【閑話】 男の幸せは皇帝の苦悩
眠るカトカの側で、マノンが音も立てずに控えていた頃。ジルヴェストは上機嫌で、書類の決済を進めていた。
「どうなされたのですか、陛下。何か良いことでもありましたか?」
昼頃に。執務室を訪れた大商人のアドラムが、人好きのする笑みを浮かべて問いかける。ソフィアのことを考えて少し上の空になっていたジルヴェストは、ほとんど何も考えずにその問いに答えた。
「ああ。……実はな、ソフィアが俺に、身を任せてくれたんだ。おかげで昨日は、忘れられない夜になった」
「ほお、噂の寵姫様が。それは良うございましたね」
アドラムが笑みを深める。ジルヴェストは夢見るような口調で続けた。
「本当に、あんなに幸せなことがあるとは思わなかったが……彼女は今夜も、待っていると言ってくれた。きっと明日も、明後日の夜も。彼女は俺と過ごしてくれる。……もしかしたら、子供も生まれるかもしれない。彼女との間に、俺の子が……」
「ほほう、そうでしたか。では、もしも陛下の御子がお生まれになりましたら、私たちにも是非知らせてください。その時は、とっておきの品物をお送りします」
その言葉を耳にして。ジルヴェストはようやく、頭が回り始めた。王家の血を引く、新たな子供。男ならば継承者となれる可能性を持ち、女ならば姫としての教育を受けることになる。どちらになっても、その子は。
(母親からは、引き離される……)
彼は、冷水を頭から被ったような感覚に襲われた。急に黙ってしまった彼に、アドラムが心配そうに声をかける。
「陛下。私が申したことに、何か問題がありましたかな?」
「……いえ、問題はありません。しかし、王家の……殊に子供の数については、誰にでも話せることではありませんので。彼女との間に、もしも子供が生まれても。私は公にはしないつもりです。ですから祝いの品を贈る必要は、ありませんよ」
彼は咄嗟に、皇帝としての顔で告げた。アドラムはその言葉に納得した様子で、一礼して部屋を出ていく。その姿が見えなくなったところで。皇帝は1人、後宮で待つ少女のことを想った。
(もしも子供が生まれたら。ソフィアは絶対に、自分の子を手放そうとはしないだろう。その時、俺は果たしてどうするべきか……)
前例はある。それはシェリルだ。彼女は2人の娘を、自分の手で育てている。
(……だが、それが許されているのは、彼女がミルワードの娘だからだ。長年、王家の教育係を輩出してきた名家の威光がなければ、彼女とて自分で子を育てるという我儘を通すことはできなかっただろう。……ソフィアが同じ事を言ったとしても、それが通る道理はない)
頭では分かっている。それでもと、彼自身の心が叫ぶ。
(俺は、ソフィアの望みを叶えてやりたい。それがどれほど困難なことでも)
そうして。皇帝は1人、執務室で心を決める。彼は初めて、自分のために。その力を使うことにした。