微笑み
時間感覚は無くなっていた。
落ち着きを取り戻したわたしは、先ほど彼女の父親が座っていた場所で同じように頭をうな垂れていて、隣には母が寄り添っていた。
顔を上げると遺体の周囲には村人が集まり、涙して慰め合っている姿が見えた。
彼女の両親は彼女の横に座って、頭を撫でたりしていて、その目には愛おしさが満ちていた。
音は無かった。
しかし、入り口の方から誰かがやってくる気配を感じて振り向く。
そこには、見た事もないほどぼろぼろにずぶ濡れた兄の姿があった。
「に、兄さん」
わたしは立ち上がろうとしたが、わたしのことを見るでもなく兄は無言でわたしに掌を向けた。まるで、黙れ、とでも言うように。
兄はどう感じていたのか。最初の自分のような心境だったろうか? だがその歩みは一寸の迷いも無く、躊躇いなど存在しないように正確にリズムを刻み、沙耶の眠る部屋へと入って行った。
その姿を見た村人達は息を呑んだ。
兄のそんな姿はこれまで誰も見た事が無かったのだ。
そして一様に同情、哀れみ、慰め、様々な想いの入り混じった視線を兄に向けた。
十戒のモーセが現れたかのように人波が割れ、沙耶の元へと一本の道が開いた。
それまでわたし達は兄の悲痛を思い、なんと声を掛けるべきか、どうするべきかを必死に考えていた。彼女を取り囲む村の人間は皆悲しみに咽いでいた。誰もが兄の様子を伺い兄の心を支えてあげなければならないと考えていた。自分達の哀しみよりも優先されるほど兄が心配だった。それほど二人の繋がりは強く誰の目にも見えていたのだ。
兄は彼女の真っ白な頬をそっと撫でた。
だが、それだけだった。
兄は興味を失ったかのように彼女の遺体にくるりと背を向けて、その場から居なくなってしまった。その様子に村人は戸惑いを覚えたが、誰かが「今はそっとしてやれ、あいつが一番辛いんだ」そう言ったので納得した。
わたしは遠ざかってゆくと共に涙でぼやける兄の背をただ見送った。
数日経って、通夜も葬儀も火葬も納骨も終えた。
通夜の席で見た死化粧を施された彼女の顔は更に活き活きと美しく穏やかで、ともすれば微笑んでいるようでもあった。兄はといえば普段から感情を強く出す人ではなかったから、いたって普段と変わらないようにさえ見えた。
こんな時でさえ泣き喚くでもない、憤るでもない、苦悶を浮かべるでもない。ただ凪いだ湖のようにそこに居た。
ただ、気付いたのはわたしだけだろうと思う。
献化の間際、兄は沙耶の顔を見つめながら何かを言った。
小さく口が動いただけだし遠かったので何を話しかけたのかは分からなかったけれど、あれは見間違いなんかじゃなかった。
兄は――微笑んだ。
神社で行われた御霊送りの儀式も済むと村はまたいつものように平穏な日々へと戻っていった。一抹の寂しさが村中に漂い残っていたが、誰もが少しずつ元通りの生活を送るようになっていった。
ただ、兄だけはそれ以来言葉を忘れてしまったように何も話さなくなった。
そしていつものように膝を立て、窓辺に座って外を眺めている時間が増えた。
それから初七日が過ぎた頃。
兄は誰にも、何も言わずに村から姿を消した。




