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嵐の日

作者: くら

 雪ではないのだ。彼は繰り返し考えながら乾いた道を走る、革のブーツ、二重に重ねた綿の手袋。同級生の長い影。春まで地下に居る木の葉、木々は骨身を晒して、横長の光が白黒に道路を切り取る。彼はちらりとその光を見る。弱々しい老い衰えた太陽、壮麗な宮殿や二頭立ての巨獣が曳航する熱球は化石の間に見つかった石板の絵、もはや子供に不安を送る程度にしか輝かない。彼は眩しそうに目を細めて、白い息を吐いた。雲よりも白く脅えていた。

雪ではないのだ。

 彼は走って同級生と肩を並べた。あの雲を見なよ、と彼は言った。

「レイル、気にするなよ」

彼はもう一度繰り返した。

「なあ、気にするなよ。明日は別にお前の誕生日でもなければ、四旬節でもないだろ」

「だけど間違いなくあれは嵐になるんだろう?」

「あれが雪雲に見えるか? 耳を澄ましてみろよ、何の音も聞こえない……これが嵐の前ってやつだ」

三人の少年は山の端にねじまがった雲を見つめた、絵の様に止まった世界に彼等の姿が貼り付いた。黒い並木、土をむき出して横たわる田畑、鐘のない鐘楼、光が真横から当たって子供の丸い顔に深い陰影を作る、老いが蝕むような黒い陰を顔に刻みながら影を長い柱にして彼等は立っていた。二人の目は澄み、一人の目は沈んだ。いつまでもいつもの目に戻ることが無いようだったが、上級の少年が遠くから声をかけて渚で網を引く様に彼等を空から連れ戻した。

「嵐を待っているのか?」

「嵐を待っているのさ!」

ねえ、雪ではないんでしょ? レイルはおずおずと問うた。オールブールに間違いなきゃね、と素っ気なく答えたが、眼窩からその骨の内側には悪意が苔むしているのを漂わせている。

「ガランガラン!」

突然、声を張り上げた。レイルは両肩をちょっと上げた、目はちょっとどころではなく開かれた、悪い汗が乾いた肌にべとついた。

「やっぱり、お前は怖がってるんだな」

「違う! フェユーが大きな声を出すから」

彼は歯を見せて笑った。左側の歯が出っ張ったり引っ込んだりしている。

レイルは食って掛かろうとしたが、止めた。自制心ではなく、何かが折れたのだった。そうだ、怖がっている。という思いが背中で彼を止めたのだ。アウンド・ブリュワー、ビース・テン……。信じられるだろうか、彼は枯れ葉の様に騒々しい世界を離れて地中に想いを潜らせれる。彼を除いた三人はもう話題を変えて彼とともに歩き出した、そもそもが気の優しい友人達だった。


 雪ではないですよ、乳母は窓を閉じた。

「嵐の日ですからねえ」

「嵐は南から来るって本当なの?」

「本当でしょうね、オールブールはそこまで言いませんけど。偉い学者さん達はちゃんと勉強して発見したんですから、きっと本当ですよ」

「オールブールだって間違えることがあるんじゃないのかな」

乳母は微笑んだ。

「オールブールはちゃんと現実を汲み取っていますよ。そりゃ、まだ人間がわからないようなこともあるでしょうし、自分勝手なことをオールブールの言葉だと偽っている人達もいますよ。でもオールブールは、現実をバラバラにして一つずつ取り出して話してくださってるんですよ。だから、オールブールは間違いませんよ」

彼は半ば思考を止めてまたイメージの世界に埋没して行った。そこは百万のがらんどうと真っ暗闇と極彩色を詰め込んで灰色の絵の具で仕上げた街だった。誰もいない。ガン、ガラン、ガン、とブリキのような鐘が鳴るだけの街だった。鐘楼は無人の街で信じられない程粗末な鐘を鳴らしている。不思議な二人の男が中で紐を引き、鳴らしている。繰り返し繰り返し。風で粉々に引きちぎられた死体を下水道に流し込む雨、誰もいないのに地下から絶えず血と肉と糸を引く腐敗の臭いが立ち上る。鼠と腐敗菌の王国、無人の街、鐘、アウンド・ブリュワー、ビース・テン……。

