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夏の夜のクリスタルレイン  作者: イリ―


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帰省

 あれから十年だ。

 早いものだと思う。わたしは大学を卒業し、広告代理店に就職して激流のように流れていく多忙な日々に押し流されていった。

 今、電車に乗りながら隣で眠っている正美に出会い、五年間付き合ってようやく結婚という区切りにまできた。思い出は多いが歳を経るにつれて時の流れは加速度的に進んでいるような気分にさえなる。

 「時の流れは個人で違う」と言った兄の言葉を聞いたのも、つい昨日のように思えるというのに。


 実家へと向かう電車に揺られ、兄は今どうしているだろうと車窓から見える田園風景をぼうっと眺めていた。実家近くの駅まではまだかなりかかる。

 県庁のある駅からは私鉄に乗り換える。大都会とは雲泥(うんでい)だが乗換駅の周辺には思ったよりも人が多かった。駅前は開発で妙にこざっぱりとした印象に変わっている。大学に通っていた頃の木と緑の多かった古びた印象は失われてしまった。それでも二両編成のローカル線に乗って走ると小さなビルの並ぶ町並みはすぐに途切れ、(かつ)て知る見慣れた田舎の風景へと変わる。都心ほどではないにせよ昔と比べれば電車の本数もずっと増えた。


「緑がきれいね。前のときは緊張して景色もろくに見られなかったから」

「あの時は冬だったから余計だろうね」


 帰省は両親に結婚報告に来た時以来なので半年程しか経っていない。だから特段に懐かしいというようなノスタルジックな感傷は無い。ただ、その時も多忙なスケジュールの合間を縫って訪れたのでゆっくりする余裕もまた無かった。どこかで時間をとって正美に色々な場所を見せてやりたいと思うが、それはもう少し先のことになりそうだった。

 市外部から村はずれの駅までは四十分程かかる。

 距離はそう遠くはないのだがローカル線である為、ことの(ほか)遅い。それでも余程の急ぎでなければ風景を満喫しながらゆっくりとは出来る。近年では希少性が出てきているせいか撮り鉄が線路沿いでカメラを構える姿なども見えるようになった。

 見慣れた風景が顔を現すようになって来た頃、電車はようやく駅に到着した。


 わたし達は電車から降りて実家のある村への道を歩き始めた。この時期は特に山の日差しは強く、それらを避けるように木陰を選んで進む。陽炎(かげろう)と蝉の声は暑さを妙に助長させた。それでも木々の騒めき、緑の草や土の匂いは心を落ち着かせてくれる。

 近年村もその姿を徐々に変化させてきていた。古びた家々は現在いくつも建て替えが進み、歴史を感じさせる古式建築の家屋はその数を着々と減らしている。代わりに近代的なデザインの戸建てが建ち、緑の中に都会的な意匠(いしょう)が差し込まれていく。住む人間からすれば便利になった方がいいのだからそうなる事は当然であるのだが、わたしにはどうもそれが不協和音に感じずにはいられなかった。これも時の流れであり世代交代なのだろうと思う。自分が家を建てることになってもきっと同じような家を建ててしまうのだろう。

 村入口に程近い畑で農作業をしていたほっかむりの男が、わたし達に気付いて声をあげた。


「おぉ、久しぶりだずなぁ。隣の別嬪(べっぴん)さんは噂のお嫁さんだが?」

「お久しぶりです。まだ婚約者ですけどね」

「初めまして、正美と申します」


 正美は隣で頭を下げる。作業の手を止めた日焼けた老人は、ほっかむりを取りながらわたし達の傍まで上がってきた。畑は道から一段低い場所にある。


「そういえば重松(しげまつ)さん、お孫さんもうそろそろでしたよね」

「おう、もうじき臨月(りんげつ)だ。なにせ初孫だからなぁ、ウチのはもうさおりちゃんに付きっきりでよぉ、畑仕事もおらに全部任せっちまって向こうと行き来ばかりでのぉ、大忙しだ。木偶(でく)息子にゃあ帰ってこいってへってらんだが忙しいの一点張りでの」


