第0章、プロローグ
1976年7月21日、ソビエト社会主義共和国連邦 首都モスクワ 赤の広場
この日、ソビエトでは熾烈をきわめた宇宙開発競争の終わりを告げたアポロ・ソユーズテスト計画の成功1周年を祝う軍事パレードが行われていた。
ソユーズ宇宙船19号が地球に帰還したこの日はアメリカ合衆国とソビエト連邦というの二つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴の日であり人類にとっての宇宙開発の大きな一歩であった。
「君たちの築き上げた平和だ。あの兵器たちが第三次世界大戦で使われることはないだろう」
ソビエト連邦の最高指導者、レオニード・ブレジネフ書記長はアポロ・ソユーズテスト計画の功績者ワレリー・クバソフとアレクセイ・レオーノフに話す。
「ありがとうございます同志ブレジネフ。完全な世界平和の時代が訪れることを私は切に願います」
世界初の宇宙遊泳を果たしたレオーノフはそういうと自身らのいるレーニン廟から隊列を乱さず進むソ連軍第2世代主力戦車T-72の車列を見る。
「あのウラルの車長、なんでこっち向いてるんだ?」
レオーノフと共にソユーズ19号に搭乗したクバソフは一台のT-72に指を指す。
そのT-72の車長は他のT-72と同様ハッチから上半身を出していた。ただ、NSVT車載重機関銃を構え、12.7mmの口径をこちらに向けていた。
ブレジネフはそれを見て慌てて叫ぶ。
「二人とも伏せっーーー」
ブレジネフがその言葉を言い切る前に機関銃の重い銃声がパレードの喧騒な音楽を引き裂き赤の広場に響き渡った。
ブレジネフと二人の宇宙飛行士の死後、ソビエトの軍部は迅速に政権を掌握。誰が見ても明らかな、計画された軍事クーデターであった。
政権を握った対米強硬派の軍部はブレジネフを「資本主義に擦り寄る修正主義者」と批判し、スターリン時代を彷彿とさせる粛清を開始した。
デタントのために動いたソビエトの改革派をシベリアへ送り、アメリカを筆頭とする西側諸国に対して圧力を強めた。
翌月には異様な速さで粛清を終えた軍部は月面への有人着陸計画を発表。これにより米ソの宇宙開発戦争(SPACE EXPLORATION WAR)が幕を開け、デタントの象徴たるアポロ・ソユーズテスト計画の成功1周年パレードは冷戦の再開を告げる結果となった。
宇宙開発戦争が勃発すると米ソは宇宙開発競争を越える速度で競うように地球外へと進出、1977年にはアメリカが恒久的有人宇宙ステーションを建設、1978年にはソ連も恒久的有人宇宙ステーションを建設し更には月面着陸を達成、1979年には両国が同時に月面基地の建設計画を発表、1980年にソ連が世界初の月面基地ルナグラードを完成させるも、それに食らいつくようにアメリカが数日遅れでアームストロング月面基地を完成させ、1981年には月面基地の拡大と月資源の開発技術を進歩させた。1982年になると両国は月以外の星に目を向け、火星への有人探査を発表。
それだけにとどまらず、米ソ両国は宇宙を新たな戦場として航空宇宙軍の創設を行い、宇宙空間での戦闘を目的とした兵器の開発も行った。
アメリカのAR-17半自動レールガン、ソビエトのAK-79半自動ガウスライフル、更には衛星兵器まで。
米ソ両国の宇宙での飽くなき競争心は1984年、アメリカの火星有人探査前日に大きく動き出す。
宇宙は今や未知と平和の象徴ではなくなった。
米ソが武力と軍事力を誇示し合う新たなる冷戦の最前線として、その姿を現すことになる。