兄の部屋
彼女はそのくらい兄を好きだった。
そしてその思いは僅かに翳ることもなく、彼女が亡くなるまで続いていたはずだ。
「約束……破るなんて酷いじゃないか」
頬を涙が伝うのを感じて目を開けると、辺りは暗さを増していた。
どの位座っていたのか、携帯を開くとディスプレイの明かりがやけに眩しくて目を細めた。時間は十八時前になっていた。夏場とはいえ山の中だ。空は明るいがもう日が山に遮られて周囲は暗くなってきていた。これ以上居ては帰路の道程がままならなくなってしまう。
残念ながら噂にまつわるようなことは何もなかった。いや、そもそもあるとは思っていなかったのだから予定調和でもある。
「帰ろう」
そして岩の上に立ち上がった時だった。
小さな波紋が揺れる御滝の滝壷の畔。
少女が立っていた。
――ように見えた。
わたしは刹那、周囲を見回したが、どこにも少女の姿は無かった。
思い入れすぎて錯覚をしたのだろうか。思い入れるにも程があると苦笑し、わたしはズボンを払い、再び藪の中へと足を踏み入れた。
結局、御滝では何も起きなかった。
当然だが沙耶に出会うなどということはあるはずも無い。
一体何を期待していたのかと思う反面、どこかでまだ納得のいかないものを感じていた。
「おう、こんな端っぺりで主役がちびちびやってどうする。こっちゃ来いって」
前庭に広げられたブルーシートの上では宴会が大いに盛り上がり、親戚のみならず近隣の者も混じって何だか分からぬ狂乱の様相を呈していた。あちこちで大笑いが飛んでいる。
叔父に引っ張られていくと、親父の正面へ座らされた。
まるで御白州に引き出された罪人のような気分だ。まあ飲め飲めと脇からコップに麦酒を注がれる。飲み込む端から次が注がれる。
それから暫くは結婚に至るまでの話をせがまれることになった。正美も引っ張り出されてこんなののどこが良かっただの、婚約破棄してウチの息子の嫁に来ないかとか、気付けばわたしへの嫌がらせになり、その内わたしそっちのけで正美と話すことで盛り上がっていた。
結局、酔いどれ達は話の筋を曲げまくって何処へ向かっているのかも分からぬまま、わたしとは関係の無いあさっての方向で別の筋を伸ばし、気がつけばいつの間にか男衆は円座を組み、今後の農業についての論議を始めた。
わたしはその場に居辛くなって席を立ち、兄の部屋へと向かった。
社会人として独り立ちした私の部屋は既に物置になっており、泊まるどころではなくなってしまっている。だが、それはわたし自身がそうしてくれと頼んだからだ。当時、帰る場所があるという甘えを断ち切る為だった。
兄の部屋はそのままである。いつでも戻ってこられるようにと母がそうした。
父は大いに反対したが、母に泣かれれば何も言えなくなった。父も本当は戻ってくると信じたいのだということは何となくだが分かった。
部屋は時折、母や祖母が掃除しているようで綺麗なものだった。本棚に並べられた本たちも主が帰るのをそのまま眠って待っているようであった。この場所だけが時間を止めてしまったようでもある。実際、止まっているのかもしれない。
いつも自分が膝を抱えて座っていた部屋の隅。押入れの前には何も無く、幼い自分を幻視して、兄はわたしをどういう気持ちで眺めていたのだろうかと考えた。
部屋の真ん中に座ると机と本棚がすぐ目の前にある。思っていたよりも狭い部屋だったのだなと実感しながら、風を入れようと窓を開けると、遠くで笑う声や話す男衆の声が聞こえてくる。
「どうしたの? 大丈夫?」
振り返ると正美が心配そうに入口に立っていた。
「あぁ、大丈夫。酔っちゃいない」
正美は酔いを心配したのではない、と分かってはいたが誤魔化すようにそう答えた。
「ここ、お兄さんの部屋?」
正美はそっと隣に来て座った。
「どうした? 顔色が良くないんじゃないか?」
「うん、ちょっと頭が痛くて」
その原因はアルコールではなく、きっと精神的に張り詰めていたのだろう。慣れない場所で疲れが出たといったところか。額に触れても熱はなく、むしろ冷たい。
「大丈夫だから、でもちょっとだけこのままでいたい」
正美はしな垂れるように体重を預けてくる。わたしはその肩を抱いた。
「今日は何をしていたんだい?」
「えと、胡瓜とかトマトとか採ったり、お茶しながらお菓子たべて、あなたの子供の頃の話を聞いてた。トンボ嫌いなのね、知らなかったわ」
そう言ってふふふと笑った。
「笑い事じゃないさ、正美はトンボに噛みつかれたことがないからそんな風に笑える。その時だって――」
わたし達はしばらくそんな他愛も無い話をした。
正美は、普段接していると仕事のできる有能なキャリアウーマン然としていて、さっぱりとした人付き合いをするタイプの女性だ。頼りがいもあるからよく慕われ、後輩や同僚、友人もことのほか多い。
ただ、そんな彼女にも弱点はあった。付き合い始めて分かったが、彼女はとても怖がりであった。
虫やお化けが怖いとかいうことではない。お化けは苦手ではあるのだろうが、そういう怖がりとは少し違っていた。
精神的に少し弱い部分があるのだ。普段の陽気や強気はそれに負けまいとする彼女の強い意志によるものなのだと分かったのは、彼女と付き合って半年は過ぎてからのことだったろうか。それが本当の正美という女性の姿だと分かったとき、彼女のことをもっと好きになった。
自分が少しでも支えてやれたらと思った相手は彼女しかいなかった。だからこそ結婚を決めたし、何より彼女の傍に居たかったのだ。
しかし、今わたしは過去の記憶に引かれてここにいる。
そのことが正美にとってどれだけの負担になっているのか、只でさえ結婚を控えた女性には精神的な疲労が出るし、マリッジブルーにもなるだろう。本当はこんな時こそ支えてやらなければならないというのに、わたしは自分の想いに囚われている。
「正美、聞いて欲しい。君には本当に感謝している。僕達は結婚するんだ。この先もしも君が嫌だと言っても、絶対に離れない」
正美はきょとんとして吹き出した。
「なにそれ、でも今の言葉忘れないでよね」
立ち上がると正美は伸びをした。
「さてと、では片付けをもうひと頑張りしてきますか。先に寝てて」
「体調良くないなら、お袋達に任せとけばいいのに」
「そうはいかないのよ、いいとこ見せなくっちゃ」
無邪気に笑うのを見せられればこれ以上止めても仕方ない。
「無理はしないでくれ」
「うん」
わたしは正美のいなくなった部屋で仰向けになった。
電灯から伸びる長い紐は床近くまで届いている。その紐を引くと電灯は消え、淡いオレンジ色の光になった。
そのまま暫く天井を見つめていた。
格子状に組まれた天井。
角の天井の板がずれているようだ。
そこには黒い三角形が見えていた。
わたしは、あぁ天板がずれているな、と思った。