 彼の息子である(しげる)はわたしの三つ下の幼馴染の一人だ。小さい頃はもやしっ子だったが、今はエンジニアの仕事をしていて室内に閉じ篭り、やっぱりもやしっ子だ。コンピューター関連で困ったときはいつも助けてもらっているから未だに親交は深い。


「滋の嫁さんは()()()さんですよ。いい加減覚えてあげないとかわいそうでしょうに。そう言えば滋とこの間電話で話しましたけど、帰ろうかと思っている風なことを言ってましたよ。」

「んだってが? あいつは農家舐めてやがるからなぁ、戻ってきたら性根叩き直してやる」


 そう言って腕まくりする様は口調に反してやけに嬉しそうだった。そこでふと噂について聞いてみることにした。村ではどれほど広がっているのか知りたかった。


「ところで重松さん。最近おかしなことってありましたか?」

「おかしなこと? なんだそりゃ。こった辺鄙(へんぴ)な村になんてそうそう……ん、そういやウチのがなんかへってらったか。なんだったか」


 重松さんは首をかしげ、日焼けした顔を空に向けた。そのうちに、ぽんと一つ手を叩いて人差し指をわたしに向けた。


「あれだ。見なれねぇ女ってのが村を歩いてたってんだ。そったもん、だから何だってへったんだが、ありゃ亡くなった遠野(とおの)のとこの娘に似てたってへるのせ。遠野んとこだば娘亡くして大分経つが滅多なことはへるもんでねぇと注意したのよ。おらはそんなもん見てねはんでの、きっと何かの見間違いだってそうへったのう」


 そこまで言って、重松さんは正美を一瞬見て気まずそうにわたしを見た。


「つい話しちまったがの、遠野の耳に入ったら、分かるべ。だから、おめんどもこの件は口にするもんでねぇはんでの」

「大丈夫、言いませんって。それに」


 何かに気付いたらしい重松さんは、より表情を暗くし小さく頷いた。


「そういやそんだな、遠野もんだが、おめぇんどこもの……。まぁ、そったのはただの噂だはんでな。あまり気にするもんでねして、それよりもゆっくりしていげな。千恵子(ちえこ)ちゃんも喜ぶべさ」


 そう言ってわたしの肩を叩いた。千恵子はわたしの母の名だ。


「ええ、そろそろ行きますね。また」

 家に向かおうと踏み出すと重松さんが「あとでトウキビ持ってぐはんで」と叫んだのでわたしは手を挙げて応えた。


 それにしてもいきなりこの話が出るのかと、そう思った。

 わたしははっとして正美を見た。来て早々あんな話を耳にしたら怖がってしまうかも知れない。しかし意外なことに正美にそれを気にした様子はなく、周囲の景色をぼうっと眺めていた。わたしの様子に気がついた正美は「なに? どうかした?」と不思議そうな顔をした。もしかしたら話を聞いていなかったのかもしれない。


「いや、なんでもない」

「遠野さんの娘さんって、章正さんが言っていたっていう?」


 ちゃんと話は聞いていたらしい。

 遠野は彼女の姓である。

 章正から聞いた噂では、沙耶ちゃんは御滝に現れたということだったが、今の話はちょっと違っていた。噂が流れるにつれて変形することはあることだが、これもその一種だろうか。

 しかし、沙耶を見たという部分は変わっていない。

 御滝で彼女を見た者と、村で見た者とは別人の可能性が出てくるが、そうなると複数の人間の証言が出ていることになり一つの噂がただ拡大していくのとは少々様子が違ってくる。

 何よりも疑問なのは、さして広くもないこの村で広がる程度の噂で、彼女が現れた場所まで大きく変化するだろうか、ということだ。

 御滝はこの村に住むものなら誰でも知っている場所。しかも沙耶が亡くなった場所でもある。だからそう簡単に変化してしまうとは思えなかった。ならば御滝の話と村の話は別だと考える方が正しいのではないだろうか。

 頭の隅でそんな風に考えながら正美に遠野家のことを簡単に説明していると、間もなくに実家の前まで辿り着いた。


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