彼の顔が赤らみ白くなった、それから青くなる。乳母は驚いて彼を抱き上げ、ベッドに寝かした。嵐の塔の話が書かれた本をそっと本棚に仕舞った。彼は大丈夫だと言ったが乳母も母親もそうは思わなかったし、早めに帰って来た父は尚そう思わなかった。最後に彼自身もそう思わなくなった。まだ日が落ちたばっかりだと言ったが、誰も理解しなかった。鐘楼の事を聞きたがった口はぴったりとついたままだった。灯りは消えた。彼は冷たい布の塊に閉じ込もった。天井の木目を眺めていると幼い頃からの友であり忘れがちであった大鎌を持ったひょろ長い“予感”と言うものに出くわした。

鐘楼に鐘がなかったじゃないか……。

「おや、どうしたんだい」

腕まくりした父親は柔和な声で言う。

「嵐が怖くなったんだな。よしよし良い子だ。降りてこないで二階でぐっすり寝ていなさい。さぁ、大人は大人で仕事があるんだ」

「おかあさん」

「レイル、寝ていなさい。これから急いでやらなきゃならないんだから」

頭がフラフラして来た。何十回も回転して止まった時のような気持ち悪ささえ感じていた。彼は父の手を離れるとトイレへ向かった。だが、間に合わず洗面台に戻してしまった。


 アプス・キンコル、ラーン・トンデン……二人の名前は死霊術士として知れていた。フールに消えたと言う話から或いは死んだ、或いは魔物に食われた、或いは何か他の魔術に従って星へと消えたと言われたが、彼等は名前を変えて生きていた。アウンド・ブリュワー、ビース・テン。だれもその意味を知らないが、それは魔法の言葉であり彼等の新たな名前だった。魔法の名前を口にするだけで禍いが起こる、だから誰も彼等の事を直接口にはしなかった。分割して、日を分けて話をするのだ。彼等の名は、すなわち、《嵐》の秘密に通じていた。禁じられた名前だった。見る間に過ぎ去っていく速い雲、鳥を引き千切る風、河藻の様に流れる木々、不穏な音、雷鳴。彼等は死霊術士ではなく嵐の使者として生まれ変わったのだった。黒石の塔を守る為に永久に嵐を留めることさえ出来た。彼等はブリキと鉛で出来た大鐘を担いで嵐とともに街々を彷徨い歩く。普通だったらただの嵐と鈍い鐘の音が遠くで鳴るだけ、だが鐘楼の無い街や鐘楼に鐘のない街に着くと彼等はたちまちその鈍い鐘を吊るして大風で鐘を鳴らすのである。「高望み」「八方ふさがり」「みじめ」「しくじり」「倦怠」が鐘から溢れ出る。嵐に戦いていた人間も次第に震えや涙を止め、ただ黙って轟音にさらわれるまま塵芥に交じってその一部になるに任せる。屋根は飛び、窓は破れ、街に人は居なくなる。彼等が何故そんな恐ろしい事をするのかは知られていなかった。《嵐》の供犠のためだとも言うし、彼等が食べる為だとも言うし、甚だおかしなところでは街の富を奪っているのだと言う。彼等二人が何を買うと言うのだろう、ただ黙々と嵐の中を放浪している彼等が買い物をするところなんて誰も見たことないのに。

こう言った話は友人や祖父からも聞いたが、何よりも乳母が語ったものだったし、数々の本が真剣な顔付きで語り聞かせた。彼にとって、それは信用ならない話ではあった。あるべきではない、おこってはならない話だったから(だが同じ理由で極めて信じられそうな話に思えた)。蒲団を鼻まで引き上げて、両膝を抱える。部屋は真っ暗だった。早くもカーテンの向こうで窓が微かに鳴っている。恐るべき静寂が始まりつつあった。

