第1章、月面有事
1984年9月12日 アメリカ合衆国航空宇宙軍(USSF) アームストロング月面基地
地球の何倍もの長さを持つ月の昼。太陽の光はフィルターを通さず、ただ容赦なく白い地表を焼いていた。
空気も雲もない世界では、影だけがすべてを物語る。
アームストロング基地に建てられたロケット発射台では、火星有人探査ロケット「フロンティア1号」の最終確認作業が行われていた。
搭載された機器は静かに作動し、点滅する灯は異常なしを示している。発射は翌日の14時。
それは、アメリカが人類初の火星踏破を達成する瞬間になる。
USSF所属の宇宙飛行士ケビン・リードは、発射台とロケットの間にある狭いブリッジに立ち、整然と並ぶ機材を前に自らのチェックリストを反復していた。
「大気圧バランサー、正常。燃料バルブ、閉鎖。ナビゲーションシステム、応答良好」
声に出して確認する。何度も行ってきたこの作業はアームストロング基地の建設時から勤務しているベテランの彼でも慣れることはなかった。期待と不安が胸の内に浮かんでは沈むを繰り返す。
それでも任務は進む。成功に向けて、機械はただ静かに答える。
「ニール・アームストロングもこんな気持ちだったのか...」
確認を終えて基地に戻る途中のケビンは呟く。
基地にケビンが帰還し、報告を行うため管制塔に向かった。
その時、基地内のセンサーが異常を報告した。
「誤作動か?」
管制オペレーターがそう呟いた直後、フロンティア1号を映す外部モニターに異様な閃光が走った。
発射台の下部、整備トンネルの一角で爆発が起きたのだ。
衝撃波は月の重力を跳ね飛ばすことはなかったが、粉塵は舞い上がり、真空の中でゆっくりと弧を描いた。
そしてその灰色のカーテンの向こうに、赤のラインが走る宇宙服が見えた。
「ソ連だ...」
管制塔に到着しモニターを見たケビンが呟いたその声は、直ぐに通信チャンネルを通して基地にいる全員の耳へと届いた。
迷いなく前進してくるソビエト航空宇宙軍の兵士。彼らの手には、ニ段階のコイル配置で初速を段階的に強化するデュアルステージ加速構造と発射直前に磁束を圧縮・解放し瞬間磁力を最大化するフラックス圧縮機構を備える20発装填のAK-79半自動ガウスライフルがあった。
フロンティア1号の警備員が現場に駆け付けるとソ連兵はAK-79を構える。その瞬間、コイルを通り放たれたステンレス製の弾が飛翔する。
警備員の宇宙服の胸部を貫通したステンレス弾は、ただ一発で命を奪っていった。音はない。
空中に漂う血液は真空状態の月で激しく沸き立ち、気化熱でシャーベット状に凍り付いた。
管制塔でそれを見ていたケビンはロッカーから液体窒素強制冷却導管を内蔵したジルコニア系セラミックレールの銃本体に宇宙服背部のバッテリーパックから給電、タングステン合金の弾を発射する15発装填のAR-17半自動レールガンを取り出す。
背部バッテリーに接続し、システムを起動。セラミックレールには電気が通り、液体窒素が導管を駆け抜け、内部温度が瞬時に低下する。
「バレル冷却良好。セラミックレール通電。よし…」
来た道を急いで戻り遠くからソ連軍兵士に向けてAR-17を構えトリガーを引く。
射出されたタングステン合金の弾が、敵兵のヘルメット横をかすめ、月面の岩塊に突き刺さる。粉塵が弾ける。
ソ連兵は、反射的に身を引く。右側の視界をかすめた閃光に驚き、即座に姿勢を低くする。
そのわずかな隙にケビンはもう一度AR-17を構えると慎重にトリガーを引く。
体勢を戻そうとするソ連兵の足に命中する。
「ぐわっ!」
こけたソ連兵は慌てて宇宙服の穴を塞ごうとする。倒れるソ連兵の膝からは白い空気が血液の赤い雫をかき分けて勢いよく噴き出していた。それに気づいた他のソ連兵がケビンの方を向きAK-79を構える。
その時、アームストロング基地からUSSFの兵士が到着し銃を構え、ソ連兵に射撃を始める。
ケビンは音はないもののAR-17から発せられる射撃時の青い閃光とAK-79から発せられるコイルの赤い光で激しい銃撃戦だと理解できた。
ケビンも必死に銃を構えソ連兵に向かって撃ち続ける。
米ソ両国の兵士が倒れる。空気のない世界で、死は静かな物だった。
「これが最後か...!」
ケビンは最後のマガジンを装填しながら、AR-17のバッテリー残量を確認した。
限界は近い。だが後退も許されない。
しかし、そんなケビンの思いとは裏腹に彼はわき腹に鋭い痛みを覚えた。
「ファック...!」
ケビンは朦朧とする意識の中、わき腹に両手を密着させ空気の漏れを阻止した。
しかし、重力が地球の6分の1しかない月面では出血はそう簡単に止まらない。薄れゆく意識の中でケビンはフロンティア1号に目を向ける。それと同時にフロンティア1号の打ち上げプラットフォームが閃光に包まれた。
酸素噴霧と連動して爆発する月面用の爆弾。ソ連軍の兵士がこれを起爆させたのだ。
数時間後、アームストロング月面基地の医療区画。
ケビンはベッドで目覚めると辺りを見渡す。
「良かった...!目が覚めたのか!」
痛むわき腹を気遣いながら寝袋を脱ごうとしたところで医師と仲間の宇宙飛行士が彼を静止させた。
「安静にしてください」
わき腹を抑えながらケビンは彼らに一言だけ言う。
「ロケットは……?」
ケビンの問いに、誰も答えなかった。
酸素供給装置の音だけが、ベッド脇の空間を満たしていた。