御滝
村を円で表すと、南東部に村の入口や村役場があり、実家は北東部に当たる。
北側は山に囲まれていて、円の中心を縦断するようにくねくねと生霧川が流れている。川の周辺には田園風景が広がり、西端には生霧神社がある。
小中合同となっている学校は村のほぼ中央にあり、当時の村長が村の子供達がどこからでも通いやすいようにとの配慮で建設されたという。
村では最も新参となる遠野家は南西の村はずれにその家がある。村の端から端までは凡そ四キロはあるだろうか、その距離をほぼ毎日のように沙耶ちゃんは家まで来ていたのだからご苦労なことだと思うが、彼女は原付に乗っていたのでそれほど苦痛でもなかったのかもしれない。
村の移動は自転車か車が一般的なのだが、久しい村の風景を満喫する為に歩いた。
空は高く青い。巨大な入道雲に光が反射し真っ白に輝いているのが遠くに見える。山から吹き降りてくる風には、田舎独特の自然味溢れた緑と土の匂いが混じっていて心地良い。田圃の畦道脇にある水路がちょろちょろと鳴る。水の音を聞いていると、帰ってきた、そう思えた。
ねじ巻きのおもちゃのように蝉の声が周囲に響いている。
時折、鳶が笛を吹くように鳴くのが聞こえたが、上空にその姿は見えなかった。
ぐるりと周囲を見回せば景色は多く田園風景で、育ってきた稲が緑の穂を揺らし始めていた。
西へと向かった。
村の中心を通る本通りは舗装されているが、古くなりアスファルトがひび割れたりしている。道を村の中心に向かって進み、暫くすると川にぶつかった。生霧川だ。
そこから川に沿った小道が北へと伸びていて、その道を山の方へと進んでゆく。
川に沿って進むと程なく前方に林が現れ、トンネルのように周囲を覆い始める。そこへと入り込み木陰になると幾分涼しくなった。
木漏れ日のちらちら降る中を進む。
深緑が周囲に満ち、隙あらば押し寄せてきそうな雰囲気は、進むにつれてその度合いを増して圧しかかるように鬱蒼としてくる。周囲にシダや苔が増えてきて空気も湿り気を帯びてくると御滝は近い。
その辺りまで来るとロープが張られているのが見えた。
黄色と黒のロープ、脇には『立ち入り禁止』という文字が書かれた看板が杭で立てられている。
正直、この先に踏み込むのは気が引ける。この先で沙耶は亡くなったのだ。最近新調されたらしいロープをくぐってわたしは御滝へと向かって踏み出した。
道は更に鬱蒼として道の体を失い始める。
蔦や伸び茂った繁みを掻き分けながら進み、少しだけ傾斜した道であったらしい跡を登りきると汗はびっしょりと体中を濡らしていた。
正美は連れてこなくて正解だった。
こんなにも険しい道になっているとは思っていなかった。自分にしてもあまりに軽装であちこちに擦り傷や切り傷が出来ている。きっと途中の葉っぱや蔦などでやったのだろう。虫だって多いし蚊にも刺されている。
そこから更に進むと遠くの方から、ざざという音が聞こえてきた。以前よりも明らかに茂っているシダ草を払い進むと道の先が開けた。
御滝である。
高さは約八メートル、垂直に近い角度でそそり立ち蔦を走らせる黒っぽい岩壁は横に長く伸びていて、それを両断するように水が落ちている。滝壺の幅は凡そ十五メートル。深さもそれなりにあって一番深い場所では三メートルはあるのではないかと思うが、あくまでこれは幼少の記憶からの推測である。
滝壺の周囲には大きな岩もちらほらと転がっているが、殆どは砂利か砂礫で囲まれていて本来は比較的安全な場所である。わたし達も子供の頃、夏の時期はよく泳いで遊んだものだ。魚の姿も見えて楽しいのだが水温が低いのであまり長くは浸かっていられなかった。
御滝は記憶にあるそれとは大きく違わぬ姿でそこにあった。
ただし、薄暗い膜が一枚張られたような印象がある。それは思い込みのようなものなのかもしれないが、やはり何らかしら空間に漂う違和感はあった。
神秘的で静謐なようでもあり、禍々しい何かが潜む張り詰めた緊張感のようでもある。
幼い頃に遊んでいたとは思えないほど、今はもっと強くその雰囲気を感じた。泳げと言われて泳ぐ気にはなれない。滝の生み出す波紋の下には何かよく分からないものがいて、足を入れた途端に引きずり込まれるのではないかという不安にさえ駆られる。
臆病になったのかもしれない、そう思うと僅かに苦笑した。
御滝を覆うようにして茂る木々はまるで天蓋のようにドーム型の空間を生み出していた。昔はもっと空が見えていたと思う。今は見上げれば、ちらちらと木漏れ日が瞬くプラネタリウムのように見えなくもない。薄暗い中に光の雨がそっと降っているような趣である。
わたしは滝を正面から見ることの出来る位置にある大きめの岩に腰掛けた。
この岩もまた黒っぽい。ところどころ白くキラキラとしているから、玄武岩であろうか。昔もよくこの岩に登って辺りを見回したものだ。あの頃よりも辺りは苔むしている。
岩に触れると真夏であるにもかかわらずひんやりとした。
細かなしぶきが舞っているのもあって僅かに湿り気がある。
周囲に漂う冷たく湿った空気を肺いっぱいに吸い込み、深呼吸した。そのまま目を閉じて修行僧のように心を静める。
水が岩を伝い降りる音、岩を叩き弾ける水音、水と水がぶつかり混ざる音、雫が落ちる音、溢れ出した水が川と成って下ってゆく音、そして一際大きく、止まることなく流れ落ち爆ぜる飛沫に彩られた滝の音。周囲に満ちるあらゆる水の音たちに浸る。
あの日、彼女は何故この場所に来たのだろう。
あの日彼女がこんな所に来た理由はなんだったのか答えを知る者はいない。
ここへ来なければ彼女が死ぬことはなかったはずだ。命と引き換えにしてまで彼女はなにをしようとしたのだろう。
もし彼女に会えるのならそれが幽霊でもなんでも構わない。わたしの目の前に現れてくれさえすればそれでいい。もう一度だけでも構わない、その為にわたしは来たのだ。
しかし、どれだけ待っても彼女が現れる気配はなく、ただひたすらに想像を繰り返すだけだった。わたしがいくらこうやって想像したところでそれは想像の産物でしかなく、彼女の心とは程遠い。
ならば分かろうなどというのは傲慢である。
わたしたちがすべき、否、できることと言い換えるべきだろう。それは、彼女を忘れず、愛し続けることだけだ。
ただ一つだけ、彼女が最後に何を考えたのかだけには確信的なものがある。
それはわたしの希望や願望とも言えなくは無いのだが、それでもきっと、水に飲まれ沈み行きつつも彼女の中にはある人物の顔が浮かんだはずだった。
これだけは村中の誰もが疑わずにそう思ったはずだ。
彼女は、兄を想ったはずだ。




