沙耶はそこにいる
「ところで結婚するんだば、おめはこっちさ戻ってくるんだが?」
小父の言葉にわたしは小さく首を振った。
「今の仕事でかなりやることがあるので。戻れません」
「んだが、でも親父さんも寂しいだろうよ。なにしろ今はおめしか居ねんだはんで」
「あんた、ちょっと」
小母は気にしておろおろしたが、小父は動じるでもなかった。
「本当のことだべ。それは本人達が一番分かってんだ。余計な気を使う方が失礼だ。なぁ。まぁ奥さんの気持ちもあるべからな、簡単ではねべけども跡継ぎの問題は他人事ではねぇはんでの」
小父はわたしを真っ直ぐ見て言った。確かにそうだった。
兄のことで余計な気を使われて裏側でこそこそされる方が辛い場合もある。それが優しさからくるものであっても変わりはない。
兄がいなくなって十年になる。どうしているかどころか生きているかも定かではない人間を気にしていられるほど今の農家も余裕はない。跡継ぎが居ないのは遠野の家も同じなのである。ならばまだ子供が居るだけマシな我が家のことを考えて小父は言ってくれているのだ。
「最近じゃあ、多少農業に興味を持って手伝いに来る連中も増えてはきたすけ、自分の田畑を任せられるくらいの者もいない訳でもないけどもな。できれば自分の土地田畑は子に譲りたいのが親心だべ」
「まぁ、そうですね。兄を当てにできる状況ではないですから」
「そんだけども……」
小母もきっとどこかに確信があったのだと思う、兄と沙耶ちゃんの未来に。ところがそれは霞が掻き消えるように無くなってしまった。消えてしまったことを信じたくなければ目を逸らすしかないのはよく分かる。だから小母もいつか兄が戻ってくると信じてくれているのだろう。だが、戻らぬことを認めれば否応なしに現実を突きつけられる。
「おめ、そうやって変な気ばかり使うからおかしなことになるんで。今だって村の連中の間で気を使われてるの知らねべ」
「はぁ、なんのことだべか」
呆れたように小父が言った。
「沙耶が化けて出たって、もっぱらの噂だんで」
わたしはその瞬間、口に含んだ麦茶を噴き出しそうになった。なんとか耐えたのだが、結局は気管に入って咽た。正美が「ちょっと、大丈夫?」と手拭いを差し出してくれたので受け取って口元を拭った。
「そ、それは、どういう」
「最近な、うちの沙耶を見たって話があってな。それを皆が、わ達に気遣って隠してるみたいでなぁ」
こんな村で噂に上れば隠しようがないということか。それがあっさりと当人達のところまで届いてしまっていては気遣いも何もあったものではない。
「たんだ、そもそも勘違いだのさ」
「勘違い?」
小父は煙草をもみ消した。
「んだ、沙耶を見たって最初にへったのは、みつこだのさ」
「んだの」
小母は思い出すようにぼんやり上の方を眺めて同意した。
何ということだ。遠野の家に噂が伝わったのではなく、そもそも遠野の家からこの噂が出たということなのか。こうなると噂を隠している人達こそが滑稽極まりなくなる上、噂そのものが根底から覆る。
「わたしは別に沙耶が居たって言ったんではないんだよ。でも、御滝の方にミズを取りに行った時にね、何処の子か分からなかったけど小さな女の子をちょっと見かけて、それが子供の頃の沙耶にちょっと似てた気がしたから、その話をしただけだのさ」
それがそんなになっているのと小母はあっけらかんと言った。この件に関して二人ともどうということもないように、むしろ申し訳なさそうに微笑んでいた。
「これだもの、余計な気ばっかり遣わせてまって。おめがもっと確りしてればこったらごとにはならねんで」
小父も呆れたように小母を見る。小母は苦笑した。
わたしは呆気にとられていた。
この話が本当ならば、いや本当なのだろう。だとすれば今回の沙耶ちゃんが現れたという話そのものが無かったことと同じだ。
わたしは胸の奥でじわじわと消沈してゆく気持ちを感じていた。
そんなはずは無いと思いながら、どこかで彼女がいるのだ、会えるかもしれないのだと思い込みたかったのかもしれない。だが、それはやはり噂でしかないと分かり、気が抜けてしまったのだろう。
小父がそんなわたしの顔を見て言った。
「やっぱり知ってたんだべ。ほれ、こったに気ぃ遣わせて」
小父が溜息をついた。わたしは弁解でもするように手を振り座布団に座りなおす。
「いや、違うんです。でも村で見たっていう話も聞きましたが」
「噂なんて尾ひれがつくもんだべ、恐らくそれもそうなんだべさ」
「じゃあ、やっぱり…」
小父はくいと首を捻った。
その先には仏壇がある。
沙耶はそこにいる。
小父は無言でそう言った。




