4. 婚約破棄のあとのティータイム、そしてディナー
「だけどリリ姉さん。そんなに怒る必要ないんじゃない?」
チョコレートのタルトを食べながら、エリックがとんでもないことを言い放つ。
「はあ?」
思わず腹の底から低い声が出る。
「何?怒らずに祝えというの?真実の愛で結ばれた、あの軟弱浮気下衆野郎の幸せを?テメェの軟弱な「ピー」でたくさんの子供が生まれますように、って花束で殴り倒してこいとでも?」
「…リリ姉さん。それ祝ってないよ。」
エリックは、相変わらずの暴言を聞き流すことにして、本題に入る。
「そうじゃなくてさ。リリ姉さん、カール兄さんのこと別に好きじゃなかったでしょ?学園に入ってから様子が変わったカール兄さんを、最近はむしろ嫌ってたくらいじゃない?」
エリックの言葉に、フルーリリの動揺で震え出した手がカップの中の紅茶を揺らす。
「な、何を言うの。嫌うなんて、そんな事…。そんな事は………。いえ、でも。でも私はカールを尊重していたわ。」
姉の動揺が言葉に隠せていない。
「尊重?うーん。例え尊重してたとしても、それって好きって感情じゃないよね。
それにカール兄さんが浮気してること前から知ってたよね?うちの諜報部員に証拠を集めさせてたし、今日の婚約破棄だっていつかは言い出すだろうって予想してたんじゃないの?」
そう。姉は浮気の証拠を集めて報告させ、その報告書を見ながらいつもククククと楽しげに悪い笑顔を見せていた。
――いつも誰も見ていないと思っているようだが、姉さんはどこにいても目立つのだ。
自分は平凡だと低い自己評価を持ち、全く自覚出来ていないようだが、姉には存在感がある。
本人はいつでも周りの風景に溶け込んでいるように振る舞っているが、そこにいるだけで皆の意識が引き寄せられるのだ。
まるで自分がそこにいないかのように振る舞う様子を見て、姉の意を汲み気づいていないふりをしているだけで、皆がフルーリリを意識している。
姉の言動は、本人が思うより筒抜けなのだ。
黙り込んで何も言わなくなった僕に不安になったのか、姉が諦めたように語り出す。
「…確かにカールの浮気は知ってたわ。かなり前からね。でも最初に浮気を知った時は、流石に裏切られた気分で悲しかったのよ。
だって、あれだけ平凡な優しいだけの人だったら、女の子に言い寄られる事はないだろうし、浮気の心配なく穏やかな一生を過ごせると思ってたのよ」
さりげなくディスりながら姉は話を続ける。
「なのにあの平凡野郎…学園に入学した途端、ちょっと仲良くなった女の子とイチャイチャしだして。
僕の婚約者は子供だから、なんてほざいていたのよ。あの浮気ゲス男の方が幼い頭脳してるくせに、私の悪口言ってたの。平凡野郎のくせに酷すぎるでしょう?」
さらに深くディスり出す。
「…10倍返しは淑女の基本よ。」
ポツリと姉は呟くが―そんな基本は聞いたことがない。
そう思いながらも、エリックは話の腰を折らぬよう静かに話を聞く姿勢をとる。
「集めた証拠を突きつけて、大勢の前で浮気を断罪する予定だったの。
今までの罪を皆の前で暴いて、高らかに婚約破棄を告げるつもりだったのに…断罪の舞台に立つ前に自白して、先に婚約破棄を告げるなんて!私の綿密な計画をめちゃくちゃするなんて、本当に酷い男だわ。
浮気野郎の風上にも置けない軟弱下衆男よ…」
トドメを刺して悲しげに瞳を伏せる姉を見つめる。
「………」
エリックはかける言葉も見つからず黙る事しか出来なかった。
だけど。
リリ姉さんが傷ついてないなら何も問題はない。
婚約破棄を自分から突きつけたかっただけで、破棄自体を悲しんでるわけじゃ無さそうだし。