目を閉じて寝ようとすると耳の奥でじぃぃんと音が鳴る。身体の中を血が巡っている音がする、心臓が高鳴りはじめた。


 突然、家が大きく揺れた。

 遂に来た、静寂は短かった。地震の様だ。彼は必死にベッドにしがみついた。真夜中が背中を走る。揺れは一度だけだったが、風は家を掻きむしり、窓を激しく叩いた。ガタガタガタと揺れた窓、隣のおばさんの声が甲高く聞こえた。真っ暗な中で上も下もわからない恐怖に彼は身を竦めた。

まるで虫だ、家はぺしゃんこになって僕は死んでしまうんだ。真っ暗な中で。大風が立て続けに窓を叩いた。もう死んでしまうんだ。馴染みのある自分の部屋から墓地の冷気が溢れている気がしてしかたない。乾いた古い風が緩慢に停滞して何層もの重なりで彼を包んでいる。彼は思わず自分の腕に触れた。温かな腕、すべすべの腕、この、このまだ若い肉が骨になってしまうのだ。風に続く大雨で下水道に流されて、汚物と菌糸と微生物でじくじくに溶けて骨になってしまうんだ。彼は半身を起こした。突然、また家が揺れる程の大風。部屋はもう納骨所の広々とした暗闇に感じられた。自分の部屋をこんなに広く感じた事は無い。無限の穴底。そこはもう自分の部屋ではない。地下の穴ぐら、無言と忘却の世界。彼は身体をじっと固めようとした……震えは止まらない。

しかしひゅうひゅうと骨笛の音を鳴らしながら風はしばし離れていった。今に木槌や大鎌を持ってくるに違いない。それともアウンド・ブリュワー、ビース・テンのところに行ったのかも知れない。僕が祈るのを恐れているのかも知れない。突然、彼は両手を胸の前であわせ祈りはじめた。天のゾート、オールブール、文言なんか知らないが冬の精霊達や沈黙の精霊達にも祈りを捧げた。

……。

風は弱々しく狂った歌を歌っている、幾人もの引き延ばされた女達が窓の隙間に口をつけ歌っている。彼は祈りを続ける。次第に、その効果が現れて来た。すなわち、彼は平静の心を取り戻しつつあった。

鐘楼は大丈夫だろうか。釣鐘は何故外れていたのだろう、古かったから改修しているのだろうか。いいや、大人達は馬鹿ではない。どうして嵐の日に鐘を降ろすものか。きっと嵐が来る前に補強していたに違いない。釣鐘が吹き飛ばされない様にうんと強い鉄の紐や何かを取り付けていたのだ。

風が再び叫喚し、窓に大きな槌を打付けた。牛頭の巨人が暴れている。熱い息、冷たい怒号、「叫んでろ、暴れてろ! 鐘は外れやしないからな!」

彼の中にポツンと火が灯った。心臓の回転がはやくなる。勇気だ、と彼は考えた。勇気がなければならない。彼は暗闇をおしのけるように目を剥いて嵐の方を見つめた。歯を噛み締めた。両手をにぎった。

向かいのおばさんの声がまた上がった。甲高い笑い声が風で揺らぎながら、更にドン、ドン、と風は吹き付け彼の砦を抱えて揺すぶる。笑い声が途切れなく続く。もうおよしなさいよハハハハハ……。ああ、おばさんはもう負けてしまったのだ。アウンド・ブリュワー、ビース・テン。魔法使い。嵐。悪魔。死。腐敗。怖くなんて無い。

