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沙耶

「どうしたの、ぼーっと外なんて眺めて。あ、分かった。またお兄さんのことでも考えていたんでしょう」


 正美(まさみ)はそう言って手元に広がっていたパンフレットをがしゃがしゃまとめて抱えた。


「なんだい、もう終わり?」


 わたしがそう言うと立ち上がった正美は呆れたように腰に手を置いた。


「まぁ今日決めることは決まったし、何よりあなたは上の空みたいだから。それにこれから優希たちと会うのよ。前から言ってあったでしょ?」

「あぁ、そういえばそんなこと言ってたか」

「じゃあ、あたし行くね。招待客のリストはお願い。あなたの方の調整でお終いなんだから」

「わかった、やっておくよ。気をつけて行っておいで」


 正美は「うん」と嬉しそうに言って部屋へ戻ると、出かけの準備でばたばたとし始めた。

 わたしはリビングのテーブルに置かれたパソコンの画面を見つめた。

 結婚式の招待客の名前がずらりと表になっている。クリックすると会場の座席配置図が出て名前がそれぞれの場所に座っている。

 ここはあの人、そこは彼、あそこは彼女。

 そんな風にして段々と席は埋まっていっているのだが、名前はあるのに空席になるであろう場所に目がいくと、不意に寂しさに襲われた。


 兄の席である。

 記憶の中の兄を真似るように、わたしは夏の青葉が広がり始めた窓外を眺めた。しかし、都会に埋もれたマンションの一室から見えるものは一面に広がるコンクリートジャングルで、緑はまるで刺身のつまのように気持ち程度の彩を与えているだけだ。


「じゃあ、行ってきます。なるべく早く帰るから、心配しないでね」


 正美はにっこりと笑って玄関を出る。彼女が廊下を進むたびに聞こえる硬質な音が遠ざかり消えていった。リビングに戻り時計を見ると午後三時を回っている。

 わたしは再び画面と向き合い、そして過去へと意識を馳せた。




 水のような女性だと思った。

 彼女は沙耶(さや)といった。肌は白く透けるようで、真黒(まっくろ)の髪は癖一つなく日の光に(きら)めく清流の滝のように、また風のように涼しげで眺めるだけでも心地良かった。彼女が近くにいるだけで、蒸し暑い家の中もほんの少し涼しく感じられたから不思議である。彼女はわたしをよく可愛がってくれた。


 彼女は兄の恋人であった。

 二人がそれを公言したこともなければ、周囲の誰もそれらしい話を聞いたこともなかったが、二人はいつも一緒にいて、それが周りにとっても当然であり、言葉にせずとも恋人同士にも思えたのだ。

 二人の関係は、わたしがその後知ることになる様々な恋人達の(かたち)とは大分違っていた。

 デートに出かけたり、バレンタインやクリスマスに愛を確かめたり、お互いの意思をぶつけあったりということさえもなかった。誕生日を祝ったことはあったがそれくらいで、恋人らしいと世間一般に言われるようなことには二人そろって無頓着(むとんちゃく)な様子であった。

  当時のわたしにはそれが特別変わっているとは思わなかったのだが、今となればやはりどこか違っていたのかもしれないと思う。だが、その関係こそわたしにとっては理想で、憧れであった。

 二人はごく自然体であった。

 二人が一緒にいることに理由などはなかった。お互いに好きあっていたのだと思うが、それを相手に押し付けることはない。好きだと口にするでもなく、それを相手に求めるでもない。だから二人が喧嘩などしているのを只の一度も見たことがない。この二人と同じ場所にいると、まるで二人でひとつであるかのように交じり合い空間に漂っているようにも感じた。二人でいることが当然で、それ以上でも、以下でもなかった。


 沙耶ちゃん、わたしは彼女をそう呼んでいた。

 彼女は兄の二つ下の幼馴染であった。兄と同様に物静かではあったが人付き合いの苦手な兄とは違い、社交的で村では評判の器量よしであった。皆からはよく慕われ、何かにつけて相談を受けることも多かったので、彼女の周囲にはいつも誰かしらの姿があったように思う。

 だからなのかもしれない。

 彼女は兄といることで落ち着くことができていたのだと思う。

 彼女にとって兄は宿木のような場所であったのだろう。

 兄もきっとそうだったはずで、彼女と居るときの兄はどこか満たされているような、そんな柔らかな表情であったと思う。


 そんな兄が居なくなったのは仕方がないことなのかもしれない。


 わたしが十九になった夏。


 兄が二十九であった夏。


 彼女は二十七であった夏。



 彼女はこの世を去った。



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