きっと明日には落ち着いているだろう。
エリックは、そうやって自分の中で落とし所を見つけた。
そして悲しむ表情を見せながらも、チョコレートタルトを完食していた姉におかわりを勧めることにした。
その夜、家族が集まったディナーのテーブル席で、フルーリリは両親にカールとの婚約破棄の話を伝えた。
今日のカールの訪問時に、婚約破棄を望まれた事。
それはカールが他の女性を選んだ為であり、それを真実の愛だと語った事。
――そして破棄を既に了承した事。
フルーリリは全て事細かに両親に説明した。
既に破棄を受け入れたという突然の話に、両親共々目を剥いたが、フルーリリが放った諜報部員の浮気調査は実は両親にも常々報告されていたため、娘の判断を受け入れてくれた。
家同士で繋がった婚約だったが、両親も娘の不幸を見たいわけではない。
浮気を許すような娘でもない。
簡単に長年の婚約者を捨てようとする、そんな相手と進む未来に幸せはないだろう。
今回の婚約破棄は、いつかこうなるかもしれないと両親も予想していた事でもあった。予想してたとはいえ、親にも話さないまま勝手に婚約破棄を了承するとは思っていなかったが。
勝手に了承したという点だけを娘に注意して、そして『冷めないうちに食事をしよう』と食事を始める事にした。
父のカスティル伯爵は、こんな日が訪れた時のため日頃から今後の準備はしていたようだ。
明日にでもバージェント家当主との話し合いを持ってくれるらしい。
バージェント家子息の側に全ての原因があるので、事業面でも有利に働かせる事はいくらでも出来るのだろう、父はむしろ機嫌が良さそうな顔を見せた。
母は政略的な事よりも、フルーリリの未来を憂いた。
カールはあまりシッカリしているとは言えないが、優しい子だったのだ。
こんな娘とでも何とかやっていけると思っていたのにと、残念がった。
「あぁこの子を受け入れてくれる婚約者は他に見つかるのかしら…」
母が深いため息を吐きながら、娘に聞こえるように呟く。
「大丈夫ですよ。お母様。私は生涯独身でも気にしません。お父様とお母様の娘として一生側にいますよ」
娘のフルーリリに母の嫌味は通じず、安心してくださいと言うかのように満面の笑みを向ける。
微妙な沈黙が流れたが、結局は娘に甘い両親なのだ。
「しょうがない子ね」
そう言って苦笑しつつも、いつもの穏やかな夕食の時間に戻っていった。
そして次の日、バージェント夫妻からの深い詫びと共に婚約は正式に解消された。
両家で進められていた共同事業の話も、カスティル家にかなり有利なものとなったらしい。
そしてカスティル家にいつもの日常が戻った。
秋空の下、フルーリリとエリックは庭園をのんびりと散策する。
少し浮かない顔をした義弟に気づき、フルーリリは声をかける。
「カールとの婚約がなくなって、私が結婚して家を出る予定も白紙になったけど、心配しないで。
カスティル家の跡継ぎはリックよ。私は親に寄生する事はあっても、当主の座を奪ったりしないわ」
優しく微笑むフルーリリを眩しげに見つめて、エリックは言う。
「リリ姉さん…そんな心配はしていないよ。僕はカスティル家の家族であることが誇りなんだ。跡継ぎの座に固執してるわけじゃない。心配なのは――」
そこで言葉を切って黙り込んだエリックに、フルーリリは心配そうな眼差しを送る。
「――心配なのはリリ姉さんの実態がいつか世間に知れ渡ってしまう事だよ」
再び開いた義弟の口から出た言葉は、姉の悪口だった。
どうやら私の義弟は――家に寄生しようとする姉が、問題を起こしてカスティル家を貶めないか不安らしい。
美しく優しい弟は、とても口が悪い。