「鐘はみんなで守ってるんだ。お前等のブリキのくすんだ鐘なんて鳴るもんか」

彼は一際目を見張って外に強い視線を送った。醜い鐘なんて鳴らさせるものか。祈りは通じるのだ。自分が大きく大きくなって風を捕まえるイメージが暗闇を覆い尽くす。

ガン。

ガラン、ガンガン、ガラガラン、ガラン。

呼吸が喉で固化した。

ガラガラガラン、ガッ、ガララン。

彼の身体は小さくなった。

見張った目は沈黙した。やがて涙が流れ、震えは骨の髄から起こり、筋肉は固まった。

窓が強く叩かれた。

運命の木槌が震われた。

風の呪。

笑い声。

全てが吹き流されて、飛び散り、魂を粉々にした。

彼は塵の様に座り込む。表面だけを残して中身が消えた。

ブリキと鉛の鐘が虚ろの身体に共鳴する。

緩慢な瞬きが止まり、身体の虚空に自分を投げ入れた。

ああ、朝が来る前に終わってしまった! 不気味な二人の影が街よりも暗く、嵐の中で鐘を鳴らしている。吹き荒れる嵐の中を永遠に旅し続ける二人に黙ったまま殺される。

闇夜に破滅の鐘を鳴らす不気味な二人の男。

せめて太陽、一目で良いから太陽をもう一度拝みたい。懐かしい太陽、弱ってもなお輝いてる玉座に拝したい。灰色の鐘の音。彼は両手を上げようとした、だが、ドンと言う槌の音で阻まれた。彼は轢かれた猫の様に世界全てに恐怖していた。ビクッと引っ込めた身体を更に踏む様に空気の槌が窓を連打した。ガン、ガラアン、ガンガン。太陽、青空、なんて遠い。槌の音が窓を破った。彼はナグルーンのような運命を覚悟して両手を天に向けた。

「いつまで寝てるんだ! レイル! 早くしないと風がおさまっちまうぞ!!」

光がカーテンから差し込んだ。

闇が吹き飛び見慣れた部屋がかえって来た。

四角く切り取られた窓から完全な陽光、青空に千切れた雲が糸になって流れている。

友人の顔は少しばかり困っていた。

「怒るんじゃないぜ、俺はちゃんとお前の親父さんから許可を貰って雨戸を外したんだからな。さあ、それよりも……」

フェユーは梯子から窓に身体をもたせ、器用に靴を脱ぐと中へ入った。彼はレイルの腕に肩を通し持ち上げ、窓まで連れて行った。

「寝ぼけやがって」

「……」

「見なよ、楽しいぜ。色んなものが飛ぶ。飼い葉なんて地平線まで飛んでくし、髪の毛だって逆立ちっ放しだ。あんな大きなブリキのゴミ箱だってガラガラ言って転がってる」

灰色の鐘はみすぼらしい古いゴミ箱になって彼の目下を転がっていった。

突然、彼はゲラゲラと笑い出した。

つられて友人達もゲラゲラ笑い出した。

「ようし、嵐なんて怖くないな? そうだろ?」

「その通りだ!」

「じゃあ、早く着替えて来い!!」

フェユーは思いっきりの力と友情で友達の尻をひっぱたくと梯子を下っていった。風でゆらゆらと揺れる危険な梯子だったが、猿の様に降りていく。彼も階下へ下って母親に声をかける。

「嵐の夜は短いね」

「あんたはぐっすり眠り過ぎよ。一番大きな真夜中の嵐にあんた寝言も言わず眠っていたわよ、それをこんな時間に起きて来て」

母親の続けようとした小言を遮って彼は外へ飛び出した。打付けた雨戸を外そうと苦心している父と乳母にも声をかけた。

「鐘楼に鐘なんて必要ないんだよ」

父親は振り返らずに答える。

「嵐の日にはね。あんまり風が強いと鐘が落ちるかも知れないし鳴り続けて五月蝿いし、外すのさ」

なるほど!

彼は、大人達の知恵に感嘆の声を上げながら友人達のところへ駆け出した。

「よし、丘へ行こう。あそこは風の頂点だ」

彼は追い風に乗って走る。丘なんて登ったうちにも入らないくらい。

「馬鹿な噂なんて信じてたんだろう?」

フェユーがこっそりと彼に囁いた。

「昨日までの話だ」

「本当?」

「アウンド・ブリュワー、ビース・テン!」

彼は丘の上から街に向かって叫んだ。

四人の友人もそれに続いた。

アウンド・ブリュワー、ビース・テン!

声が風に乗って街へ広がっていく。まるで餌を投げられた魚の様に人々は外へ出て来て空に目を向けた。

彼等は再び叫ぶ。

アウンンンド・ブリュゥワァァァーー、ビイィィーース・テン!!

うっすらと、雲が変わりだした。いつのまにか鐘楼に鈍い色の鐘がつられていた。

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