこと、それとも。
どれもそうだと思えるし、違うようにも思える。もしかしたら鮮明としたものではないのかもしれない。
会いたいと思う気持ちというのは何を話すということではなく、同じ時間を共有したいという欲求なのではないだろうか。同じ空気を吸い、同じ音を聞き、同じものを感じあうということがそうだとするのならば、初めからそれは叶わぬ願いでしかない。
彼女はすでにこの世界には存在しないのだから。
わたしは結局叶わぬ願いを求めて彷徨っているだけなのだ。
決して満たされることのない願望を求め、失い、こうして途方に暮れている。
なんと無意味な行為だろう。無意味に取り憑かれていることにきっと正美は気がついているのだ。それを知りながらわたしが目を覚ますのを待ってくれている。わたしが本当にすべきことは、ここで過去に取り憑かれて今を見失うことではなく、今を、未来を見据えて彼女を安心させることなのではないか。
わたしは土手から立ち上がり尻を掃った。
その時だった、一台のトラクターがわたしの後ろを通り過ぎて止まった。
「なんだじゃ、随分と久しぶりの顔がこったどごでなにしてるのせ」
嬉々としながらトラクターから一人の男が降りてきて作業帽を取った。
「ハッチン?」
タンクトップの首に巻いたタオルで汗を拭う様はもう一人前の農家の主だ。長靴のがぶがぶとした音を響かせながらハッチンは手を差し出してきた。わたしはその手をがっちり掴んだ。
ハッチンは幼い頃は小太りで馬鹿にされていたこともあったが今はむしろがっちりと逞しくなっている。農家の労働を考えれば肥満などありえないのだが、彼はそれ以上に鍛えている印象だった。
「久しぶりだのぉ、昔からそんな感じだったけども、すっかり都会の人だなや。だから逆に気付いたんだけどもな。今何してらのよ」
明るく笑う彼の肌は日に焼けて浅黒く、まるで南国人のようだ。
「今は広告代理店に勤めているんだ。実は今度結婚する」
「おぉ、んだのが、これはめでたいの。だば報告で帰ってきたんだが?」
「いや、報告は終わってる。まあ結納なんかの日取りも決めなきゃいけないんだけど今回は……」
その時わたしは思い出した。
沙耶ちゃんの一件に関して章正から聞いた噂の始めはこのハッチンであったのだ。ハッチンから話を聞いたバッタが章正に伝え、そしてわたしの耳に入った。
もう既に噂の正体は分かっていたが、彼の話を聞くことで心に空いた穴を埋め、今度こそちゃんと諦めがつくのではないかと私は思った。




