訪れし波乱の日(中編)
「……ああ。俺はお前と出会えて、本当に良かった」
ジルヴェストはそう言って、横たわる彼女の側で膝をついた。ソフィアは彼に、苦笑を向ける。
「もう。大げさね、ジルは……」
その瞼が、ゆっくりと閉じていく。皇帝はその場から動かなかった。とうに、執務室に行くべき時間は過ぎている。それでも今だけは、王の仕事を捨ててでも。彼はそこに居たかった。その時。
「失礼します」
外にいたナディアが、ドアを開けて声をかける。彼は振り返らず、少女を見つめたまま口を開く。
「何の用だ」
「お客様です。コンドレンからの使いだとか」
その名を聞いたジルヴェストが、殺気すら感じさせる視線を背後に向けた。ナディアの側に居た侍女が、恐怖に震えてサッと隠れる。ナディアは全く動じなかった。
「ほら、だから言ったでしょう? 陛下は今、ソフィア様のことで過敏になっていらっしゃると。それで? あなたは何を、伝えに来たの?」
彼女から、優しい言葉をかけられて。若い侍女は震えながら話し始めた。
「あっ、あのぅ……公爵様が、至急確認してほしいことがあると。ナディアさんも一緒にと……」
「馬鹿なことを」
ジルヴェストが吐き捨てる。地を這うような低い声で、彼は告げた。
「ナディアをわざわざ王の仕事に連れて行く必要などない。必要があれば、その場で呼べば良いだけだ。コンドレンが今更、そのような事を言い出すとは思えん。本当のことを言え。お前にそんな事を命じたのは、誰だ」
ナディアが微笑む。彼女は1人ではない。その名に固有の意味はなく、ただ皇帝と帝国のために使われるだけの存在。故に、彼女1人を連れ出しても意味はない。たとえ姿が見えずとも、"他のナディア”がソフィアの側に付いているのだから。コンドレンやミルワードにとって、その程度のことは常識だ。クラム家とアドラムも、長い歴史の中で察しはついているだろう。だから、こんなことをするとしたら。
「新しい方ではないかしら。王宮にいらして、まだ日が浅い……そう、例えば。ペラム子爵家のような……」
その名が出た途端に、侍女は耐えきれなくなったような様子で逃げ出す。ナディアは特にその背を追うこともなく、黙ってその場に経ち続けていた。ジルヴェストが呆れ顔で呟く。
「愚かな男だ。何の訓練も受けていない召使いに、頼むことではない」
「ええ本当に。……よろしかったですね、ソフィア様が眠られた後で。このような話は、身重の彼女に聞かせるべきではありませんから」
老女の言葉を聞いて、皇帝は無言で頷いた。彼の愛する少女は、未だ眠り続けている。その腹が微かに動いたような気がして、ジルヴェストは笑みを深めた。